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      13 隠匿

「大丈夫か」


顔を見上げると、赤い瞳。銀朱様とは違う、力を備えた逞しく美しい鬼。


「黒紅様……」


薄紅姉さんの世話になっていた頃、よく見かけたその人が夕鶴の目の前にいる。

山吹、薄紅と馴染みになった遊女は皆、上階。身なりも立ち振る舞いも、下の鬼達とは格が違う。


「駄目ですか」


縋るような気持ちだった。夕鶴には、この人が最後の希望に思えた。


「私では駄目ですか。薄紅姉さんは……他の人に指を渡したんです……」


「そう、か」


黒紅は、さして驚かなかった。まるで、知っていたかのような素振り。


「ですから……私の……馴染みになってもらえませんか」


普段なら、決してこんなでしゃばった真似などしなかっただろう。でも、今は違う。薄紅と銀朱に捨てられ、下の階へと落とされる恐怖が胸を占めていた。


「やはり……私のような醜い女では……」


何も言わぬ黒紅に、夕鶴はうつむいた。顔を隠すように、長い髪が揺れた。


「そうや、ない」


骨ばった長い指が、夕鶴の頬を滑る。黒紅は夕鶴の顔を掴み、かかった髪をはらった。口の端でにやりと笑い、その頬を舐めた。


「姫さん、綺麗な顔しとる。暗い顔せんと、自信持ち。ここの女が綺麗なんは、鬼の力のせいや。それに……。残念やけど、姫さんの男にはなれん。約束があるんよ、薄紅と。だから、姫さんに手は出せん」


黒紅は、夕鶴の顔から手を離した。夕鶴は黒紅の赤い舌とその感触に、ぞくりとした。軽い口調と裏腹に、この鬼の持つ魅力に危うく魅せられてしまいそうだった。


「さよなら、姫さん。次に逢うたら、客になったる。そうならんよう、上手くお逃げ」


含んだ笑みを漏らしながら、黒紅は階段を下っていった。残された夕鶴は、黒紅の言葉の意味がわからなかった。


「綺麗な顔なんて……」


夕鶴は、頬を手で覆うと立ち上がった。見世は、もう開いている。早く隠れなければならない。黒紅が逃げろと言ったのは、この事かもしれない。夕鶴は手すりにつかまりながら、階段を上った。桜の間の前を通り、屋根裏へと続く階段を上る。


「……甘い香り」


屋根裏には、いつものように布団が一組。その隣にたくさんの杏と一通の手紙。


『陽の気を無くさぬよう、しっかり食べなさい』


姉さんの文字。姉さんは屋根裏まで上がってきたのだろうか、痛む体で。夕鶴は杏の山に手を伸ばすと、勢い良くその山を崩した。


「今更……陽の気があったって……。どうせ、醜い鬼に与えられる体なんだからっ」


夕鶴は杏を払い除け、手紙を放った。


「どうしてっ、どうして姉さんばかり。銀朱様も黒紅様も……みんなっ。いらないなら、どうして黒紅様まで縛るのっ。気にかけてる振りして……自分の事しか……考えてないじゃないっ」


手当たりしだい、杏を放り投げた。床や壁にぶつかり、ぐちゃりと音を立てて潰れる杏。甘く酸っぱい香りが……憎らしい。


「姉さんなんてっ、姉さんなんて……」


夕鶴は床に倒れこむと、そのまま泣いた。ここに来てからの薄紅との日々が過ぎる。

山吹はきつい女だった。何をしても叱られ罵られた。そんな私を姉さんは救ってくれたのに……。抱きしめられた温もり、丁寧に梳いてもらった髪。優しい、姉さん。私はそんな姉さんに、母親の影を見た。いつも不機嫌で私を打ち続けた母親とは違う、母性。やっと出会えた温もりだったのに……。


「小箱……」


帯の奥で、小箱が重みを増した。姉さんに頼まれ、銀朱様に渡しそびれたそれ。


「銀朱様に嫌われれば、良い……」


夕鶴は小箱を取り出すと、古い着物で包んだ。誰にもばれぬよう包むと、部屋の隅に隠し置いた。


「姉さんが……悪いんだから……」


夕鶴は、甘酸っぱい香りの中ひたすら泣いた。

『明日は我が身だよ』

女将のしゃがれた声が、耳を離れない……。


天窓からは、明るい光が差し込んでいた。今宵は満月。鬼の力のみなぎる夜。


***


薄紅は、窓枠に腰掛け空を見上げた。


「大きな、月。満月ねぇ……」


銀朱は小箱を受け取ったかしら。薄紅は、綻ぶ顔と複雑な胸中で月を見ていた。

今宵、銀朱が来る。その事を喜んでしまう自分と、喜ぶ自分に嫌悪する自分がいた。


「もう少し……生きてみようかしら」


黒紅から解放されたら、死のう。そしてこの体を銀朱にあげよう、そう思っていた。なのに今は……。薄紅の心に、幼くして別れた娘と夕鶴、そして山吹や百姫楼の女達の姿が過ぎった。これからは娘達の幸せと、いなくなった女達を弔いながら生きていこう。薄紅はそう思った。

明日、夕鶴は元の世界に帰るだろう。薄紅は帰る方法を手紙に記し、夕鶴の部屋へと置いてきた。あの娘はまだやり直せる。地獄に落ちるのは私だけで、良い。

薄紅は結い上げた髪を、撫で付けた。綺麗にしたところで、とうに素顔を見られているというのに。


「馬鹿みたい」


どうしても綻んでしまう顔を、軽く叩いた。少女のような、薄紅。


「あの人は、呆れてしまうでしょうね」


包帯で隠れた指輪。あの人と、誓った証。


「さようなら……」


薄紅は、小さくその名前を呼んだ。もう、顔も思い出せなくなった愛しい人。

死んでも逢えぬ、大切な人。薄紅は、そっと祈った。

あの人が、私の事を早く忘れてくれますように。私の事など、取るに足らないものだと。

この地獄が、あの人の目に触れませんように。あの人の瞳が曇る事など、ありませんように。


今宵は満月。


薄紅の願いは月に届く事無く、消えた。

光を放つ月は、裏側であざ笑っていたのかもしれない。


此処は地獄。

鬼の棲む地獄。


月も本物の月にあらず。



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