4 同士
真実は、闇の中。
したたかに、様子を伺っている。
黒が白に、白が黒に。
あるいは、朱にも染まる。
真実は、闇の中。
明かせば苦にも楽にも、人を翻弄する。
***
「夕鶴」
用無しの体に、男の着物が掛けられた。
障子の隙間は既に閉じられ、暗い闇が来ていた。
夕鶴は細く目を開けた。薄暗い部屋の中、ぼんやりと灯りが灯る。
百姫楼はまだ燃えているのだろうか。そう思っても体が重い。
ただ、それが何度も果てたせいなのかそれとも……。
『銀朱様を傷つけてしまった』
夕鶴は、自分の胸を押さえた。貪欲にも続く鼓動。痛く、苦しんでも死ななかった自分。夕鶴は、悔しさに唇を噛んだ。
「思い出したんか、夕鶴」
与えられた着物を、体に引き寄せる。衣擦れの音が、静かに響く。
「……鬼の心も傷つくのでしょうか」
夕鶴は銀朱を想った。殺されたいばかりに、私は姉さんの死を銀朱様のせいにして……詰ってしまった、と。
「なんや。おもろい事、言うなぁ」
隆々とした無駄の無い筋肉。黒紅は夕鶴に背を向けたまま、新しい着物に袖を通した。
「心に傷がつくのは、弱い人間だけやろ。鬼はやられたら、何倍にもして返すもんやろ。心なんてもんは、鬼には無い。無駄な期待をするな」
吐き捨てるように、黒紅が言った。
「黒紅様は、薄紅姉さんが死んで何も感じなかったのですか。あんなに……執着しておられたのに。あれは、愛して……」
薄紅に対する尋常では無い、黒紅の執着。あれは、愛していたからではないのだろうか。
銀朱に真実を知られた今、夕鶴には怖いものなどなかった。
逆らって殺される。それでも、構わない。
「何を、感じるんや。夕鶴」
黒紅は夕鶴に目もくれず、慣れた手つきで帯を結ぶ。
「愛とは、何や。無理やり連れてきて、嫌がる女を抱く事か。それとも……。終いに呪い殺してしまう事か」
帯の締まる音が、部屋に響く。
着替えを済ませ振り返った黒紅は、にやりと笑い夕鶴を見下した。
「欲しがられると、困るなぁ。いらんもんでも、やりたくなくなる」
冷たく言い放つ黒紅。夕鶴の肌が、恐怖で粟立つ。顎を引き、長く垂らした髪に顔を隠した。
「の、呪い……殺す」
「そうや」
黒紅は夕鶴の髪に手を差し、頬を撫でた。
「指、切らせたやろ。なのに、簡単に治すと思うか」
「えっ……」
間近に迫る、顔。その顔は笑みさえ浮かべている。夕鶴は、黒紅の底知れぬ恐ろしさを知り、目が離せなくなった。
「溢れる血に、呪いを混ぜてやった。呪いは、切れた管を通って体中にまわるやろ。まわりきったところで、塞いでやったんよ」
指を切った姉さん。傷を塞いでくれた、黒紅。
それは、せめてもの優しさ……では、なかった。
「他の男と交われば、命を削る呪いを」
「嘘……」
黒紅との別離は、死。姉さんは、解放されたわけではなかった。
「そんなっ。銀朱様は、知って……」
黒紅はにやりと笑い、夕鶴の耳を舐めた。
ざらりとした感触が、恐ろしい。
「知らんやろうなぁ。けど、殺したんは銀朱や。あのまま薄紅に手を出さんかったら、薄紅はきっと今も……。娘の為とか言うて、ここにおったやろなぁ。お前も、元の世界に帰れてたのに。けど、お前はここに居たかったんやろ。鬼と交わる快楽の日々。老いる事の無い体」
甘噛みされた耳朶。
夕鶴はじんとするその感触で、我を取り戻した。
「嫉妬ですか」
夕鶴の言葉に、黒紅の動きが止まった。
「黒紅様は、やはり姉さんに執着しておられたのですね。奪われるくらいなら、亡くしてしまおうだなんて。女の私から見ても、男の嫉妬は恐ろしいものですね」
夕鶴は、向きを変え黒紅と向き合った。
「力は強くとも、中身はまるで幼子」
そう言って、両手を黒紅の頬に当てた。目を閉じ、そっと静かに口付けた。浅く、ただ重ねるだけの唇。
闇の中、灯りがぼんやり二人を照らしていた。
「私と同じ。想いを寄せても叶わぬ……可哀相な人」
白く細い腕を伸ばし、黒紅の肩に手をまわした。
強く、卑怯な鬼。姉さんを亡き者にし、その罪を銀朱様に着せた恐ろしい鬼。
けれど、姉さんを愛していた。誰にも渡せぬほどに想いを寄せていた。
欲しがっても欲しがっても、与えられない。
夕鶴には、その辛さが伝わってくるようだった。
「お前と同じ……か。二人の邪魔をした事だけは、お前と一緒や。それ以外は、ちゃうやろ。……もう、終わった事は良い。終わったんやから」
ため息と共に、黒紅が夕鶴の腕に顔を沈めた。
「けれど、私の罪は消えませぬ。私の醜い心が、二人を壊して…亡き者にしてしまったのですから。私が箱を渡していれば、こんな終わり方ではなかったはず」
「……もう、良い」
素肌にかけていた着物が、するりと落ちた。
黒紅は夕鶴の体を抱き上げ、膝にのせた。
「鬼の寿命は永い。いちいち悔いていては、勤まらず、や」
「そんな……」
何故か、黒紅の手つきが優しい。
繰り返された行為の中で、こんな風に扱われたのは初めて、だ。
「銀朱が、弱っとるらしい。お前、銀朱のところへ行くか」
「……いえ。私にできる事など、ありませぬ」
「そうか」
心地よく、溶け始める体。
夕鶴は、銀朱の事を思った。
呪いの話をすべきか、どうか。
けれど、それで銀朱が癒されるだろうか。
怒りの刃を、黒紅に向けるだけではないか。
それなら……。
憎まれるのは、自分。
それで、良い。
愛されなくても、憎まれていれば良い。
『さよなら、銀朱様……』
夕鶴は、心の中で呟いた。
***
闇が青い。
それは、闇が明ける少し前の色。
黒紅は、静かに障子を明けた。
部屋の中には、果てて眠ってしまった夕鶴。
腕を組んだまま真っ直ぐに立ち、空を仰いだ。
瞳を閉じ、気配を探した。
「銀朱……」
苦い顔をしたまま、その名を呼んだ。
誰よりも強かった、銀色の鬼。
その気配が、また、弱くなっていた。
「脆いなぁ……」
黒い鬼の呟きが、明けかけた闇に響く。
終焉は、間近。
銀色の鬼は、儚く、美しい。