10 今宵は満月
『銀朱様がいらっしゃった』
女将は休めと言っておきながら、銀朱様が承知しないと夕鶴姉さんを呼びに来た。
おぼつかない足取りで、迎えに行く姉さん。
さっきの話を聞いたせいか、うれしそうにも見えた。
支えてあげたいけど、私は行けない。
見世に出ることは許されていない。
屋根裏に引き上げようとする私を、女将が引き止めた。
「薄桃。仕度しな」
何故。
問う代わりに目を見開いた私を、女将は鏡の前に座らせた。
「いいかい。粗相があっちゃいけないよ。お前は客の横で、酒を注ぐんだよ」
髪を結われ、赤い手鞠模様の着物を着せられた。
帯は後ろで結ばれ、ほっと胸を撫で下ろした。
遊女の帯は、解かれるもの。
客が解きやすいよう、胸の下で結ばれる。
化粧は控えめに。
ぽってりとした唇に、小さくのせられた紅。
色気のない私が、色づいていく。
……なんて、恥ずかしい。
出来上がった姿に、自分が女だという事を思い知らされているようで。
「いい出来だよ、薄桃。見世に出る日も、遠くはないね」
女将は鼻先で笑い、鏡越しに私の顔を見た。
「今宵は満月。さぞや、鬼の力も漲っているだろうよ」
意味有り気に呟くと、また鼻先で笑い部屋を出て行った。
残された私は、言われたとおり夕鶴姉さんと客の待つ隣の部屋へ向かった。
「失礼します」
襖の向こうには客。
力の強い、鬼の銀朱様。
私は、なるべく前日の行いを思い出さぬよう平静を装った。
「……黒紅様」
襖の向こうに、銀朱様はいなかった。
夕鶴姉さんの肩を抱き酒を飲んでいるのは、頬に刀傷のある黒紅様だった。
「えらい、可愛いなぁ。薄桃。隣においで」
黒紅様の隣には、夕鶴姉さん。
私は間に入ってよいのか、わからなかった。
「ええんよ。夕鶴はつらそうやから、代わったげて」
するすると、姉さんが黒紅様から離れていく。
姉さんの代わりと言われて断れるはずも無く、私は黒紅様の横に座った。
「失礼します」
姉さんは私と入れ替わると、部屋を出て行ってしまった。
「えっ……」
部屋には、三味線の音。
踊りを踊る、知らない遊女。
……頼れる人などいない。
「怯えなさんな。心配せんでも、取って喰ったりせん。俺は、銀朱とは違う」
黒紅様は、盃の酒を飲み干しながら囁いた。
「えっ」
「知らんのか。銀朱は昔、女を喰うた」
「う、そ」
真っ赤な漆塗りの銚子。
酒を注ごうと持ち手を持てど、手が震える。
「美しい女やったなぁ。けど、何で喰うたんやろ。えらいお気に入りやったんに。確か……薄紅言うたなぁ。なんや、薄桃と似とるなぁ」
黒紅様は、私の震える手を押さえ酒を注いだ。
三味線の音も、舞う遊女も。
何も、聞こえなかった。
銀朱様は女を喰った。
しかも、美しくお気に入りの……。
私の頭には、『仕方ない』と笑った夕鶴姉さんの顔が過ぎった。
他人事ではない。
意に添わねば、私だって……。
「どうしたん、薄桃。そんな泣きそうな顔してたら、あかんよ」
黒紅様の言葉に、はっと顔を上げた。
私は、夕鶴姉さんの代わりにここにいるんだ。
酒の相手くらい……。
「煽られて、食べてしまいたくなるわ」
「やっ」
黒紅様の赤い舌が、私のうなじを舐めた。
酒を注ぐだけで、済むのだろうか。
ここは、遊郭。
「可愛いなぁ。けど、なんで陽の気が弱まらんのやろ。なぁ」
何故だろう、誰かに同意を求めるような言い方。
黒紅様は、窓の外を見上げ酒を飲んだ。
「おっきなお月さんやなぁ。薄桃、帰りたくないんか。元の世界の事、な~んも思いだせんのか」
闇夜に浮かぶ、満月。
大き過ぎて、怖い。
黒紅様に促され、月を見上げた。
元の世界……。
『たくさん食べて、帰ってきて』
少年の言葉を思い出した。
優しい少年の待っている、元の世界。
……帰りたい。
障子に体を寄せた。
知らぬ間に、涙がこぼれた。
「月を見上げて、涙を流す。まるで、かぐや姫やなぁ。お迎えが来るとええなぁ」
黒紅様は、優しい笑顔でそう言った。
「はい」
化粧が崩れぬよう、そっと涙を拭った。
もしかして、黒紅様は良い人なのだろうか。
帰りたいと願えば、助けてくれるのだろうか……。
「もう、ええよ。薄桃はお帰り」
黒紅様は、腰を上げた。
「帰られるのですか」
くつくつと、声にならない笑い声。
「薄桃、ここは何処や。する事は、ひとつやろ」
ここは、遊郭。
優しげに見えた黒紅様が、赤い舌を見せ笑っている。
私は、その姿を呆然と眺めていた。
「夕鶴の所に行って来る」
「そ、そんな……」
姉さんは、銀朱様を……。
「なんや、薄桃が相手してくれるんか。ええよ。今日は満月やからねぇ。陽の気ぐらい何ともないやろ」
楽しんでる。
この人も、やっぱり鬼。
「や……いやぁ」
私は、黒紅様に向かい首を振った。
何度も、何度も。
姉さんの事より、何より。
ただ、自分が大事で。
「えらい、嫌われたなぁ」
黒紅様は、そう言い残して部屋を出て行った。
くつくつと笑いながら、肩を揺らして。
私は、その場から動けなかった。
何もかも、恐ろしい。
ここに居るという事は、そういうこと。
遊女に相手を選ぶ権利など……ない。
私が甘かったのだ。
此処は、鬼のいる地獄。
女は喰い尽されるだけの存在。