12 蝕む孤独
過ぎた美しさは、罪。
誰もが心を奪われ、自分を忘れる。
美しさに息を飲み込めば、後の呼吸さえ疎か。
「逢わなければ……」
悔やむ心に、甘い疼き。
目に映るは、愛しい残像ばかり。
唇よりも先に、指先に下さい。
白い肌を、その輪郭を。
幻ではない証拠に、指先で触れたい。
悪いのは、誰。
美しいあの人と、魅せられた私。
過ぎた美しさは……。
憎しみも、恨みも敵わない。
あの人の美しさは、いとも簡単に私を狂わす。
***
大切な小箱は胸元に、夕鶴は庭へと急いだ。
薄紅に頼まれたからだろうか、抑えきれず逸る心。
目は銀朱を追い、履物を履く事も忘れている。
「あっ……」
木陰から、銀色の髪が光って見えた。
銀朱は、あの桜の大樹の元へ行ったのだろう。
夕鶴は、その光を辿り庭の奥へと進んで行った。
ふわり、空から降り注ぐ桜の花びら。
「ぎん、しゅ……さま」
空は、闇が来る手前。薄い青色。
桜の花は、儚く薄い桃色。
「……」
夕鶴は、息を飲んだ。
銀朱。桜の下で空を見上げ、目を閉じた美しい鬼。
時折降りかかる花びらが、さらり、白い肌をつたって落ちる。
何を、想っているのだろうか。
長い睫毛が揺れる。銀朱はゆっくりと片目をあけた。灰色の瞳が、夕鶴を捕らえる。
「……誰だ」
銀朱の声は、耳より胸に響く。
夕鶴は呼吸を整えるように、胸を押さえた。鼓動が、早い。
「わ、わたし。銀朱様に、助けて頂いた……。憶えてないんですか」
乾いてしまった喉から、夕鶴は必死に声を発した。
「……知らぬ」
銀朱はそう言うと、また目を閉じた。つまらぬ、そう言われたような気がした。
「私、今は薄紅姉さんにお世話になってるんです」
薄紅。その名を出せば、銀朱の気が引ける。そんな気がした。
「そうか。では伝えろ。後で参る、と」
玉砂利を、踏みつける音が聞こえる。銀朱は、まるで興味が無いように歩き始めた。
「私、銀朱様に連れてこられたんです。この世界に来たのは、銀朱様が連れてきてくれたから……」
精一杯だった。夕鶴は、去って行く銀朱に堪らず声を掛けた。
銀朱は足を止めたが、こちらを見ようともしなかった。
「お前の死にたいと願う姿に、薄紅を思い出しただけで、他意は無い。ただの気紛れ」
銀色の髪が、風に揺れた。
「死にたいと願うのは、何故だ」
射る様な視線が、夕鶴に向けられた。銀朱は首を上げ、見下すように問うた。
「……誰も、愛して……くれないから」
夕鶴の心と体に刻まれた、記憶。たったひとりの母親は、いつも夕鶴を打ち汚く罵るばかり。怯え、感情を抑える日々。伸ばした髪は、外と自分を隔て守ってくれるもの。何も見ず、聞かず、求めず。それが裏切られないための、術。
「愛されたい人に、愛されなかったから……」
髪を手で梳かし、顔を隠す。自信のない夕鶴の、癖。
銀朱はそっと、夕鶴の顔にかかった髪をはらった。
「お前、薄紅の匂いがする」
間近で見る、銀朱の顔。透き通る白い肌に、大きな灰色の瞳。薄桃色の唇は薄く、誘うように少しだけ開いていた。
「えっ」
夕鶴は胸元にしまった小箱を、そっと奥に押し込んだ。渡さなければならないその箱が、何故か急に渡してはいけないもののように思えたからだ。
「き、きものが……。姉さんに頂いたものだから……」
