6 甘い痛み
『百姫楼』にも鬼がいる。
「薄桃、こんな所をうろうろするんじゃないよ」
百花繚乱の世界を仕切る、年増の女将。
せっかちなのか、キセルを燻らせたと思えばすぐに叩きつける。
「客に、陽の気が障ったらどうするんだい」
黒地の着物は、色味こそなけれど粋。
元遊女の名残か、抜き過ぎた襟からは乾いたうなじが覗いている。
「すみませんでした」
頭から被っていた着物を肩に落とし、丁寧に頭を下げた。
悪いのは私だ。
客の前に姿を見せてはいけないと、女将にきつく言われていたのだから。
「しょうがない娘だねぇ。陽の気が抜けないと使い物にもなりゃしないってのに」
赤い目で私を睨みつけ、またキセルに手を伸ばす。
きつい目元と口調は、この『百姫楼』のやり手婆と呼ばれる所以か。
ゆっくりと煙を吐き出すと、行けとばかりにキセルを横に振った。
「客の目についちゃいけない、裏へ回りな。物置で、夜も昼も明かすんだね」
女将はキセルを口の端に咥えると、妖しく笑い煙を下へ逃がした。
「それから着物は置いて来な。黒紅様のものだろう。客も取れない小娘のくせに、男の匂いをつけてくるなんざ……生意気な娘だねぇ」
花吹雪の着物。
『今日の所は、見逃してやろ』
そう言って闇から逃してくれた、黒紅様。
私は背中に馴染んだそれを、惜しく思いながらも女将に手渡した。
「気をつけるんだよ、薄桃。鬼は美しくとも、鬼。想いを寄せれど、待っているのは地獄」
女将は、鼻で笑うように短い声を上げた。
私は頭を下げ、そのまま裏へまわった。
物置が、今日の私の寝床。
座敷から聞こえる酔狂、女の啼く声。
いつからだろう。
私は、それらに慣れてしまった。
淋しくひとり物置で眠るのと、鬼と交わり夜を明かすのと。
一体どちらが、幸せなのだろうか。
黴臭い物置。
中に入るだけで、気が滅入ってしまいそうだった。
私は入り口の戸を開けると、そこに座った。
体を寄せる場所があれば良い。
私はそのまま目を閉じた。
『泣かないで』
夕刻、赤い空の下で出会った少年。
私の唇に熱を残し去って行った。
唇。
突然の出来事に私は為すがままだった。
今更思い出して、恥ずかしい。
陽の匂いのする少年。
彼は人間かもしれない。
『思い出して』私にそう言った。
彼は……。
「楽しそうだね、薄桃」
「あっ」
背中に、逞しい男の体。
うなじにかかる、冷たい吐息。
その姿を見ずともわかる。
「ぎ、銀朱さまっ」
後ろから抱きしめるように、腰に手がまわされた。
「こんな所で可哀相に」
銀朱様は、手から青い炎を出した。
揺らめく炎は一瞬燃え上がり、すぐに消えた。
一瞬の闇の後、再び青い炎が灯った。
ここは、すでに物置ではない。
一組の布団しかない、私の屋根裏部屋。
なんと、恐ろしい。
物置に居たはずの私が、屋根裏部屋にいる。
「薄桃、今日は何をしていたんだい」
銀朱様は驚くこともなく、平然としている。
後ろから抱きしめたまま、布団の上に降ろされた。
首筋に冷たい銀朱様の肌が触れ、耳朶には甘い痛みが走った。
「ひゃっ」
私が声をあげると、今度はゆるゆると耳朶を口に含んだ。
「ここから逃げれるとでも、思ったのかい」
私は、銀朱様から受ける刺激に言葉が出なかった。
いや、いやと首を振るのが精一杯で。
「逃がしはしないよ、薄桃」
前にまわってきた銀朱様は、朱色の瞳で私を見上げる。
胸元に手をかけ、焦らす様にゆっくり肌蹴させた。
「あっ」
鎖骨の辺りを這う、唇。
時折見える、赤い舌。
……今度こそ、喰われる。
「薄桃」
悪趣味だ。
銀朱様は、怯える私を胸元から見ている。
「案ずるな。愛でてやる」
ひやりと笑い、胸元の顔を寄せた。
美しい鬼、銀朱様。
『鬼に喰われるか、鬼と交わって永遠に生きるか』
永遠になど生きなくても良い。
でも、死にたくはない。
私は……。
受け入れるより他に、何ができるというのだろう。