2 七つの子
ひとつ、ふたつ、みっつ。
よっつ、いつつ、むっつ。
……ななつ。
この世界に来て、三年が過ぎた。
桜の大樹に刻んだしるしは、七本になった。
「ごめんなぁ」
傷をつけた後ろめたさから、木肌を撫でた。
「もう、七つ」
毎年刻んだしるしは、娘の歳。
小さくて柔らかくて、暖かい幼子。
指の先から頭まで、ふにふにとやわらかい。
きらきらと透き通った、大きくて綺麗な瞳。
「小学生かぁ……」
記憶の中のあの子は、いつも四つの姿のまま。
小さな、小さな歯がやっと生え揃ったばかり。
ランドセルは、ちゃんと背負えただろうか。
重くて、泣いてはいないだろうか。
不自由など、してはいないだろうか。
桜の樹。
私とあの子の名前。
夕刻は、寂しい。
闇が来るまでの、ひと時。
人間だった頃を、思い出す黄昏。
闇が、来る。
私は涙を拭った。
此処は『百姫楼』
百の鬼が創りし、女の牢獄。
私は遊女。
喘いで、善がって生きていく。
仮初めの、命。
娘が攫われぬよう、体を開く。
娘の命が果てる、その日まで。
鬼と交わるなど。
大した事では、無い。
***
袂で涙を拭った。
憂いていては、夜は勤まらず。
私は、裾を大げさに翻し向きを変えた。
『百姫楼』に戻らなくては、いけない。
馴染みの客、黒紅様が今宵もやって来る。
「赤い……。これは……」
桜の花びらよりも、赤い。
深紅の花びらが、散っている。
見た事のない色に、一つ拾う。
「……血」
花びらのように見えたのは、深紅の血。
ぽたぽたと、どこからか続いている。
「はて……」
恐ろしさよりも、好奇心が勝った。
私は、散った血の跡を指差しながら辿った。
「あらっ」
辿り着いたのは、先程の桜の大樹。
首を傾げながらも、その血に導かれるように歩いた。
「あっ」
夕刻だというのに、光が……。
さらさらとした銀色の髪が、差し込んだ光のせいで透き通って見えた。
「綺麗……」
膝を折って、目の前に座るが男は目を開かない。
「鬼よねぇ、きっと」
この世界に人間など、いない。
いるのは、美しい鬼と醜い鬼。
それと、美しい遊女。
男が、苦痛に顔を歪めた。
「血……」
良く見ると、男は血まみれだった。
赤い着物は所々が白く、模様は紅く染まっている。
「大丈夫っ」
男の頬に手を当てるが、反応がない。
引き戻した手には、べっとりと血がついていた。
「あ……い、いやああああ」
血塗れの、男。
血だらけの、私の手。
「嫌っ」
流れて止まらない、血。
「駄目っ」
助けなくては。
この人まで、死んでしまう。
流れる血が、命を削ってしまう。
震える手を、必死で押さえた。
助けなくては。
もう、誰も私の前で死なないで。
衣を裂く音が響いた。
私は、自分の着物を裂き男の傷を縛った。
庭の井戸で水を汲み、男の肌を拭いた。
「死なないでっ」
男の頬を何度もさすった。
意識は戻るだろうか。
「……お、まえ」
長い睫毛が揺れた。
男の鋭い目が、私を睨む。
「お前誰だ。何故、助ける」
男は、やはり鬼。
瀕死の怪我を負いながらも、強い力でわたしの胸倉を掴む。
「……私は遊女。百姫楼の薄紅。あなたが、怪我をしていたから。……私、ただ助けたかっただけよ」
目の前で人が死ぬのは嫌だと、微笑んだ。
鬼には、理解できないだろうけど。
「男なら、誰でも良いという訳か」
男は肩で息をしながらも、恐ろしい牙を見せた。
私の顎を掴み、覆い被さって来た。
熱い舌が差し込まれる……。
……させない。
私は鬼の頬を張った。
弾ける様な良い音が響いた。
「私は遊女。でも、あなたとは交わりません」
約束を、黒い鬼と。
目を丸くした、銀色の鬼。
美しい、血塗れの鬼。
私は鬼を其処に残して、百姫楼へと戻った。
闇が来る。
百姫夜香の闇が来る。