銀朱の顔が、首元に降りてきた。匂いがわかるのだろうか。尖った鼻筋が首に当たり、唇は触れそうで触れない。生暖かな息が首にかかる度に、体の芯が熱く疼く。
「……まあ、良い」
玉砂利の音が響き、次第に小さく消えた。
夕鶴は、立っていられなかった。傍で見た銀朱の顔。首にかかる吐息。
確かめるように何度も思い出し、その色香に肌を震わせた。
闇が迫る。
夕鶴に降り注ぐ、花びら。
「桜は良いわね……」
手を差し伸べると、触れる花びら。
「羨ましいくらい、綺麗な色」
夕鶴は銀朱を真似て、目を閉じた。
『薄紅色が妬ましい』胸の内で呟いた。
羨ましく妬ましい、薄紅色。
触れられる事を許された、唯一の色。
銀朱様が想いを寄せる、女の人。
黒い腹の内を、小箱は知っているのだろうか。
急に重みを増したように感じる、小箱。
『銀朱に渡して』
これを渡せば、二人は結ばれるのだろうか。優しい姉さんと……銀朱様。
その時、私はどうなるのだろう。姉さんの世話には、もうなれない。
『あの娘は、すぐにでも下で客を取らせるさ』
『銀朱も連れてきただけで、馴染みになるつもりもないようだし』
襖越しに聞いた、女将の声。
『鬼と交わるか、鬼に喰われるか』
それは最初に聞いた、この世界の決まり。
「……誰も、愛してくれない……」
夕鶴は、両手を地につき玉砂利を強く握った。
口に出した孤独が、心を蝕んでいくようだ。
「誰も……」
死にたいと願った時、手を差し伸べてこの世界に連れてきてくれた銀朱様。
これで救われたと思ったのに、私は捨てられた。
山吹に預けられ、いじめられ。助けてくれた薄紅姉さん。
私を優しい娘だと頭を撫でてくれたのに……私は見捨てられる。
辺りは闇に包まれる。
夕鶴は亡霊のように、ふらふらと立ち上がり歩いた。
闇夜に浮かぶ、百姫楼の灯り。
赤に朱に、桃色に。
女の色香が漂う、色街。
白い手が、おいでおいでと誘う。
「何してんだいっ。お前」
しゃがれた、女将の声。
「まったく、陰気だねぇ」
すみませんと、俯いたまま答える夕鶴。女将は、怖くて苦手だ。百姫楼の人は皆、嫌い。
「ちょいと、お待ち」
女将は夕鶴の後ろ首を掴むと、無理やり前を向かせた。
「良く見ておくんだよ、夕鶴。あんただって、喰われたくはないだろう」
視線の先には、醜い鬼。
濁った目に、むき出しの牙。粗雑な言葉で、女の着物を剥いていく。
ここは……何。
交わるの意味なら、わかっていたつもりだった。でも、ここはそれとは違う。
夕鶴は、とっさに口を押さえた。現実を思い知らされ、その苦さに吐き気がする。
広い部屋に、気持ち程度しかない仕切り。女達には、布団ひとつ分の場所で醜い鬼と交わっている。
責める声に、善がる女。手荒な扱いすら、快楽に繋がるのだろうか。
「明日は我が身だよ、夕鶴」
女将のしゃがれた、声。
「喰われたくなきゃ、励むんだよ。あんたはもう、一端の遊女さ」
これが、鬼の世界の現実。
夕鶴は吐き気に襲われながらも、階段を上った。
体を這う、醜い鬼の腕。
「うっ……」
脳裏に焼きついてしまった、営み。
「どうした、姫さん」
上の階から、声を掛けられた。銀朱様ではない、鬼の声。
「おいっ、大丈夫か」
もう、わからない。夕鶴は首を振るだけで、その場に座り込んだ。
何もかも、わからない。
自分がどうしたいのか、これからどうなるのか。
ただ、わかる事は一つ。
私が交わるのは、醜い鬼。
馴染みのいない孤独な、私。