6 鬼の心
百姫の中にも、鬼がいる。
古参の女将、『百姫楼』の仕切り役。
戯れに、休みをおくれと言う私。
女将は鼻で笑って言った、怠けちゃいけない。
具合が悪いと言えば、また笑う。
物の怪だから患いはしない。
力が足りなきゃ、鬼と交わり分けてもらえ。と。
じゃなきゃ……恋煩い。
女将はキセルを叩いて笑う。
「いいかい、薄紅。鬼を想えど、待つは地獄」
「何を……。鬼は憎めど、想いなどしないわ。それにこ、この遊女の末路は地獄」
余程、愉快なのだろう。
女将の釣りあがった目が、下がっている。
下品に歪んだ口元に、広がる笑み。
「言うねぇ、薄紅。でも、あたしゃ知ってるよ。鬼に想いを寄せる遊女を。ここは、攫われてきた女の遊郭。例え嘘でも、縋る心の弱さかねぇ。体開いても、心開いちゃいけないよ」
「……想いを寄せて、鬼になった遊女もいるのかしら」
含んだ顔で、女将に問うた。
女将が遊女だったのは、周知の事実。
女将は急に興味を失ったかのように、キセルを咥えた。
「さあて、いなくなった遊女の話は禁句。薄紅、さっさと上へお上がり、客が来るよ。部屋付き遊女のあんたが、下で客でも引くのかい」
長い着物の裾を引きずり、階段を上がる。
別に休みが欲しかったわけじゃない。
ただ、誰かと話していたかっただけ。
銀色の鬼の残した余韻を、忘れたかっただけ。
「そう言えば、変な客がいるんだよ。女の顔だけ見て帰っていく。ありゃ惚れてるね。他の女に見向きもしない。変わった鬼だよ。銀色の綺麗な顔してさぁ」
女将は、私の方など見ずにそう言った。
どこか、ぼんやりとした煙を吐きながら。
「まぁ、上の階の薄紅には関係ない事さぁ。あんたは黒紅様に囲われてるんだから。……ただの世間話だよ」
私は、歩みを進めた。
軋む階段の音が、今日はやけに胸に響いた。
ただの世間話。
やはり年の功、女将はわかって私にそう言ったのだ。
銀朱……。
どうしてあの鬼は、私を惑わす。
まだ、たった三度しか逢っていないというのに。
「皮肉ね」
部屋には、見事な桜の襖絵。
眺めているだけで、あの鬼を思い出してしまう。
私は窓の方へ行き、夜風に吹かれた。
……名前など、教えなければ良かった。
闇に灯り。
百姫楼の庭の灯篭に、火が灯った。
橙色の映し出す、庭の花木。
赤い花は、より妖艶に映る。
「青い……」
庭に浮かぶ、青炎の光。
「銀、朱……」
銀色の髪が、炎の光を受けて青く透けている。
真っ青な、銀朱。
何も告げず、ただそこに立っていた。
「……見ないで」
そんな目で、私を見ないで。
私は、あなたの事など想っていない。
ここでの生活に、少し心が弱くなってしまっただけ。
だから、もう構わないで。
目を逸らしてしまいたかった。
でも、出来なかった。
あんな風に真っ直ぐ私を見つめる人なんて……あの人以外、いないと思っていたのに。
見ないでと、何度も願った。
目が逸らせない。
私の目が、あなたを追ってしまうから。
階下のざわめきなど、聞こえない。
気が付いた時には、いつも遅い。
黒い鬼は、私の背後から忍び寄る。
「声を。聞かせてやるが、良い」
窓際に私の体を押さえつけ、黒い鬼が後ろから攻め立てる。
こんな行為に、どんな意味がある。
鬼に心など、無いだろうに。
……銀色の鬼は傷つくのだろうか。
「……黒、紅さまっ。鬼にも、心はあるのです……か」
嬌声を上げぬよう、話かけた。
黒い鬼は、冷たい目をして私を見下す。
「心とは、何や。そんなもん……知らん」
……だったら、良かった。
私のせいで傷付く人など、いない方が良い。
目を閉じた。
黒い鬼を怒らせてはいけない。
私は、ただ快楽に身をまかせてしまえば良い。
「……心かぁ。薄紅、お前にはあるのか。あるのなら、俺に渡せ。お前のもんなら全て、手にしても飽きたらんわぁ」
どこまでも、私を食い尽くす鬼。
「心なら、とうに亡くしてしまったわ。私の心は、私が愛した世界に……置いてきたわ。ここに在るのは、私の抜け殻」
閉じた瞳に、潤む涙。
見たくないのに、潤んだ視界に青い光がちらつく。
黒い鬼は、笑っていた。
牙を剥き出して。
「折れんなぁ。お前は健気で美しい、薄紅。なぁ、どんな気分や。お前は俺が憎くて堪らんのやろ」
「……憎んで、など」
銀朱は、見ているのだろうか。
夜風が肌に冷たい。
「ええんよ、薄紅。憎しみでも、恨みでも。お前が俺を想うなら、何でも」
背中に、黒い鬼。
動きを止め、私の肌に顔をうずめた。
いつも、残酷な黒い鬼。
軽い口調で、私を脅す。
なのに……。
今の言葉は、何。
私には、やはり心が無いのだろう。
黒い鬼の告白は、私には響かない。
背中に感じる感触さえ、煩わしい。
銀朱は、もう私に逢いにこないだろう。
冷たい夜風が、吹く。
抜け殻の様な私を通り過ぎ、何処へ向かって吹く風。
私は、それからも黒紅に繋がれたまま。
銀朱に逢わぬ様、庭へ行く事もなくなった。
窓から外を眺める事すら、しなくなった。