15 終焉
闇が来る。
鬼の世界も、人の世も。
誰の心にも、闇は在る。
闇が在るのは、光が在るから。
光が在るのは、闇が在るから。
否。
光の無い闇は在れど、闇の無い光は在らず。
盲目の心。
闇しか知らぬ、その心。
僅かでも光が射せば、眩む。
***
闇が、来る。
暗い境内に、抱き合う二人の人影。
最後の抱擁に忍び寄る、鬼の影。
「……健?」
抱き合った健の体が、美桜から離れる。
重さを失くしたように、少しずつ美桜から離れた。
「健っ」
健の体が、ゆっくりと地面に倒れた。
音も無く、静かに。
まるで、誰かに横たえられたように。
「……案ずるな。眠らせただけだ」
美桜の背中から、声が聞こえた。
終わりを知らせる、銀朱の声。
「お待ちしておりました」
美桜は、振り向かずに答えた。
眠らされた健。
微かに上下する、胸。
美桜は呼吸する健を見て、安心したように微笑んだ。
「銀朱様」
するりと振り返り、銀朱と向き合う。
美桜の顔を見た銀朱は、戸惑ったのか僅かに表情を変えた。
「悲しくは無いのか、薄桃。この先、お前はどうなるのか知っているのだろう」
「はい」
満面の笑顔。
美桜は、銀朱と向き合った時からずっと笑顔を浮かべていた。
母親譲りの白い肌。
長い黒髪の下の顔は、百姫楼にいた頃よりも細くなっていた。
大人の女に近づき、少女の丸みを失った美桜。
嫌でも薄紅の姿と重なる、その容姿。
「あの男は、お前の想い人だろう。無理に引き離されて、お前は平気なのか」
責めるでも笑うでもなく、銀朱は淡々と美桜に告げた。
二人の間に、静かな風が吹いた。
後ろで無造作に束ねた、銀色の髪。
銀朱の顔に掛かる後れ毛が、さらさらと艶っぽい。
「良いのです」
美桜は、笑顔のまま答えた。
「私、銀朱様には感謝しています」
「何をっ」
眉を顰めた銀朱に、美桜はなおも微笑んだ。
「ありがとう。銀朱様」
美桜はそう言うと、頭を下げた。
「健を助けてくれて、ありがとう。銀朱様がいなかったら、きっと……。だから、いいの」
ここに来るまで、美桜は悩んだ。
けれど健の無事を知った時、恨む気持ちはどこにもなかった。
人ならぬ、力。
銀朱の力が無ければ、健はこんなに回復する事はなかったはず。
「馬鹿な……」
銀朱は、頭を下げたままの美桜を胸に抱いた。
桜の香りが、苦しい。
「銀朱様。もう一つお願いがあるのです」
胸に響く、美桜の声。
「健の記憶を……。消して下さい。私の存在など、なかったように」
「それは……何故だ」
胸に温かい、美桜の体。
「苦しめたくないのです。もう、二度と……逢えないのですから」
美桜が顔を上げた。
何かを諦めたような笑顔に、薄紅の面影。
「……お前の母親は、違う事を願ったぞ。薄れ行く記憶を、娘の事を思い出させて、と」
「えっ」
銀朱は懐から、小箱を取り出した。
薄紅の、約束の証が入った小箱。
「薄桃、これを」
銀朱は小箱を開いて、美桜に手渡した。
約束の小指。
まだ生きている様な、しなやかな指。
「薄桃、これはお前が持っていろ。私にはもう、必要無い」
「……そんな」
銀朱は、小箱を美桜に手渡した。
大きくため息を吐き、天を仰いだ。
「闇に、光が。お前の世界は、闇にも光があるのだな」
「銀朱様……」
それは、星。
言いかけて美桜は止めた。
悲しそうな銀朱の瞳、見上げたのは涙をこぼさぬ為。
「聞け、薄桃。お前の母親は、約束を違えてはいなかった。違えたのは、私だ」
美桜は小箱の紙を思い出した。
『この身は、銀朱へ』
あれは、お母さんと銀朱様で交わされた約束。
「だから、薄桃。お前は私と来なくて、良い」
「……本当、ですか?」
「嘘は吐かぬ」
美桜は小箱を抱えたまま、銀朱に駆け寄った。
「ありがとう、銀朱様っ」
銀朱の顔を見上げる、美桜。
「……お前の最期は、私の最期だ。薄紅」
銀朱は美桜の顎を掴み、深く口付けた。
青い炎が、爆ぜる。
美桜は眩しくて目を閉じた。
口内が、熱い。
吸い尽くされるというより、何か流れ込んでくるような熱い感触。
熱くて、甘くて眩暈がする。
口付けは激しく、何故か切ない。
私の胸を詰まらせる、銀朱様。
想いが、苦しい。
『ありがとう、さようなら』
言葉にできなかった、別れの言葉。
『別れの言葉なら、要らぬ。笑っていろ、薄桃』
それは、銀朱の別れの言葉。
美桜の心に直接響く、その声。
闇が、明ける。
青い炎は、夜明けの空を静かに灯した。
がくりと、膝が折れる。
美桜が目を開くと、朝は銀色の光。
優しく、眩しい。
あの人の髪色。
美桜は、指で唇をなぞった。
残る感触。
消えた、鬼。
「銀朱、さま……」
美桜の脳裏に、美しい横顔。
悲し過ぎる、運命。
美桜は、小箱を抱えたまま泣いた。
次で終わりです。