13 籠女(かごめ)
夢を見ていた。
銀朱様の背中。
黒地の着物に、銀糸の刺繍。
「愛しい、愛しい、私の薄紅」
銀朱様は、手鞠模様の着物を抱いている。
畳には赤い布団。
解かれた帯や、襦袢が淫らに散乱している。
「……銀朱さま」
名を呼べど、振り向かぬ。
まるで、私の存在などないようだ。
「愛しいなぁ」
ぴちゃぴちゃと、水音が聞こえる。
……見てはいけない。
危険だと、五感が訴えている。
なのに体は、銀朱様へと近づいていく。
覆い被さっている背中。
下から上へ、上から下へ。
銀朱様の頭が揺れている。
舐め回すように、ゆっくり、ゆっくりと。
「いやあああああ」
その光景の陰惨さに、私は声を上げた。
私の叫び声など、誰にも聞こえない。
淫靡な世界。
ぴちゃぴちゃと、響く水音が卑猥。
「美味しいなぁ、薄桃」
振り返った銀朱様。
右手には、もがれた女の白い腕。
深紅に染まるは……。
赤い布団は、何故赤い。
紅を引いた、銀朱の唇。
染めたのは……。
女の血塗れの指。
愛おしそうに頬ずり、しゃぶりつく。
銀朱の口の端から、漏れる女の血。
鬼は、恐ろしい。
血に塗れても、なお。
色香の漂う、美しさよ。
***
「いやああああっ」
叫び声で、目が覚めた。
「ゆ、ゆめっ……」
私は、うなされていたようだ。
高鳴る心臓、針のように額に張り付く髪。
こめかみにある水滴は、汗なのか涙なのか。
「怖かったぁ……」
鮮明に蘇る、映像。
夢の中で銀朱様は、人を喰っていた。
あれは、きっと見たことも無い薄紅さん。
私の妄想が見せた、夢。
黒紅様から話を聞いたせいだろう、こんな夢をみたのは。
しかも喰われたのは薄紅さんなのに、いつの間にか私に入れ替わっていた。
「……悪夢だわ」
額の汗を拭い、呼吸を整えた。
昨夜のお酒のせいだろうか、頭が重い。
障子から、西日がこぼれていた。
私は、夕鶴姉さんの部屋で寝ていたようだ。
「嫌だ」
忘れたくても、昨日の情事が頭にこびり付いている。
好いた人の前で、他の人と交わる姉さん。
あの嬌声は何だったのか。
嫌だと叫んだはずなのに……。
『良い』
姉さんの口から漏れた声。
それは確かに『良い』と聞こえた。
「嫌だ、嫌だっ」
妄想を振りほどくように、重い頭を振った。
何も知らず、無神経に差し込む西日。
私は立ち上がり、障子を開けた。
「もう、夕刻なの……」
行かなくちゃ。きっと、少年が待ってる。
私は、急いで着物を調えた。
今の私には、少年が命綱に思えた。
この異常な世界に飲み込まれていく私の、唯一の光。
「何処へ行く、薄桃」
「……姉さん」
生気を取り戻し、凛とたたずむ姉さん。
好いてもいない人と交わり、なお美しい。
「話があります。其処へお座りなさい」
有無を言わせぬ、姉さんの口調。
只事ではない雰囲気に、私は大人しく従った。
「姉さ……」
声を掛けようとした時、すっと襖が開いた。
「話したのかい。夕鶴」
女将だ。
姉さんが首を振ると、女将は私の目の前に座った。
「めでたいなぁ、薄桃」
女将はいつものせっかちな話し方とは違う、ねっとりとした口調で話しかけてきた。
胸の前で、手を揉みながら薄笑いを浮かべていた。
「もう、屋根裏で寝なくていいんよ。隣の……若竹の間を使い」
「それは……」
ここは松の間、夕鶴姉さんの部屋。
私に、部屋が与えられる。
それは……。
「良かったなぁ、薄桃。銀朱様が、お前の馴染みになってくれるんやって。屋根裏から、えらい出世や」
饒舌な女将。
せわしなく、動く手。
ケラケラと笑い、手を打ったり揉んだりまねいたり。
「やだよ、聞いてんのかい」
反応のない私に、女将が詰め寄る。
「お前、まさか……」
張り詰めた空気の中、弾ける様な音が響いた。
気が付けば、私は右下を見ていた。
「客を取るのが嫌だって言うのかい」
左の頬が熱い。
そうか、私は女将に頬を打たれたんだ。
「自分だけ特別だとでも思っているのかい。思い上がるんじゃないよ。ここの遊女を見てごらんよ。皆、別々のお国言葉を話しているじゃないか」
女将は立ち上がり、手を握りしめている。
よほど、怒っているのだろう。
「あたしらの時代の遊女は皆、ありんすなんて廓詞を使ったもんだよ。ここの遊女はどうだい。ここは人間世界じゃないんだよ、出生を隠す必要があるのかい。ありゃしないよ。皆、攫われてきた人間なんだから」
私は、何も知らなかった。
ここは、物の怪の遊郭ではなかった。
「年季も明けない。身請けも無い。逃げて鬼に喰われるか、鬼と交わり不老になるか。はたまた、恨みを積み重ねて鬼になるか」
女将は、扇子を取り出し扇いだ。
遊女だった女将。
長い時間の中で、恨みを積み重ねていったのだろうか。
深いため息の後、まるで他人事のように話を続けた。
「快楽の中でのみ生きていける。止めてしまえば、枯れて死んでしまう。全く、悲しいのぉ」
ぴしゃりと扇子を掌に叩きつけ、閉じた。
「ここは『百姫楼』。捕らわれた女の地獄。籠の鳥なら鳥らしく、愛でてもらうが幸せか」
女将は笑っていた。
部屋を出た後も響く、笑い声。
残されたのは、姉さんと私。
打ちひしがれた、籠の鳥。