15 黒い鬼
甘い香り。
ふっくらと膨らんだ、果実。
黄味がかった橙色の、杏。
『百姫楼』の庭。
そこは私にとって、一番の安らげる場所だった。
鬼も物の怪もいない、暖かい陽が差す庭。
大きな牡丹の花が咲き、木々は実る。
鮮やかな黄色い、銀杏の美しさよ。
……狂っている。
花も実を紅葉も、それぞれが見事に盛る。
季節の無い庭。
美しい鬼、美しい遊女。
誰も年を取らず、美しいまま。
……何もかもが、狂っている。
愛されずとも交わり、愛せずとも声をあげる。
そんな行為に、何の意味があるのだろう。
心も体もすり減らし、それでも生きていると言えるのだろうか。
それでも……生きていかなければならないのだろうか。
杏の実を一つ、もいだ。
良く熟した橙色、甘い、甘い香り。
一口かじって、すぐに吐き出した。
「……甘いっ」
甘くて、甘くて、忌々(いまいま)しい。
こんなに私は苦しいのに、杏はなんて……無神経。
この世界には、何ひとつ甘い事などありはしないのに。
今宵物の怪になってしまう私には、甘い事など……。
杏を地面に、叩き付けた。
ぐちゃりと潰され、なお転がる杏の実。
「……あれは」
行き止りだと思っていた、大木の裏に小道が見えた。
私はふらふらと誘われるように、小道を歩いた。
さわさわと、風が騒ぐ。
小道の先には、大きな切り株。
私の両手では事足りない、大きな幹だったのだろう。
幾重にも巻かれた年輪が、その木の歴史を語っている。
切り株は大きな所で私の背丈ほどあり、右上から左下に向かって切り落とされていた。
まるで、切れ味の良い刃物で斬られたように。
小道の先には、それしかなかった。
何故だろう、この木を見ていると心が騒ぐ。
斬られた大木に体を寄せ、目を閉じた。
僅かに感じる、暖かさ。
「……こんな所におったんか、薄桃」
着流しの着物、花吹雪。
「……黒紅、さま」
黒い鬼は、音も立てずにそこにいた。
優しい顔をして、あざ笑う鬼。
「よう見つけたなぁ。此処は表からは見えんやろ。……血は争えんっちゅう事か」
袂に手を仕舞い、腕組みをしたままなにやら頷いていた。
何故だろう。
今日の黒紅様は、神妙な顔をしている。
「この木はなぁ、それは見事な花を咲かせるんよ。……闇夜に映える、薄紅の花」
薄紅という言葉に、胸が騒いだ。
失われてしまった、その木はどんな花を咲かせていたのだろう。
「……本当に、美しかったんよ。花も、薄紅も。あかんなぁ、此処は。まるで鬼門や。想っても、何も手には入らんのに」
まだそこに花が咲いているかの様に、黒紅様は手を伸ばした。
「なぁ、薄桃。人間は楽しいか。人間は脆くて、弱い。せやのに、心だけは簡単にくれん。……何でやろ」
この人は、昨晩と同じ人なのだろうか。
夕鶴姉さんの痴態を見せ付けた、心無い鬼のはずなのに。
心など、欲する事など無いと思っていたのに……。
「……心は、誰の思い通りにもなりません。だから、苦しいのです。……鬼は、楽しくないのですか。強い力も、何もかも……思い通りにしてしまうではないですか。人間は、鬼の前では無力です」
黒紅様は、何か言おうと口を開いたが何も言わなかった。
代わりに、そっと私を抱きしめた。
「この木はなぁ、銀朱が切り落としたんや。あいつは此処で……薄紅と会うとった。俺の目を盗んで。薄紅は……俺が攫ってきた。名前だって、俺のを一文字取って付けてやったのに……」
黒紅様と、薄紅。
過去に一体、何があったのだろう。
銀朱様も黒紅様も、薄紅さんを想っていた。
ならば、薄紅さんはどうだったのだろう。
『愚かな心が引き起こした悲劇』
そう言って泣いた、夕鶴姉さん。
亡き薄紅さんに、縛られて生きる鬼達。
私は、うな垂れたままの黒紅様の頬に手を当てた。
太刀傷の引きつった皮膚を、撫でた。
恐ろしかった鬼なのに、今は何故か哀れに見える。
「鬼は長生きなのでしょう。この傷も長い間さすっていれば、消えましょう」
「……うす、べに」
「違います。私は薄紅でも、薄桃でもないのです。本当は」
目が、見開いた目が、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「……負けたわ」
「えっ」
黒紅様は私の体を解放し、元通り袂に手をしまった。
「ええ事、教えたる。薄桃、元の世界に戻りたいやろ」
にやり、黒紅様が笑った。
「この木の向こうに、道がある。そこを真っ直ぐ行くと、川がある」
庭の外の川。
それは少年のいた、あの川の事だろう。
「間違えるなよ、薄桃。夕刻にだけ川に橋が架かるんや。その橋を越えると鳥居が見える。そこをくぐれば、元の世界に帰れる」
「ほんとう……に」
元の世界に帰れる。
鬼のいない、少年のいる世界。
「けどなぁ、問題が一つあるんや」
「問題って」
胸が高鳴る。
希望が、絶望していた私に希望が見えた。
「名前。元の世界に戻るには、自分の事を思い出さんと帰れんのよ」
「そんな……」
力無く、その場に座り込んだ。
私には、記憶がないのだ。
どうして、名前が思い出せようか。
「薄桃には、呪いがかかっとる。記憶がないんはそのせいや。誰ぞ、攫ってきた鬼がかけた呪い」
悔しくて、地面を叩いた。
呪いが、かかっているなんて……。
結局は、籠の鳥。
「闇が、来るで。薄桃、そろそろ戻らんと折檻される。お前は、今日から遊女やろ。遊女の世界は、甘もうないで」
もう、何も見えない。
為すがままの私は、『百姫楼』に引き渡された。
女将が何か小言を言ったけど、それも良く聞こえなかった。
風呂で磨かれ、髪を結い上げられ。
豪華な着物を着せられ、長いかんざしを髪に挿された。
皆が喜んでいた。
鏡に映る私は、すでに遊女のそれ。
私は一体、誰。
白い肌も、赤い紅も。
漂う色気に、吐き気がする。
『 黒い鬼は、残酷だ。
絶望した人間に、希望を見せる。
つかの間の希望、酔いしれる人間。
黒い鬼は、残酷だ。
希望の後に、絶望をくれる 』
なんて、滑稽。
可笑しくて、笑いが出る。
鏡の前で私は、遊女のように艶っぽく笑って見せた。
私は遊女。
愛でてもらうが、幸せ。