20 錯乱(さくらん)
ぼんやりと、灯りが照らす寝具。
赤い布団はさらりとした、肌触り。
眠る為ではない、寝具。
さらりと赤いこの布は、女の肌に映える色。
手荒な扱いを受けると怯えていた、私。
そっと降ろされた体に、落とされた唇は……触れるだけの、切なさ。
力強いその手は、繊細な動作で頬と唇をなぞっていく。
「……薄桃」
本当は、違う名を呼びたかった。
そう、思わせる銀朱様の声。
見下ろす瞳も、きっと私を通して違う人を想っている。
「……薄桃」
灰色の瞳が、怖い。
見つめられても、私を見ていないような。
喜びも悲しみも見えない、灰色の瞳。
……銀朱様が、わからない。
美しい姿も、惑わすその声も。
人を喰ってしまうようには、見えない。
「……どうして」
どうして、お母さんを愛したのですか。
どうして、喰い殺してしまったのですか。
……どうして、まだ想っているのですか。
帯に手がかけられた。
これを許してしまえば、私は帰れない。
「銀朱様」
解かれまいと、両手を結び目にかけた。
銀朱様は易々(やすやす)と、私の手を組み敷いた。
「銀朱様、お願いです。私を……帰して下さい。名前を……呪いを、解いて下さいっ」
力の差なら、歴然。
組み敷かれたまま、何もできず涙がこぼれた。
「それが駄目なら……。お母さんと同じように、して下さい。帰れないなら、せめて……。お母さんに、会いたい」
明日が最後。
帰れないなら、いっそこのまま……。
健に会わないまま、終わりたい。
私が帰れなかったら、健がこの世界に残ってしまう。
それは……絶対に駄目。
健が、鬼に殺されてしまう。
銀朱様の手が止まった。
「喰う為に、連れてきたのではない。……薄桃、お前は絶対に喰わぬ」
するすると、解かれていく帯。
抵抗しようにも、抑え込まれた体は動かない。
「私にだって、想う人がいるのですっ。だから……嫌です……こんなの……」
……助けて、健。
涙が、頬を流れ落ちる。
私の声は、銀朱様には届かない。
嫌がる私を、それでも愛おしそうに味わっていく。
帯は完全に緩まり、歯切れの良い衣擦れの音が聞こえた。
引き抜かれた、帯。
私は、怖くなり目を瞑った。
「……これは」
銀朱様の動きが、止まった。
恐る恐る目を開けると、私の体に跨ったまま動かない銀朱様。
「……これはっ」
桐の小箱。
それは、夕鶴姉さんがくれたお守り。
お母さんの形見。
「薄桃、これはっ。これはどうしたっ」
これ以上ないくらいに、目を見開いた銀朱様。
明らかに、動揺している。
私の肩を掴んで、体を揺すっている。
そういえば、黒紅様も欲しがっていた『小箱』
もしかして、これがその小箱なのだろうか。
「……お母さんの形見だって……夕鶴姉さんがっ」
「黒紅ではないのかっ」
銀朱様は、箱を胸に抱いたまま私に問う。
「違います。黒紅様は、銀朱様が小箱を持っているはずだって……。これは、形見でもらったんです」
銀朱様は私から手を離し、小箱を大事そうに撫でた。
「何が……入っているんですか。姉さんは、古いものだから開けないでって」
お母さんの形見。
銀朱様はゆっくりと箱を開けた。
中から小さな紙を取り出し、蓋を閉じた。
「そんな……」
銀朱様の指から、紙が滑り落ちた。
肩が揺れている。
銀朱様は小箱を胸に抱え、うな垂れた。
肩が揺れている。
私は手を伸ばし、銀朱様の指から滑り落ちた紙を拾った。
それは、小箱に丁度収まる大きさの……小さな和紙。
「これは……」
……嘘だ。
私は、信じたくなかった。
薄紅さんは、私の母親で……。
私の為に、この世界に来た。
私の知っているお母さんは……。
……違う。
もしかしたらと、想像しなかったわけじゃない。
でもそうだったのなら、何故、銀朱様は……。
「……薄桃。この箱は夕鶴から受け取ったと言ったなっ」
赤い瞳。
殺気立つ、銀朱様。
銀色の髪は逆立ち、牙があらわになった。
その瞳には、もう何も映っていない。
片手には、小箱。
胸に抱いたまま、離さない。
もう片手には……紅蓮の炎。
全てを焼き尽くしてしまいそうな、紅い色。
「欺いたなっ、夕鶴」
銀朱様は、笑っていた。
鬼の形相で、肩を震わせ笑っていた。
「愚かな事を……許さんっ」
腕を振る、銀朱。
炎は横に揺れ、刀へと形を変えた。
「斬り殺してくれようっ」
銀朱は襖を斬り倒し、怒号を上げながら部屋を出て行った。
廊下から聞こえる、悲鳴。
……怖い。
私は肌蹴た胸元を押さえ、自分の体を抱きしめた。
……震えが止まらない。
あんな銀朱様、初めて見た。
やはり、美しくとも鬼。
全てを焼き尽くしてしまいそうな炎を手に、銀朱は手当たりしだい斬っていく。
逃げる女の足音と、叫び声が木霊する。
銀朱様は、一体……どうしてしまったの……。
「薄桃っ」
黒紅様の声が聞こえる。
「逃げるでっ」
ふわり頭から、着物を被された。
……これで二度目だ。
黒紅様は、動けない私を抱かかえた。
「行くでっ」
視界が、煙い。
頭から被せられた着物の隙間から、焦げた柱が見えた。
「いやっ」
床に転がった……人。
襖には点々と、赤く散った花びらの様な模様。
耐え切れず、目を瞑った。
もう、これ以上……無理。
私は、恐怖に意識を手放した。