11 薬指
鬼の呪いは、三日三晩。
ひたり、ひたりと小指から染み渡る。
動かさずとも、風吹けば痛む。
鼓動と共に、疼くその指。
鬼の呪い。
鬼の想い。
先端を失った指は、それでも美しく其処にあった。
落ちた指も、何故か白く柔らかい。
償わせたのか、償ったのか。
痛むのは女の指か、それとも鬼の胸の内。
***
「馬鹿な女だよっ」
乾いたうなじを掻きながら、女将が言う。
「せっかくの上客だってのに。松も竹も空いて……まったく大馬鹿だよ」
薄紅は三日三晩、鬼の呪いで床についていた。黒紅が最後に情けをかけたのか、その傷は綺麗に塞がっている。ただ痛みは続くようで包帯を巻いた左手を袂に隠したまま、時折右手で庇うように押さえている。
「……痛むのかい」
「鬼の呪いですもの」
文句を言いながらも心配する女将に、薄紅は小さく微笑んだ。
机の上には花器。夕鶴が欠かさず活けた桜が、水面に浮かんでいる。
「桜の間も、終いね……」
薄紅は、二階の部屋に移ることが決まった。三階は上階。上客を抱えた遊女の、絢爛豪華な部屋。黒紅を失った薄紅が、ここにとどまる事はできない。
「竹の間に戻るだけだよ。どうだい、薄紅。いっそ上客を捕まえて、返り咲きなよ。松も空いてる事だしさぁ」
松の間の山吹。黒紅の腕で果てた後、その身は喰われた。報いとはいえ、最期が好いた鬼の腕の中。それだけでも救い。そうでも思わないと、あまりに辛すぎる終り方。
「女将。夕鶴はどうなるの。……連れて行けないでしょ」
人払いした部屋には、薄紅と女将の二人。夕鶴は薄紅に用事を言いつけられ、庭に出ている。
「決まりだからねぇ……。あの娘は、すぐにでも下で客を取らせるさ。陰気だし、陽の気も障るほど無いからねぇ。銀朱も連れてきただけで、馴染みになるつもりもないようだし。誰かの所に通うんだろうねぇ」
ちらり、女将が薄紅を見やった。薄紅は知らぬ顔をして、窓の外を眺めた。
「……鬼は約束を守るかしら」
「娘に興味無いって言ったんだろ。攫うならとっくに攫ってるはずさぁ」
あの後、黒紅は一度だけ薄紅の元を訪れた。暗闇の中、姿も見せずに。黒紅は、帰る方法を教えに来てくれたのだ。夕刻に架かる橋。夕鶴の、帰るべき世界の入り口。
「川の向こうは、どんな花が咲くのかしら……」
薄紅は、川の向こう。娘のいる元の世界を想った。
「はいはい、あんたは呑気だねぇ。母は強しかい。小指、痛いんだろう。あたしが遊女だった昔は偽物が多くてねぇ……。遊女の小指は誠。あたしゃ痛いのはご免だよ。さあて、仕事仕事……」
女将は立ち上がり、襖に手を掛けた。
「女将。長い間、お世話になりました」
薄紅は痛む手を隠したまま、頭を下げた。
「……なんだいっ。まだこれからだよ。長いって言っても、あたしにとっちゃほんの短い時間だよ。……下の階に移っても、しっかりやるんだよっ」
女将は、わざとぶつくさ呟き部屋を後にした。
「……散り際の潔さ。桜は散る為に咲くのかい」
誰よりも長く此処にいる女将。薄紅との差し向かいに、何かしら感じるものがあっても深くは聞かぬ。深入りしては、この世は務まらず。
指を落とした薄紅は、すっきりとした顔をしていた。まるで、もうすぐ年季の明ける遊女のように。
「遅いわねぇ、夕鶴」
痛む腕を押さえながら、窓際へと移った。ここからは庭が良く見える。
眩しく差し込む西日を、避けるように手をかざした。
「あっ……」
小さな花びらが舞っている。あの桜から飛んできたのだろうか。いや、ここまで届くはずはない。薄紅は無事だった方の腕を伸ばした。
『さくら』
銀朱が、呼んでいる。薄紅は、何故かそう思い、窓の下を見下ろした。
「ぎん、しゅ」
茜色に染まる、銀色の髪。大きく灰色の瞳は、人ならざる美しさ。
「銀朱っ」
黒紅を失った今、憚る事なく薄紅はその名を呼んだ。
銀朱はにやりと口の端で笑い、色香の漂う瞳で見つめ返した。
『薄紅。お前の身は俺のものだ』
薄紅には、銀朱の声が聞こえたようだった。
しばらく見つめ合った二人。遮ったのは、襖の音。部屋に戻ってきた夕鶴。
「……姉さん」
相変わらず、前髪で顔をかくしたままそこに立っていた。
手には、薄紅に頼まれた杏。甘酸っぱい、香り。
「夕鶴……お願いがあるの」
薄紅は、痛みを忘れたように立ち上がり箪笥に向かった。空っぽの箪笥の中、唯一の荷物。桐の小箱。
「お願いっ」
薄紅は、夕鶴に小箱を手渡した。桐の小箱、遊女の誠。
手渡された夕鶴は、心なしか曇った顔をしていた。百姫楼に来て間もない夕鶴にも、それが何かわかっていた。それが、何を意味するかも。
「銀朱に渡して。あなたにしか……頼めない」
思い詰めた様に頼む薄紅に、夕鶴は頷くと足早に部屋を出て行った。
薄紅はその姿を見送ると、その場に座り込んだ。鬼の呪い。疼く、指。
「……どうしよう」
小箱を渡してしまった、薄紅。
「私……銀朱が……」
美しく、自分を想ってくれる鬼。人も喰わぬと、祈りまで捧げてくれた鬼。
ひと目姿を見ただけで、薄紅の心は騒いでいた。
「……わからない」
指が疼く。それは、切られた小指なのか約束した薬指なのか。
鬼の呪いで麻痺した感覚に、薄紅は戸惑っていた。
手首にまで巻かれた包帯の下には、指輪をはめたままの薬指が隠れている。
「駄目よ……」
今更、恋など……。
無いはずの心が痛い。
薄紅は、痛む胸に痛む手をのせ右手で押さえつけた。
はやる鼓動は、痛みのせい。
それとも、惑わす銀朱のせい。
あの瞳に触れたいと願ったのは、罪。
目線が変わりました。
薄紅目線だと、どうしても書ききれないので……。
違和感を感じた方、ごめんなさい。