3 銀色の鬼
「もういいわ。薄桃はそろそろ隠れなさい。闇が、くるわ」
べっこうの櫛を夕鶴姉さんに返す。
障子が赤く染まっている。
じきに陽が落ち、闇が来る。
「薄桃」
「何ですか」
「記憶は、もどらないの」
夕鶴姉さんは長い髪をかき上げながら、こちらを向いた。
その視線は切なげで、私の胸が痛んだ。
「ごめんなさい」
私の記憶はまだ、戻っていない。
姉さんの視線が辛くて、目を伏せた。
「いいのよ、薄桃。それにしても……あなたの陽の気はなかなか弱まらないわねぇ」
陽の気。
ここに来た日、銀朱様にも言われた。
太陽の元で暮らす人間には、陽の気と言うものが宿っている。
私は、そのおかげでまだ見世に出られない。
「さぁ、おしゃべりはお仕舞い。薄桃、早く隠れなさい」
私は姉さんに一礼した後、入ってきた時のように襖を丁寧に開け部屋を出た。
『百姫楼』は三階建ての屋敷。
一階は立派な玄関と、風呂のある裏方の部屋。
二階、三階は姉さん方の部屋。
口に出しては聞けないが、二階より三階の姉さんの方が格が上。
それは部屋の調度品や、着物を見ていればわかる事だ。
松の間に住む夕鶴姉さんはその中でも、別格。
美しい姉さん方の中で、誰よりも美しい。
私は、松の間を出て三階の隅にある扉を開ける。
その中には煌びやかな三階には似つかわしくない、質素な作りの階段。
『百姫楼』は表向き三階建てだが、屋根裏に部屋がある。
人がひとりしか通れないような幅の階段を上ると、がらんとした屋根裏部屋がある。
そこには私の布団が一組。あとは何もない。
いつものように窓辺に向かい、窓を開ける。
肩幅ほどしかない窓を押上げで、つっかえ棒を噛ませる。
新鮮な空気が流れ込み、赤い陽は静かに沈んでいく。
時期に闇が来る。
私は、闇が明けるまでここで過ごす。
陽の気の強い私は、客の前に出る事ができない。
鬼たちは、陽の気を嫌うからだ。
『銀朱様だから、触れていられたのよ』
銀朱様に初めて会った日、夕鶴姉さんが後から教えてくれた。
私の陽の気は強く、その辺の鬼なら火傷していただろうと。
私は自分の腕をさすった。
陽の気。
これが無くなれば、私は……。
『鬼と交わるんだよ』
それは『百姫楼』の決まり。
攫われた人間の定め。
ここは鬼と物の怪の世界。
そうでもしないと、人間は生きてはいけない。
『鬼に食われるか、鬼と交わって永遠に生きるか』
陽の気が無くなったら、私はどちらかを選ばなくてはならない。
この世界は妖しく美しく、残酷だ。
闇が来た。
宴が始まる。
ここは『百姫楼』、鬼たちの歓楽の為にある。
『鬼と交わる』
私には記憶がない。
でも、わかる。
私は、そういう類の経験をしたことが無い。
『仕方ないのよ』
夕鶴姉さんはそう言うが、私は鬼が怖い。
交わるのも怖いが、喰われるのはもっと恐ろしい。
『きっと、美しくなるわ』
それは慰めなのか、真実か。
陽の気がなくなったら、私は鬼と交わる。
それは仕方のないこと。
記憶の無い私には、それしか生き延びる道はない。
「憂いているのかい、薄桃」
誰もいない屋根裏に、低く甘い声が響く。
客の前に出たことのない私の名前を知っている男は、ひとりだけ。
「銀朱様」
名を呼ぶと、部屋が急に明るくなった。
「どうしても、薄桃の顔が恋しくてねぇ」
左手に青く光る炎をのせた、美しい鬼がそこにいた。
そっと銀朱様が手を揺らすと、青い炎は宙に浮いたまま屋根裏を照らしていた。
「薄桃は、陽の気が強い。よほど、人間の世界に未練があるのかい」
銀朱様は、私の真向かいに座った。
青い炎が照らす屋根裏で、銀色の髪が美しく映えた。
「その後、何か思い出したかい」
灰色の瞳が、私を見つめる。
注意深く、探るように。
「すみません。何も、思い出せないんです」
堪らず、目をそらした。
美しい銀朱様。
その灰色の瞳に見つめられているだけで、苦しくなる。
「そうか」
興味をなくしたのか、銀朱様はあっさりと引き下がった。
私は内心ほっとしたが、目の前にいる銀朱様につい目を奪われてしまう。
青い炎はゆらゆら、暗い屋根裏を照らす。
銀朱様は近くで見ると、青白い肌をしている。
はだけた着物からは、筋肉質な胸元が見える。
青白いのに筋肉質な体は、アンバランスでいやらしい。
「どうしたんだい、薄桃。名の通り、肌が染まっていくようだが」
「そ、そんな事」
いやらしい、だなんて。
私、何を……。
「薄桃、憶えておくが良い。ここに来た人間は、鬼無しでは生きていけない」
「はい」
「鬼と交わるのは怖いか」
銀朱様は目を細めて、こちらを見ている。
その目は、朱色に変わっていく。
喰われる。
とっさにそう思った。
銀朱様の私を見る目が、いつもと違う。
まるで、獲物でも見るような朱色の瞳。
私の体は固まり、肌という肌が泡だっていく。
喉も、はりついて声が出ない。
「薄桃は初めてだからなぁ」
銀朱様の指が、私の唇をなぞっていく。
ゆっくり、上唇を指がつたう。
「きっと、怖くて堪らないだろう」
冷たく白い指が、ぽってりとした下唇もなぞっていく。
「良い声で鳴くんだろうね。楽しみだよ」
白い牙を覗かせながら、銀朱様が微笑む。
圧倒的な力の前に、私など虫ケラ同然。
従うしかないのだ。
「薄桃は綺麗になるだろうね」
銀朱様は指を離すと、着物の袖に腕組みをするようにしまった。
黒地に銀色の刺繍の施された着物は、暗闇に潜む銀朱様のよう。
闇に映える、美貌。
「知っているかい。鬼と交わると、人は美しくなるんだよ」
朱色の瞳が灰色に戻っていく。
私の体も呪縛が解けたように、強張っていた体から力が抜けていく。
「夕鶴を見てごらん。夕鶴は、美しいだろう。あれは、私と交わる度に美しくなる」
「姉さんが人だった頃を知っているのですか」
銀朱様は、少し驚いたようにこちらを見た。
「知っているよ。夕鶴も私が攫ってきた。面差しが薄紅に似ていて……」
そこまで話すと、銀朱様は立ち上がった。
さっきまでの穏やかさはなく、冷たい眼で私を見下している。
銀朱様は、恐ろしい。
「勘繰るなよ、薄桃。まだ、喰われたくはないだろう。陽の気など、その気になればどうにでもなるものよ。鬼の力を侮るなよ」
青い炎が揺れる。
銀朱様が手を広げると、青い炎は手のひらへ。
ふっと銀朱様が吹き消せば、あたりは漆黒の闇。
『銀朱様のお帰りだ』
下で、大きな声が聞こえる。
私は、そのまま床に倒れこむ。
鬼の気にあたり過ぎたのだろうか。
私は、いつまで人間でいられるのだろうか。