22 攪乱(かくらん)
かさり、かさりと。
不規則な、足音。
紅葉の見事な木々。
掌でも余る、黄色い落ち葉。
かさり、かさりと踏みつけられてゆく。
闇は、まだ明けぬ。
暗い明け方に、居残りし闇。
足音は不規則に、こちらへと向かう。
彼は、誰。
返り血を浴びた、悲しい鬼。
明け方は、彼は誰時。
訊かねば判らぬ、薄暗さ。
彼は銀朱、銀色の鬼。
私は、誰。
彼の目に映る、私は誰。
***
花びらは、雪のように降り続いた。
はらり、はらり、はらり。
銀朱様は、この木の表に座っている。
うな垂れたまま、随分経つ。
私は……薄桃。
薄桃色の花びらから、付けられた名前。
そう、あの日。
あの日も、私の髪についていた花びら。
桜の……花びら。
「銀朱様……だったんだ」
あの日……私は銀朱様を見た。
いつもなら通り過ぎる、神社の境内。
吸い寄せられるように、動いた手足。
奥へ、奥へ。
そこで私は、季節外れの桜を見た。
はらはらと、散りゆく桜。
その下で待つ、銀朱様。
その姿は美しく、何故か胸が詰まった。
私は銀朱様に手を引かれ、鳥居をくぐった。
何故だろう。
忘れていた記憶が、甦る。
『桜』
百姫楼に来て、何故か忘れてしまった花の名前。
私にとって大切な、言葉。
「銀朱様」
私は、堪らなくなって声を掛けた。
返り血を浴びたのだろう。
着物は赤黒く汚れ、剥き出しの腕や顔にも点々と血がこびりついている。
汗をかいたのだろうか。
顔には、銀色の髪が針の様に張り付いている。
「美しいお顔が台無しです」
私は自分の着物の袖で、銀朱様の顔を拭った。
「……っ」
灰色の瞳。
そこから、一筋。
流れ続ける、雫。
銀朱様は、表情の無い顔で涙を流し続けた。
拭えど、拭えど、枯れぬ雫。
まるで、壊れてしまった人形の様だった。
『この身は銀朱へ』
私は、袂に大切にしまったあの紙を取り出した。
銀朱様の掌にのせ、握らせた。
「私は、小箱の中身を知りません。でも、あれは銀朱様の物です。銀朱様が持っていて、下さい」
過去に何があったのか、私は知らない。
でも、銀朱様と薄紅の間には……。
私の知らない、特別な想いがあったのだろう。
「銀朱様、闇が明けます」
薄暗い闇が、白く明けていく。
「闇が明けたら、お別れです」
空から、一筋の光が差し込んだ。
この桜は、幽玄。
鬼の力で咲かせた、幻。
光を受け、一層早く散りゆく桜。
「さようなら、銀朱様」
何故、だろう。
あんなに恐ろしかった鬼なのに、別れは胸が詰まる。
桜が、雨の様に降り続く。
きっと花びらで、外から私達の姿は見えない。
「さようなら、銀朱様っ」
私は、初めて自分から口付けた。
同情なのか、何なのか……説明できない想い。
ただ、少しだけ……悲しくて愛しく思えた。
ただ、それだけ。
「……もう、行け。……さくら」
銀朱様は、最後に名を呼んだ。
それは、きっと愛しい人の名前。
はらはらと、桜の花びらが降り積もる。
銀朱様の髪にも、桜が舞い落ちる。
こんな姿は、悲し過ぎる。
どうか、お願い。
このまま桜が、銀朱様を隠してくれますように。
誰よりも強いこの鬼が、涙を流す時間を下さい。
私は、走った。
川辺へ向かって。
私は、帰る。
愛しい人の待つ、世界へ。
***
陽が上り、陽が堕つる。
夕刻には、橋が架かる。
私の世界へ、繋がる橋。
「たけるーっ」
私は大きく手を振った。
健が、私の名前を呼んでいる。
やっと、元の世界へ帰れる。
私は、温かい健の胸に飛び込んだ。
黄昏時は、逢う魔が時。
私は、健と二人橋を渡った。
何故だろう、後ろ髪を引かれ振り向いた。
川の向こうに、人影。
黒い着物を着た、銀色の鬼。
赤い振袖を、肩に掛けた鬼。
「鬼は、やっぱり嘘つきです」
私は、川の向こうへ向かって叫んだ。
『嘘を吐いても、傷つけても。何をしてでも、傍に置きたかった』
銀朱様の声が、頭の中に聞こえた。
きっと、健には聞こえていない。
「……どうかした、美桜」
私は首を振った。
「帰ろう、健」
私は今度こそ、しっかり手を繋いだ。
大切な人を、なくさない様に。
私の名前は、美桜。
母親がつけてくれた、大切な名前。
桜の木に刻まれた、私の名前。
「ありがとう、お母さん」
お母さんは、私の事を忘れてはいなかった。
あの桜の木には、私の名前と共に歳が刻まれていた。
私は、健の手を強く握った。
もうこの手を離さない。
さようなら、銀朱様。
美しい、銀色の鬼。
私は、健と鳥居をくぐった。
次で終わりです。