10 静寂
闇に紛れ、家路を急ぐ。
人気の無い道。
道標の代わりに、街灯が点々と足元を照らす。
早く、帰らなくては。
私には、時間が無い。
闇が明け、再び闇が包むその時まで。
残された時間は僅か。
その僅かな時間で、私は……。
全てを捨てる準備をしなくてはならない。
美桜としての自分。
健への想い。
これから先の未来。
全てを捨てなくては、この願いは叶えられぬ。
「……仕方ないわね」
夕鶴姉さんを、真似てみた。
あの悲しい横顔が、今も忘れられない。
仕方ない。
そうやって、一つ一つ諦めて。
百姫楼の女になるのだろうか。
見慣れた街が、今日はどこかぎこちない。
闇を彷徨っていると、いつか百姫楼に辿り着いてしまいそうで。
怖い。
「ただいま」
家の前で足を止め、美桜は呟いた。
ここはまだ、自分のいる世界。
住み慣れた、家。
これが最後になる、帰宅。
黒い瓦の屋根、玄関の脇の柱。
庭の梅の木には、毎年小さな可愛い花が咲く。
私が育った、家。
こんなに見つめたのは、初めてかもしれない。
「ごめんね」
美桜は静かに引き戸を開け中に入ると、自分の部屋へ滑り込んだ。
「ごめんね……」
ドアに背を預け、呟いた。
自室で眠るおばあちゃんを思うと、悲しい。
「ひとりぼっちにしちゃって、ごめんね」
おじいちゃんは、去年亡くなった。
無口だけど、あったかい手をしていた。
最後まで私の身を案じてくれた、優しい人。
それからは、おばあちゃんと二人。
助け合って、生きてこうって……約束したのに。
美桜は唇を噛んで、涙を堪えた。
最後の日くらい、泣かずに笑顔で過ごそうと。
その後も、眠る事はできなかった。
慣れ親しんだ部屋で、思い出に浸るでもなくただ呆然と。
机の引き出しから、あの鶴を取り出しては眺めた。
桜模様の千代紙。
褪せた色の、悲しい折り鶴。
そのうちに、窓から朝日が差し込んできた。
柔らかくて、暖かい日差し。
『一番日当たりの良い部屋は、美桜にあげよう』
お母さんがいなくなってこの家に来た時、おじいちゃんが用意してくれた。
喜ばそうと、カーテンも絨毯もピンク色。
本当は水色が好きだったけど、この日から私はピンクが好きになった。
優しい、薄桃色。
「何かの因縁かしら」
机の上の鏡に、美桜の顔が映る。
「紅を引けば、充分ね……」
やつれ、諦め顔の美桜。
憂いた顔は、百姫楼の遊女と同じ。
***
白い肌に、歪な桃色。
夕鶴は、湯上りの肌を鏡の前で晒した。
肩から真っ直ぐに刻まれた傷は、あの日の証。
夕鶴は、愛おしそうに指でなぞった。
「これで、間違えないわ」
銀朱の憎しみが刻まれた、傷。
薄紅姉さんの身代わりには、もうなれぬ。
顔を見なくても判る、私である印。
「ふっ」
夕鶴から、笑みがこぼれた。
「もう、逢えぬというのに」
銀朱はもう、夕鶴の元には来ない。
夕鶴の顔に面影を重ねる事も、身代わりに抱かれる事も。
もう、無い。
「仕方ないわね」
裸の肌に、着物を羽織る。
薄暗い部屋に、たった一人。
黒紅は、いない。
思い上がっていたのだろう。
優しくされたあの日。
次の日には、もう黒紅の姿はなかった。
邪魔ならば、追い出せば良いのに。
一人は、寂しい。
誰もいない部屋は、時が止まったように静か。
待つのは、辛い。
それは、いつかの記憶。
寂しい、ひとりぼっちの私。
障子に手をかけ、僅かな隙間から外を覗いた。
青い炎は、銀朱の炎。
期待しても、外は闇。
燃え尽きた、百姫楼。
「火事の野次馬か。はしたないなぁ」
「はっ」
突然声を掛けられ、夕鶴は短く息を飲んだ。
振り返ろうとすると、肩に乗せられた黒紅の顔。
近すぎて、表情が見えない。
夕鶴の肩に顔を乗せ、腰に手をまわした。
「どうしたのですか」
黒紅の重さが、夕鶴にかかる。
心なしか、声に力が無い。
「何かあっ……」
問いかけた夕鶴を、黒紅が遮る。
「銀朱が死ぬで」
穏やかな声で、戯れを。
「そのような事は……」
「死ぬ」
嗜めようとする夕鶴に、黒紅ははっきりと告げた。
「銀朱は死ぬ。それも、近いうちに」
夕鶴は、それでも笑っていた。
「そのような事はありませぬ。鬼は、嘘を吐きますから」
闇夜に、夕鶴の声が響く。
燃え尽きた百姫楼。
照らす光も無く、何処までも暗い闇。
今宵は、月も出ない。
闇夜に二人きり。
互いの表情は、見えぬ。
感想&評価&拍手ありがとうございます。
拍手の返事は活動報告にあるので、見ていって下さいね。
弱小サイトですが、応援してくれる方がいてくれる限りがんばります!