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       9 下弦の月

闇夜に浮かぶ、下弦の月。

折れそうに尖っているのか、鋭利に研ぎ澄まされているのか。


鏡に向かい、頬を映す。


針のように細く、引っ掻かれたようなかすり傷。

打たれた拍子に、山吹の爪が触れたのだろう。


少女のように怒りを抑えることを知らない、山吹。

口惜しそうに結んだ唇は、嫉妬なのか妬みなのか。


襖の開く音。

女とは違う、勢いのある足音。


私は溜め息をつくように、蝋燭の火を消した。


「いらっしゃって、黒紅様。月が、折れてしまいそうよ」


窓辺に座り、傷のついていない横顔で誘う。


「下弦の月なら、折れんよ。あれは儚げに見える、鋭利な刃物。……お前と同じやなぁ」


小首をかしげ、黒紅を見る。私が刃物なら、とっくにあなたを刺しているだろうに。

近寄る黒紅に、私は自分から抱きついた。


「……やましい事があるやろ、薄紅。お前は嘘を吐く時だけ、俺に触れたがる。……悪い女や」


手馴れた動作で、黒紅は私を組み敷いた。手を帯に掛け、解こうとして止めた。


「体やないなぁ」


横を向いたままの私の顔に、手が掛かる。


「……何もないから」


「そんな訳ないやろ。怖いんかぁ、薄紅。お前の怯えた顔は久しぶりや。何や、楽しいなぁ」


黒紅は赤い舌を覗かせ、楽しそうに笑った。

冷たい指で、焦らすように私の体を点検していった。


「ほう」


指が止まった。黒紅は私の顎を掴み、傷のある頬を上に向けた。


「……誰にやられた」


「私が。私の不注意で……」


「黙れ」


鬼は、もう笑っていなかった。

傷口を口に含み、注意深く舌でなぞった。生温かい感触が、頬を覆った。


「誰にやられた」


「……違うっ」


恐ろしい考えが、頭を過ぎる。目の前の黒紅は、いつもの黒紅ではない。静かに、でも確実に怒っている。その怒りは私に向けられたものではなく……。


「お願い……。違うの」


黒紅は、きっと仕返しをする。相手が女でも何でも。気に入ったおもちゃを傷つけた相手を、許すはずが無い。


「お前は、皆に優しいなぁ。自分に傷を付けた相手まで、庇うんか」


「違う。これは、自分で……」


黒紅は、私から手を離し立ち上がった。


「待って、これは本当に違うのっ」


背中に向かって叫んだ。黒紅は部屋の出口、襖に手をかけ立ち止まった。


「……お前の優しさは、残酷や」


「そんな……」


襖は静かに閉まった。

怒号はすぐに、隣の部屋から響き私は震えが止まらなかった。

私は耳を塞ぎ、目を閉じた。

何も考えぬよう、自分に言い聞かせながら。


「姉さん……」


か細い声が聞こえる。


「夕鶴」


強く閉じた瞼をゆっくり開けた。


「夕鶴っ」


私は、自分よりも若い夕鶴に抱きついた。


「……姉さん、大丈夫。そのうち、慣れるから」


慣れる。夕鶴は、慣れると言った。終わるじゃなく、慣れる。


「慣れちゃ、駄目よ。そんなの事……」


暴力は終わらない、だから慣れる。そんなの……悲しい。

次第に静かになる、隣の部屋。

山吹は無事だろうか、黒紅は容赦などしない鬼だ。


「ありがとう、夕鶴。でも、もう隠れなさい。……私なら大丈夫。鬼は、私の体は傷つけないから」


夕鶴の頭を撫で、私は精一杯の笑顔で送り出した。


「早く、隠れなさい」


夕鶴はこくりと頷き、部屋を出て行った。

私は襖が閉まると、力無くその場に座り込んだ。

夕鶴の前では強がっていたが、本当は怖くて仕方がない。


窓の外には、鋭利な月。

触れれば切れる、鋭い輝き。


闇は濃く次第に青く。

白い朝が来れば、身を潜める。

震える体を抱きしめ、私は意識を手放した。


***


陽の光は暖かい。

青い空、太陽の下。

飽きることなく、走る子供。


両手を広げ、幼い体を受け止める。

温かくて柔らかい、ひなたの匂い。

愛おしくて、強く抱いたら消えた。


ひなたの匂いを残して。


何て、悲しい夢。



目を覚ますと、懐かしい匂いがした。


「……姉さん」


心配そうに顔を覗く夕鶴に、私は微笑んだ。馬鹿な夢を見たなぁ、と自分を笑いたい気分だった。あの子が傍に……いるはずなどないのに。


「何処かへ出かけたの。陽の匂いがするわ」


夕鶴は花器を取り出し、私に見せた。


「桜がお好きだと、聞いたので」


お椀のように、口の広い陶器の花器。黒地の器に水を張り、小さな花が浮かべられていた。


「ありがとう、夕鶴。あなた、優しい娘なのね……」


夕鶴は照れたように、ふるふると首を振った。

夕刻のひと時、束の間の優しい時間。


異変に気付いたのは、湯上り。

闇が来る、少し手前の時間。


夕鶴を早めに屋根裏へ隠し、私は女将を呼びつけた。


「どういう事、女将。風呂以外は、部屋から出るなって」


何処へ行こうにも、皆が通してくれない。


「……山吹。山吹はどうしたの」


特に、隣の松の間。今日は物音が一つもしない。

暑くもないのに、女将は無表情で扇子を揺らしている。


「昨日、何かあったの」


女将は大げさに溜め息を付き、張りのない口元を歪めた。


「山吹はどうしたのっ」


「……いなくなった女の話はご法度。あんただって想像つくだろ」


「……何処へ」


ぴしゃり、女将は扇子を閉じた。


「聞いてどうする。山吹は、黒紅様を好いていた。ただ、それだけだよ。鬼なんか想うから……地獄に落ちたのさ」


畳んだ扇子をキセル代わりに、手に打ちつけた。せっかちな女将の、いつもの癖。


「あたしらの運命は、鬼の手の内。終いは鬼の……腹の内ってね」


「喰われた、の」


「さあね」


けらけらと、女将が笑う。


「あんた、余程の女なんだろうね。あたしらには、わかりゃしないけど」


「そんな事……」


「それとも恋しいのかねぇ、母親が。……鬼に親なんか居やしないけど。あたしの知る限り、子持ちの遊女は薄紅くらいのもんだよ」


可笑しくも無いのに女将は、乾いた声で笑った。

部屋を出て行った後も、耳に残るその笑い声。


「……山吹」


山吹は、喰われてしまったのだろうか。可哀相な、山吹。

喧嘩など、止せば良かった。鬼を想って、鬼に喰われて……。

百姫楼は、やはり地獄。


私は窓辺に身を寄せ、静かに涙を流した。


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