2 名は薄桃(うすもも)
世の中には決まり事がある。
それは人間世界でも、鬼の世界でも、この遊郭の世界でも。
「薄桃。どこにいるんだい?手伝っておくれ」
夕鶴姉さんの呼ぶ声。
私は、ゆっくりと目を開けた。
いつの間に、眠ってしまったのだろうか。
落ち葉が一枚、髪にまとわりついていた。
暖かかった陽は翳り、空は赤く染まっていく。
手には、食べ残した杏の実。
辺りに広がる、甘酸っぱい香り。
「いま、行きまーす」
私は、姉さんの居るであろう部屋の方を向いて返事をした。
急がねば。
空は、もうあかね色。
夕刻。
風呂の辺りから湯気が上がり、見世は慌しく動き始めていた。
これから陽が暮れるまで、準備に追われるのだ。
履物を脱ぎ、見世に上がる。
夕鶴姉さんの部屋は3階の奥、襖に描かれた大きな松の絵が目印だ。
「夕鶴姉さん。薄桃です。遅れてすみません」
襖の手前に座り、手をついて挨拶をする。
「入り」
揃えた手で襖を開ける。
中に入るとまた座って襖を閉める。
礼儀作法はここに来てから、嫌という程教えられた。
「薄桃、髪を梳いてくれないか」
「はい」
鏡の前に座った姉さんの後ろへまわる。
腰まである黒髪。
透き通るような白い肌は風呂上りだろうか、ほんのり赤みが差している。
この世のものとは思えぬ、美しさ。
「また、庭で遊んでいたのかい」
「はい」
一筋、また一筋。
美しい黒髪に、櫛を滑らせていく。
黄色く透き通った素材でできた櫛には、細かに花が掘り込んである。
確か……『べっこう』だと聞いた。
それが何なのか知らなかったけど、きっと高価なものだろう。
櫛は、姉さんの髪をするすると滑っていく。
「何か、良い匂いがする。甘い……。これは何だ」
「庭の杏です。お昼に少し頂きました。」
杏。
確かな事はわからないが、私は見た瞬間に杏だと思った。
きっと、記憶が無くなる前から知っていたのだろう。
ここの人達に聞いても、これが何なのかは知らない。
皆、杏など食べないのだ。
「薄桃は、まだ人間なんだねぇ」
憂いを含んだ、姉さんの声。
私は、一瞬手を止めた。
『まだ人間』
そう、私はまだ人間だ。
お腹は減るし、昼間に外に出る事もできる。
でも、姉さん達は違う。
何も食べず、陽の光にもあたれない。
姉さん達は……。
ここは『百姫楼』
人ではない、物の怪の遊郭。
客は、鬼。
人の形をした、異形の者。
妖しく、美しく、力のある鬼。
姉さん達はここで、鬼たちと交わる。
そうしなければ、生きていけない。
姉さん達は、鬼と交わる事で存在していけるのだ。
『仕方ないのよ』
ここの決まりを教えてくれた日、夕鶴姉さんがそう言った。
大きな満月を見つめながら。
白く透き通った肌、唇に差した紅が妖しく美しい。
『薄桃もきっと美しくなるわ』
姉さんはそう言って悲しそうに微笑った。
『仕方ないのよ』
私はその言葉を胸に、ここで生活している。
私には、記憶がない。
何処から来たのか、わからない。
此処が嫌でも、他に行く所なんてないのだ。
わかっているのは、私が人間だという事。
物の怪、鬼、杏。
普通に知識はある。
自分の事だけが、わからない。
『薄桃』という名はここにきてつけられた。
私が初めてここに来た日、私は何も持っていなかった。
ぼさぼさの髪、泥で汚れた服。
何もわからず、見世の前に立っていた。
「いらっしゃい。お姫さん」
闇の中から聞こえる、低く甘い声。
どこかで、一度聞いたような……。
「おや。姫、記憶がないのかい」
闇から聞こえる声に、私は辺りを見回す。
……誰もいない。
「そんなに、私に逢いたかったのか。……特別だよ」
「ひゃっ」
暗闇から、手が伸びてきた。
大きくて、筋肉質。それでいて、驚くほど白い。
手は私の顎を掴み、私は上を向かされた。
「……」
人だ。
背の高い、男の人。
「かわいい姫だ。このまま食べてしまおうか。」
声の主は、口の端を上げてにやりと笑う。
八重歯、いや違う。
鋭く尖った、牙のような……歯が見えた。
恐ろしい。
私は、上を向かされたまま動けなくなった。
顎以外は自由なはずなのに、体が言う事を聞かない。
「怖いのかい、姫。良い顔をしているよ」
この人は……何者。
恐ろしいのに、私はこの人から目が離せない。
「目も良いねぇ。やっぱり、このまま生かしておこう」
その人は、私の顎を掴んだまま指で唇をなぞった。
切れ長の目、灰色の瞳。
とおった鼻筋に、桃色の薄い唇。
銀色の髪は後ろで一つに結ってあり、さらりとした後れ毛が闇夜に光って見えた。
「やっぱり、まだ陽の気が強い」
そう言うと、私の顎を解放してくれた。
「行こう、姫。夕鶴に世話になるといい。良い女だよ」
また、口の端でにやりと笑った。
ちらり、真っ白い牙が見えた。
恐ろしい。
私は、言われたとおりついて行った。
その人に連れてこられたのが、ここ『百姫楼』
「夕鶴はおるかぁ」
その人に連れられ暖簾をくぐる。
さっきまでの闇が嘘のように、百花繚乱。
髪を結い上げ、華やかな着物を着た女の人達が控えていた。
「ようこそお越し下さいました、銀朱様」
銀朱。それがこの人の名。
美しい女の人達の中でも、霞まぬ美しさを持つ人。
「銀朱様」
艶のある声。
黒い階段をしゃなりしゃなり優雅に下りてくる。
艶やかな紫色の着物には、豪華な華々が咲いていた。
「夕鶴、姫をひとりつれてきたぞ。可愛がってやってくれ」
皆の視線が私に集まる。
煌びやかな見世の中。
泥に汚れた私は、恥ずかしさのあまりうつむく。
「名はなんと」
夕鶴と呼ばれた美しい人が、私に聞く。
名前……。
「おや、これは」
銀朱様が私の髪に触れた。
髪が一筋、銀朱様の手の中へ。
するりと滑っていく。
「花びらか。薄い桃色の……そうか、薄桃にしよう」
薄桃。
銀朱様は、私にその花びらを手渡した。
小さくて、可愛い薄桃色の花びら。
私はその日『百姫楼』の一員になった。
何も知らないまま、薄桃として。