12 名残り
こつこつと、靴音が響く。
春だというのに、効き過ぎた暖房。
無機質な作業音。
看護士の柔らかな靴音。
清潔過ぎる、匂い。
健の入院している病室は、外来とは別棟の入院患者だけの病棟。
まだ開いていない売店の隣を抜け、階段を上がる。
健康な私がエレベーターを使うのは、少し気が引ける。
ここには、ベッドでしか移動できない人もいるのだから。
美桜は階段を上がり、ナースステーションの前の部屋を覗く。
急変するおそれのある患者がいるせいか、この部屋は始終ドアが開いている。
「えっ……」
健がいない。
美桜は、部屋の入り口に貼られたネームプレートを見た。
「あのっ」
健の名前が無い。
美桜は、ナースステーションにいた看護士に声を掛けた。
「あら? あなた、確か……宮原さんの……」
「はい。あの、健……。宮原 健の病室は」
茶色い髪を後ろで束ねた看護師は、何度かここで会った事がある。
小柄な体で手際良く動く姿が、印象的だった。
「宮原さんね……移動したの」
「えっ……」
優しく話しかける声に、少しの翳り。
美桜は胸騒ぎを覚え、教えられた部屋へと階段を上った。
***
『 503号室 宮原 健 様 』
ネームプレートの横の扉は、長い持ち手のついた大きな引き戸。
力を込め引くと、あっけなく開いた。
滑らかにスライドする扉の向こうには、ベッド。
「……」
繋がれた、健。
顔には呼吸器が取り付けられ、ベッドの脇には点滴。
点滅する数字と、点灯しないランプ。
『私からは言えないんだけど……』
看護士さんの言葉。
部屋の移動は、良い知らせではないらしい。
家族では無い私には、知らせてもらえないくらい。
「……健」
ベッドの傍に寄り添う。
耳まで日焼けした、肌。
閉じたままの瞳。
健の横顔に、顔を寄せた。
私と変わらない、温度。
健はいつも、私より温かかったのに。
「健」
日焼けした肌の匂いが、今日は薄い。
「ねぇ、健」
勝手な事だと、あなたは私を責める?
「健は、憶えてる? 健は私を地獄から救ってくれたんだよ」
細くなった頬に手を添える。
「それだけじゃない。小さな頃からずっと……いつも助けてくれたんだよ」
反対の手で、慎重に呼吸器をずらす。
「わがままで、ごめんね。最後まで、わがままだよね。私」
健の顔に、涙が落ちた。
泣き顔の、美桜。
赤い瞳に、腫らしたまぶた。
涙を堪え続けた唇が、ぽってりと赤くなっていた。
「でも、健には元気でいて欲しいんだ。私、健が無事ならそれで……」
喉から、何かがせり上がる。
しゃくりあげる美桜に、銀朱の言葉が過ぎる。
『後はお前が与えてやれ』
美桜は健の顔に両手を添えた。
「大好きだよ、健。ずっとずっと、どこにいても」
動かない唇。
美桜は唇を寄せた。
初めて自分から、健の唇に深く口付けた。
喉が、熱い。
閉じたまぶたの裏で、青い火花が弾けた。
「健の事が好きだから……許してね」
健のまぶたが動いた。
「ごめんね。今まで、ありがとう」
美桜はもう一度、健に口付けると部屋を飛び出した。
「ごめんねっ」
本当は、もっと一緒にいたかった。
でも、顔を見ると健に……見破られてしまいそうで。
「ううっ」
美桜は、走った。
涙が止まらない。
押さえた口から、子供のような泣き声が漏れた。
涙は枯れない。
幼い頃から支え続けてくれた、健。
その支えがあったから、あの時だって頑張れた。
だけど、これからは……。
病棟を飛び出し、庭の奥へ走った。
誰にも会いたくなかった。
「うっ……」
美桜は一人、座り込んで泣いた。
「うっく……」
昇り行く陽が、美桜に降り注ぐ。
手入れの行き届いた、病院の庭。
鮮やかな春の花が咲き綻び、匂う。
頬にかかる風が、温かくて優しい。
何て、残酷。
美桜に取り憑くは、鬼の執着。
優しくされれば、別れが辛い。
残るは、名残り。
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