11 迷い
時は過ぎれど、心は癒えぬ。
果たされぬ約束。
果たしてはならぬ約束。
小箱を抱え、鬼の心は晴れぬまま。
果たされぬと知りながら。
果たされたいと願う。
けれど。
果たしては……。
女の指は、柔らかくて白い。
あの日と変わらぬ手触り。
鬼の心にも変わらぬ想い。
……そんな酔狂。
願った女、誓った鬼。
違えたのは、誰。
***
女の白い手が……手招きする。
格子の向こうから、おいでおいで、と。
その柔らかな手に引かれ、暖簾をくぐる。
目の前には、女。
赤い紅を引いた、遊女の私。
「みお。……美桜っ」
聞き馴染んだ、優しい声。
「……おばあ、ちゃん」
「美桜。こんな所で寝ては、風邪を引いてしまいますよ」
夢を見ていた。百姫楼の夢。
立派な遊女の私の姿に、心臓が高鳴る。
夢では済まされない、夢。
「可哀相に。こんなにやつれるまで、健君の事を心配するなんて」
乾いた優しい手が、頬を撫でる。
おばあちゃんの手は、いつの間にか細く筋張っていた。
白かった手に、まだらにできたしみ。
さらさらとした感触が心地よい。
「心配かけて、ごめんね」
おばあちゃんの手に、私は手をのせた。
小さな、乾いた手。
いつの間にか追いついて、追い越してしまった大きさ。
「謝る事なんて、何にもないんだよ。美桜が元気でさえいてくれたら、それだけで。それだけで、おばあちゃん幸せなんだよ」
優しい手が、重ねた手を握り返す。
「きっと、健君も同じ気持ちだよ。あの子は昔から、美桜の事を守ってくれた、優しい子だったからねぇ」
「おばあちゃん……」
「大丈夫。あの子は強い子だよ。きっと、目を覚ますよ」
「うん……」
おばあちゃんの言葉が、小さな棘のように胸に刺さった。
おばあちゃんは大きな心で、健の無事を信じている。
なのに、私は……。
『健を、助けて下さい。私は……どうなっても、構いません』
鬼と約束を交わしてしまった。
この身を代償に。
けれど、それだけで済むのだろうか。
『攫われそうになった娘の代わりに……薄紅姉さんは、この世界へ来たのです』
夕鶴姉さんに教えてもらった、お母さんの真実。
お母さんは、自分と引き換えに私を救った。
私はそれで……本当に救われたのだろうか。
おばあちゃんだって、おじいちゃんだって。
娘を失った悲しみは、きっと……計り知れない。
「どうしたんだい? 美桜」
「えっ……と。あっ。健。健のお見舞いに行かなきゃ。学校に行く前に、ちょっと寄っておきたくて」
美桜は、机から立ち上がった。
おばあちゃんに、不安な心を知られるわけにはいかない。
「シャワー浴びたら出かけるから」
「そうかい。気をつけるんだよ。それから、健君にもよろしく」
おばあちゃんは、美桜の肩をぽんぽんと二度叩いた。
その力の弱さが、優しく心を落ち着かせる響き。
「おばあちゃんっ」
部屋を出て行こうとした、後姿が振り返る。
「……ありがとう」
今まで、ありがとう。
ここまで育ててくれて、ありがとう。
感謝は、尽きない。
おばあちゃんは、横皺だらけの顔で微笑んだ。
……ごめんなさい。
「美桜?」
「ううん。何でもないよ」
笑顔で、嘘を吐いた。
上げた口角は、部屋が閉まると同時に下がった。
「ごめんね……」
私はおばあちゃんを、一人にしてしまう。
『健を、助けて下さい。私は……どうなっても、構いません』
美桜は、ため息を吐いた。
自分はどうなっても構わない。
けれど、おばあちゃんや健はどう思うだろう。
きっと、苦しむ。
お母さんを失った時の、私のように。
健を助けたい気持ちは、今も変わらない。
ただ、私の選択は正解だったのだろうか?
「……とにかくっ」
健に会いに行こう。
私は、考えるのを止め出かける準備をした。
シャワーを浴び、着替えを済ませ……。
「さようなら」
迷う心を閉じ込めて、私は部屋を出た。
「さようなら」
大好きなおばあちゃん。
私がいなくても、悲しまないでね。
「さようならっ」
私が育った家。
「……行ってきます」
私を待つ、地獄。
百花繚乱、女の地獄。
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