5 頬に刀傷
闇が、闇が迫る。
走る私の後ろから、不穏な気配。
「おめぇ、どこの姫だぁ」
低く、しゃがれた声。
銀朱様とは違う、品の無い話し方。
下級の鬼か、物の怪か。
闇は私を捕らえていた。
「ちょうどいい。おめぇ、相手しろ」
にやりと黄ばんだ牙を露わに、赤黒い顔をした鬼がこちらを見ている。
ねっとりとした視線で、舐めまわすように。
身震いがして、自分の体を両手で抱きしめた。
……怖い。
私の体は小刻みに震え、一歩も足を踏み出す事ができない。
……誰か、誰か助けて。
こんな時、誰の名を呼べばいい。
私には、夕鶴姉さんと銀朱様しか名を知る者はいない。
……誰か。
「おいっ」
黙って震える私に業を煮やしたのか、ごつごつした手が私の肩を掴んだ。
「熱っ」
鬼は急に手を払いのけた。
『陽の気』だ。
私に触れた手を痛そうに振り回している鬼を見て、私は確信した。
『銀朱様だから触れていられたのよ』
夕鶴姉さんの話は、本当だった。
「おめぇ、人間か。許せねぇ。喰ってやる」
鬼の形相。
怒りに拳を震わせ、牙を剥き出している。
「いやぁ……。やだ。誰か……たすけ……て」
鬼は充血した目で私を睨みつけ、じわりと距離を縮めてくる。
私は恐怖で動かない体を抱え、震える事しかできない。
「無粋だねぇ。震えちゃってるよ。可哀相に。」
炎が、ぱっと鬼と私の間に現れた。
銀朱様。
いや、違う。
炎はゆらゆら赤く、銀朱様のそれとは違っている。
「ここは、色町。女は喰い物じゃねぇ。よぉっく味わうもんだぜ」
「貴様っ、邪魔する気か」
鬼が掴みかかろうと、大きな腕を振り上げた。
一瞬の出来事だった。
深紅の炎が舞い上がり、鬼を覆いつくした。
「うわぁあああ」
炎の中で狂ったように、もがく鬼。
じりじりと、焼け落ちていくその様。
「い、いやぁ……」
まさに、地獄絵図。
「姫さん。ひとりで、こんな所にきちゃいけないよ。見世で習わなかったのかい」
男は、何事もなかったかのように振舞っている。
目の前で鬼が、焼かれているというのに。
「ご、ごめんな……さ、い」
ここは、恐ろしい。
私は、その場に座り込んだ。
腰が抜けるとはこのことだろう、体中の力が抜け立つ事ができない。
「あれ。姫さん……まだ人間かい。陽の気が強いなぁ」
男は隣にしゃがみ、私の顔に張り付いた髪の毛をはらってくれた。
「なんや、可愛いなぁ。顔に幼さが残っとる。はて、どっかで見たような……」
男は大きな目を凝らし、私を見ている。
妖しい、紅い瞳。
左の頬には切られたような傷が、白い肌にくっきりとついている。
無造作に垂らされた黒髪は長く、顔を動かす度にさらりと揺れる。
美しい、鬼。
男は立ち上がり、肩に掛けていた着物を脱いだ。
乾いた衣擦れの音。
ふわり、私は包まれた。
「今日の所は、見逃してやろ」
男は、自分の肩に掛けていた着物を頭から私にかけた。
白地に、しなった枝と花吹雪。
「俺の名は黒紅。姫さんは」
花吹雪。
「姫さん、名は」
花吹雪……。
「……薄桃です」
私は、どこかでこれを……。
「薄桃……。あ、そういう事かぁ。そうか、そうか」
男は、ぽんと手を打つとにやりと笑った。
口の端には牙。
男は私を着物で包むと、『百姫楼』まで送ってくれた。
「薄桃。これからが、楽しみやなぁ」
頬に刀傷。
黒髪に紅の瞳。
黒紅様は、真っ赤な舌をちらりと見せて笑みを浮かべた。
鬼は美しく、恐ろしい。
鬼の名前が決まらず苦労しました。
着物も難しいです……。