表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/56

       8 茜射す黄昏

喉に渇きを覚え、咳が出た。

水に飢えた唇は、無理に動かすと破れてしまいそうだ。


「んっ……」


水が飲みたい。


軽く咳払いをしながら、体を起こした。

いつもの屋根裏部屋。

私は、しっかりと布団を掛けられていた。


ぼんやりとした目をこすると、鮮やかな牡丹の花が目に入った。


床に倒れた、夕鶴姉さん。


私は、飛び起きて姉さんに駆け寄った。


……良かった。夕鶴姉さん、生きてる。


姉さんを明るい部屋で見るのは、これが初めてだ。

あでやかな着物から伸びた細い首。

まるで陶器のように滑らかで、血管すら見当たらない。


「風邪を引きますよ」


私は、自分に掛けられていた布団を姉さんにそっと掛けた。

物の怪が風邪を引くのか知らないけれど。

わざわざ看病してくれた姉さんを見ていると、何かしてあげたくなった。


此処に来て、初めての温かい気持ち。

夕鶴姉さんは、本当に私の姉さんみたいだ。


……姉さん。


私には、家族がいたのだろうか。

人間なのだから、父と母くらいいるはず。

私がいなくなって、父と母はどうしているだろうか。


『思い出して』


私は、忘れているのだ。

両親の事も、自分が誰なのかも。

だったら……。


私は、姉さんを起こさないよう忍び足で屋根裏部屋を後にした。

井戸で水を汲み、冷水で体を清めた。

朝は、風呂が使えない。

それでも私は、銀朱様に触れられた肌を洗い流してしまいたかった。


***


少年に会いに行こう。


私は、まだ日が高い時間から川辺に出かけた。

知らず知らずのうちに早まる足。

少年に会ったら、私はどうしよう。

会いたいけれど、彼は私にいきなり口付けた人。


……私から近寄っていって、変に思われないかしら。


流れる川は浅く、水は透き通っている。

私は水面みなもを覗き、鏡代わりに眺めた。


切り揃えた前髪。

そんなに大きくもない目。


贔屓目ひいきめに見ても美しいとは言えない。


肌だって……。


「……にきび」


両手で顔を覆った。

顔中を何度も触り、ぽつぽつとしたそれを探した。


「ない……」


どうして、忘れていたんだろう。

悩みだったはずなのに……。

化粧をしていない私の肌に、それはひとつも見つからない。

水面を覗き、自分の顔をよく見る。

こころなしか、顎がとがっている。


「きれいになってる……」


にきびという単語を思い出したせいか、自分の容姿に関する記憶がよみがえってきた。


「髪、こんなに長かったかしら」


癖があったはずの髪も、黒く艶やか。

腰の辺りまで伸びている。


『鬼と交わると美しくなる』


『百姫楼』に来て、何度も聞かされた言葉。

昨日の、銀朱様との行いと重なって頭の中で何度も響く。


……怖い。私、変わってしまう。


水面を覗き込んだまま、両手で頭を覆った。

日はそんな私の事などお構い無しに、傾いていった。

短い昼が暮れ、空はまた茜色に染まっていった。


「大丈夫」


水面に、うつる少年の顔。

私は振り返り、少年を見据えた。


「私を知っているの」


少年は、困ったように微笑んだ。


「知っているよ。でも、それ以上は言えない」


茜色の空。

少年は着物ではなく、白い服を着ていた。

日焼けした肌に良く映える、白い……シャツ。


「わたし……。どこか、変わってない?」


少年はゆっくりと首を振った。


……嘘だ。


さっきと同じに見える少年の顔。

なぜだろうか、わかる。

少年の口の端が、引きつったまま固まっている。


やはり、私は変わっているのだ。

少年の態度が、そう言っている。


「これ、食べて」


少年はそう言うと、両手を差し出した。

赤くてかわいい、小さな実。

川辺に生える山桃の実。


「たくさん食べて、帰ってきて」


「えっ」


「だから、食べて」


今、帰ってきてって……。


「ありがとう」


私は、赤いその実をつまんで食べた。


「うっ」


……酸っぱい。

甘酸っぱいというより、ただ酸っぱい。


「美味しくないのか」


泣きそうな顔をして少年がこちらを見ている。


「ううん。美味しいよ」


その言葉がうれしかったのか、少年はもっと食べろと両手を私に差し出した。

赤くて酸っぱいその実を、私は食べた。

ここに来て以来、忘れがちだった食べるという行為を思い出したような気がした。

誰かと一緒に食事をするのは、こんなに楽しい事だったんだ。


夕刻が、闇に近づこうとしている。


「帰らなきゃ」


私はそう言うと、少年に別れを告げた。


「私、薄桃って言うの。あなたは」


名前を聞きたかった。


少年は首を何度も振っている。


「呼ばないよ。それは、きみの名じゃない」


「そう、なの」


闇が来る。


私は向きをかえた。


「待って」


少年の唇が重なった。

またしても、少年は私に口付けた。


闇が来る。


私は、走った。

闇逃れ、『百姫楼』まで走った。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