5 幻桜
美しい襖絵は、桜。
松、竹、梅。
三階は部屋付き遊女の、控える間。
私の部屋は、桜の間。
隣は松の間、隣は梅の間。
竹の間はもうない。
黒紅は、いつだって強引。
何もかも思い通りに変えてしまう。
竹の間でも良かったのに。
私の愛でる桜の花。
美しい桜は、私の娘。
あの人が愛でた桜は、私の名。
この世界は美しい。
皆、快楽に溺れ過去を忘れる。
忘れる事は楽なのか、それとも苦なのか。
私は過去に焦がれ、毎日を生きる。
喜びは全て過去、苦しみは日々続いていく。
***
また、一つ季節が巡った。
季節の無い庭で、私は折り鶴を抱え歩く。
薄く化粧を施し、長い黒髪は念入りに梳かしそのまま下ろした。
桜の大樹。
見事に枝を広げ、満開の花を咲かせる。
風に吹かれその花びらを散らしても、なお咲き続ける桜。
「遊女と、同じ……ね」
夜毎、散らされ。
夜毎、咲く。
決して実を結ばぬ、花。
私は一年分の折り鶴を、土の上へ置いた。
『美桜』
愛しい娘の名の隣に、かんざしで傷を一つ付けた。
「……やっつ」
これで、八つ。
私はここにいない娘を想って、自分のお腹の辺りを抱きしめた。
きっと、これくらいの大きさ。
「……み……お」
生温かい涙が、手の甲へ落ちた。
誰もいない腕の中、黒髪の少女を想って泣いた。
あの子はもう、ふにふにとした柔らかさを失ってしまっただろうか。
幼い丸みの落ちた、細い少女の体。
きらきらとした瞳は、曇っていないだろうか。
散り行く桜の下で、私は暫し涙を流した。
「……えっ」
さらりとした、衣の音。
私の耳を掠め、肩に掛けられた着物。
「……さくら」
男の、声。
少し掠れた、あの人に良く似た声。
振り向くのが、怖い。
あの人の声が、私の本当の名を呼んだ。
「……見ないで」
遊女になった私の姿など。
鬼と交わり、物の怪になってしまった私の姿など。
「……見ないで」
白い手が、私を誘う。
ひんやりと冷たい手が、泣き腫らした顔に心地良い。
「何故、拒む。お前は……美しい」
見上げると、銀色の鬼。
伏せた目が艶っぽく、私を捕らえる。
……胸が苦しい。
「……どうして」
どうして私の本当の名を、呼ぶの。
どうしてあの人と同じ声で、私を呼ぶの。
「肩が震えていた。お前が……寒そうに見えた」
私は首を振った。
銀色の鬼に逢ったのは、これで三度目。
私はあの後、避けるように此処へはこなくなった。
「……さようなら、銀朱」
私は立ち止まったまま、鬼に別れを告げた。
鬼は、私の両肩を掴んだまま離さない。
「……俺はずっと待っていた、お前の名も知らぬまま」
さくらと読んだのは、名を知らなかったから。
皮肉な事に鬼は、偶然私の名を呼んだのだ。
そのせいで、私は……。
「……薄紅」
名乗らなければ、良かっただろうか。
そうすれば、あの人の声で私の名が聞けたのに……。
「薄紅。俺はもう、お前の知っている弱い鬼ではない」
「人を……喰った……の」
鬼は人を喰うと、強くなる。
「人など、喰わぬ」
「……どうして」
「俺は、自分の力で強くなる。人など、喰うに値しない」
私は、どうして鬼の話を聞いているのだろう。
はらはらと散る桜の下、私は鬼と二人きり。
きっと、黒紅が咎めるはずなのに……。
人を喰わぬ鬼が、そんなに私の興味を引くのだろうか。
それとも……。
「もう、逢えぬと思っていた」
肩を掴んでいた手が、首にまわされた。
「逢わない方が、良いのです」
うつむいたまま、答えた。
「では、別れの言葉を」
鬼は、さらりとそう言った。
別れの言葉。
さようならと告げようと、顔を上げた。
「……言わせぬ」
素早く顎を掴まれ、私は引き寄せられた。
首元から降りてくる手を、拒む事も忘れて。
熱っぽい眼差しに、胸が苦しい。
何度も塞がれる唇に、逆らえないのは何故。
これは、罪。
後できっと、罰を受ける。
愛も、恋も。
この世界では、無縁。
私は、幻を見たのだ。
良い鬼の幻を。
あの人に良く似た幻を。
これは、私だけの罪。
罰なら全て、私に下さい。