7 忘却(ぼうきゃく)
12月28日後半部分を書き足しました。
夕刻に、目を覚まし。
鶴を折る。
闇が来れば、鬼に体を開く。
何も見ず、何も感じず。
言葉なら、あいうえお。
漏れる声は、それだけで事足りる。
何も感じず、何も言わず。
黒紅が、目を伏せた。
何も言わず、私の体を抱きしめた。
するすると、帯を解く。
その手を黒紅が止めた。
鬼は、私を抱かなくなった。
私に飽きたのだろう。
折り鶴は、毎日折り続けた。
「今年も、鶴を燃やすんか」
私は首を傾げた。
「……忘れてしまったんか」
鶴を、燃やす。
そうか、燃やす為に私は鶴を折っていたのか。
三百六十五羽の折り鶴。
抱えて歩く、私は……どこへ。
足は憶えている。
ふらふらと覚束なくとも、心が無くとも体は動く。
私は、吸い寄せられるように辿り着いた。
見上げれば、桜。
最後に外に出たのはいつなのか、それも忘れてしまった。
外を見ず、心を閉ざした日からもうどれくらい経ったのか。
桜は、綺麗。
そっと、舞う花びらに手を伸ばした。
生気の無い、白く透けそうな肌。
このまま消えてしまうくらい、軽い私の存在。
花びらの様に、散ってしまえばいっそ楽なのに。
「……」
人が……いる。
美しい、人。
真っ直ぐと背を伸ばし、祈るように手を合わせて立っていた。
「……何、を」
声を出したのは、久しぶり。
微かに震える、喉が痒い。
「……知らないのか」
陽に透ける、銀色の髪。
「お前が、寒さで震えぬように……。また、逢えるように」
桜の樹の下で、銀色の鬼が手を合わせていた。
それは、まるで祈り。
「……お前の願いが、少しは叶う様に」
「銀朱……」
もう、駄目かも知れない。
何も見ず、何も考えないよう生きてきた。
それは、全部あなたの為。
あなたから目を逸らせない、私の弱さ。
「銀朱……」
忘れる事など、できなかった。
心を閉ざしても、あなたの姿を見れば一瞬で甦る、記憶。
「また逢えたな。これで願いが叶った。……お前は不思議だな。何の力も持たないのに……。俺は、お前の事ばかり考えていた。これが、想うという事なのか」
鬼とは思えぬ、無垢な表情だった。
妖しさの無い、少し戸惑ったような銀朱。
今日で四回目。初めて逢った日から、もう三年。
それも、僅かな時間を共にしただけ。それだけなのに……。
銀朱は私を想っていた、逢いたいと願う程に。
私の話した些細な事さえ、全部憶えてしまうくらい。
私は、娘の事さえ忘れかけていたというのに……。
今日で九つ。
桜の樹のしるしをなぞる。
かんざしを忘れた私を見て、銀朱がしるしを刻んだ。
「……娘がいるの」
私は此処に来て、初めて自分の話をした。
置いてきた娘の事、黒紅と交わした約束の事。
銀朱は、ただ静かに聞いていた。
「銀朱は、鬼じゃないみたい。鬼は恐ろしくて、残酷。でも、銀朱は……」
「俺は人を喰わない。半人前の鬼だ。でも……」
お前の願いは叶えてやる、耳元で囁く銀朱。さわさわと、触れる唇が心地良い。
「じゃあ一つだけ、叶えて」
「一つで良いのか」
不服なのか、銀朱は困った様な顔をしていた。
私は、それで充分だと笑った。
「……娘の事を、想い出させて。私が……此処に来る事さえ、忘れてしまったら」
忘却が、怖い。
長い時間をここで過ごせば、皆、過去を忘れる。
私は、それが怖い。
銀朱の腕が首に回された。
「忘れはしない。俺も、お前も」
「銀、朱……」
私は、もう人ではないのだろう。
あの人と娘を想って泣いた桜の下で、銀色の鬼に抱かれている。
弱くて脆い、私。
銀朱は優しい。
きっと、人を喰わない鬼だから。
鬼は人を喰って強くなると言うが、それは心を失い残酷になるだけではないか。
目の前の鬼は想う心も、願う気持ちも持っている。
「薄紅……」
甘い、誘い。
啄ばむように何度も焦らされた唇は、次第に深く角度を変え続いていく。
桜の花びらは、絶えず降り注いだ。
花びらは、砂時計。
長くは続かぬ逢瀬の時間を、確実に計っている。
「私の身は銀朱にあげるわ」
行為の後、私は銀朱にそう告げた。
「役目が終わったら、私の身は銀朱にあげる。本当は……生きていたくないのよ、この世界で。だから、最後は銀朱が私を喰って」
「それが、お前の願いか」
銀朱は私の肩に顔を置いたまま、唇を首筋に這わせている。
「ならば、お前の身は俺のもの。お前の最後は、俺の最後」
「そんな」
私は銀朱の顔に頬を寄せ、微笑んだ。
それじゃあ、愛の告白みたいだと笑った。
ねぇ、銀朱。
終わりにしたいのよ、私は。
だから最後は、あなたの力に。
優しいあなたが、誰にも傷つけられないように……強い力をあげたい。
鬼の世界で、ちゃんと生きていけるように。
「さようなら、銀朱」
束の間の幸せ。
「別れの言葉なら、もう言うな」
銀朱は着物の袖で、私の姿を覆い隠した。
そのまま包み込むように、私に口付けた。
「薄紅、お前は俺のものだ。時が来たら、必ず……」
この世界は果てることなく続く。
なのに、どうして別れが辛く感じるのだろう。
口付けは、熱くて切ない。
触れれば熱く、離れれば冷える。
熱を帯びれば、帯びるほどに冷える。
心なら半分、あの人へ。
残りの半分は、娘へ。
残ったこの身は、銀朱へ。
弱い心を支えてくれた、優しい鬼へ。
束の間の幻。
闇が来る。
黒い鬼は再び、私に耽る。
「……飽きたのでは、ないの」
天井を見つめたまま、鬼に問うた。
鬼は弄る手を止め、私の耳に唇を寄せた。
「戯言を。お前が俺を憎む限り、終いなど来ぬ。実を結ばぬその体に、飽きなどくるはずないやろ」
体中を、舌が這う感触。私は鬼が嫌いなのだろう。いつまで経っても違和感が消えない。
季節の無いこの世界。戯言なら、黒紅の方だ。
「……せやけど、薄紅。正気を失いかけたお前が、どうしてやろ。母親とは、そんなに折れぬものか」
「知らない」
私は目を閉じた。瞼の裏に浮かぶ、銀朱の横顔。
嫌ではなかった、銀朱の感触。
「それとも……誰か、良い人でもおるんか」
冷たい、鬼の声。
「……やっ」
闇は、色濃く其処にあった。
鬼は強引に私の瞼を開き、眼球を舐めた。潤む視界。
光は差せど良く見えず、閉じる事もかなわない。
「夢を見るな、薄紅。鬼は所詮、鬼や。お前はいつか、裏切られる」
この闇は、いつか明けるのだろうか。
ねぇ、銀朱。
最後の時はせめて、一緒に。
そう願っても、構わないかしら。