18 逢瀬(おうせ)
朝は白く、靄のかかった『百姫楼』
姉さんを部屋に残し、私は川辺へと向かった。
大切なお母さんの折り鶴を、袂に抱えて。
草花は露に濡れ、果実は冷たく冷えていた。
私は川辺に座り、もぎって来た杏を齧った。
甘味も酸味も、さして感じない。
お腹の空かなくなった、私。
無理にでも食べていないと、怖い。
人間離れしていく様で、怖い。
陽が上り、陽が堕つる。
この世界では、朝昼が短い。
闇が大半を占める、物の怪の世界。
川に翳りが見えた。
空を映していた水面に、ぼんやりと影が架かる。
川の向こう側が暗く、はっきりと見えない。
目を凝らしていると、少しずつ確かな形に変わっていった。
あれは、橋。
『間違えるなよ、薄桃。夕刻にだけ川に橋が架かるんや。その橋を越えると鳥居が見える。そこをくぐれば、元の世界に帰れる』
黒紅様の教えてくれた、橋。
「……たける」
はっきりと見えない向こう側から、こちらに近づく人影。
「たける」
やっと、姿が見えた。
私は堪らず駆け寄った。
「たけるっ」
名を呼ぶ私に、長い手足の健が駆け寄る。
もう少し。
伸ばした私の手に、健の指先が触れた。
温かい、健の体温。
「ありがとう、健。こんな所まで……ちゃんと私を探してくれて」
抱きしめ合う腕に、力を込めた。
もう、離れたくない。
私、健とずっと……。
夕刻のひと時。
私と健は、しがみつく様に抱きしめ合っていた。
でも……。
きっと、お互いわかっていた。
健の名を呼ぶ私、私の名を呼べぬ健。
ここから帰るには、自分で名前を思い出さなくてはいけない。
「思い出してくれて、ありがとう」
優しい健の声。
「でも……ごめん」
健は、言い難そうに唇を噛んだ。
「明日が、最後になるかもしれない」
泣きそうな顔の健。
私はまだ、健の涙を見た事がない。
「入り口が……狭いんだ。こちらの世界への入り口が……閉じかかっている。」
唇を噛んで、耐えているのだろう。
赤く、潤んだ瞳が揺れている。
「でも。俺、がんばるから。必ず助けるから……。だから……」
心配しないでって、笑顔の健。
無理をして笑う瞳が、哀しい。
私は、ゆっくり首を振った。
『明日が最後』
きっと、そうなんだ。
じゃなきゃ、あの健が泣くはずなんか、ない。
「いいの……。健は充分がんばってくれたよ。ここからは、私が……がんばるから。絶対、思い出して健の元に帰るからっ」
健の唇が熱い。
私達は、泣きながら何度も口付けた。
今は身近に感じられている温もりが、明日には失われてしまうかもしれない。
怖くて、不安で堪らない。
茜色の空が、翳り行く。
闇が迫って来た。
「健。私、ずっと健が好きだから」
明日で最後かもしれないなんて……。
「俺も、大好きだからっ。明日が最後なら、俺。ここに残っても構わないから。こんな所にひとりで残してなんて……絶対できないからっ」
闇が、迫る。
最後にもう一度、優しく口付けた。
『明日で最後』
健が、橋の向こうに消えていく。
私は、百姫楼に向かって走った。
決着をつけなくては、ならない。
『明日が最後』
ならば私は……。
銀朱。
私は、銀朱の待つ百姫楼へ向かった。
もう少しで終わります……。