6 気配
闇夜に映えるは、少女の白い手。
細い肩、やつれた頬。
長い黒髪は夜露に濡れ、俯いた少女の頬に張り付く。
重ねた掌は唇に添えたまま、小さく震える指。
それは、祈り。
枯れるほど泣き尽くした瞳から、なおも流れる雫。
一粒、また一粒、雫が落ちる。
震える唇からこぼれるのは、神の名。
縋るものは、もはや神のみ。
神のみ。
祈りを続ける少女。
衰弱した心に、邪な影が過ぎる。
願いを叶えてくれるなら。
蛇でも鬼でも。
***
「……銀朱」
強い鬼の気配、銀朱は姿を見ずとも相手が誰かわかっていた。
「お前に用などない」
銀朱は短く吐き捨てるように言うと、目を閉じた。
闇の中で一人、憂うように川辺に座っていた。
静かに流れ続ける水の音、風に吹かれ草木の擦れる音。
色街には無い、静けさ。
「相変わらず、連れないなぁ。俺は邪魔もんか」
赤い炎が揺れる。
黒紅は少しの間を起き、銀朱の隣に腰掛けた。
腑抜けたとはいえ、相手は銀朱。
間合いは慎重に取らねば、命取り。
いつだって計算高い黒紅は、にやにやと笑いながら銀朱に話しかけた。
「俺が邪魔で愛しい声が、聞こえんか」
銀朱は片目を開けて黒紅を見た。
この男の抜け目のなさは、嫌でも身に染みている。
軽口を利きながらも、何もかもを見通し思うが侭にしてしまう男。
「何の用だ」
「……別に。知らん仲やないやろ。偶然見かけたから、声掛けただけ。それとも何かおもろい事でもあるんか」
「下らん」
普段なら、銀朱もすぐに立ち去っていただろう。
けれど、今は違う。
川の向こうから、伝わる想い。
聞き覚えのある声に、耳を澄ませていたかった。
「お前に聞こえるもんは、俺にだって聞こえるんよ。なぁ、銀朱。お前は鳥居をくぐるつもりか」
銀朱は、観念したのか両目を開け黒紅を見た。
にやにやと笑みを湛えた口元。その反面、目が笑っているのを見た事が無い。
本気か、冗談か。
この男ほど、本意の見えぬ者は無い。
銀朱が黙っていると、黒紅が続けた。
「お前が行かんなら、俺が行こうか。女でも攫いに。お前が百姫楼を燃やすから、退屈で退屈で。そうや、あの女。今うちにおるで」
「知らん」
「知らん事ないやろ。夕鶴や。薄紅亡き後、よう通ったやろ。囲うてるわけやないから、好きにしたら良い。抱くも、斬るも」
「つまらん」
銀朱はうんざりしたように、また目を閉じた。
集中していないと、聞き漏らしてしまいそうな儚き声。
心に甘く響き、心を疼かせるあの声。
少女の声は切ないほどに、違う男を想っていた。
「つまらんのはお前や、銀朱」
黒紅は、銀朱の胸倉を掴んだ。
白く美しい顔に、その顔を寄せ呟いた。
「焦がれて、腑抜けたな」
じりじりと掴んだ胸倉を捻り上げる。
銀朱は何もせぬまま、涼しい顔をしていた。
「鬼が心を砕いて、どうするんや。情けないっ」
「……」
取り合おうとしない、銀朱。黒紅はなおも締め上げた。
「頬の傷を見ろ。俺に傷をつけたんは、銀朱、お前だけや」
黒紅の逞しい腕が、銀朱を持ち上げる。
銀朱は苦痛に顔を歪めるどころか、知らぬ顔をしていた。
「お前こそ女々しい。傷ぐらいで騒ぐな。用が無いなら、去れ。お前の顔など見とう無い」
そう吐き捨てる銀朱から、黒紅は手を離した。
口元から笑みは消え、無表情のまま立っていた。
「消えろ」
銀朱はそれだけ言うと、着物の合わせを整え再び座った。
目を閉じ、鳥居の向こうから漏れる声をただ聞いていた。
「話にならん」
黒紅は銀朱に向かって、そう呟いた。
けれど、黒紅にはわかっていた。
銀朱の気配が、弱い。
掴んだ胸倉からは、以前のような気配が感じられなかった。
「銀朱。お前、このままやと……死ぬで」
気配が弱まる事。
それは鬼としての終わりを意味する。
「美人薄命、ちゅう事か。銀朱。俺はお前の事が、そんなに嫌いではないんよ。お前は美しいからな。次は、もう無いかもしれんな。これでまた、退屈になるなぁ」
黒紅は、銀朱の背中に向かって呟いた。
川のせせらぎと、同じくらい静かな声で。