第1話 推しであるあなたの手にかかるなら本望……って、なぜ屋敷にさらわれてきているのです?
暗い地下牢の中で、金色の巻き毛が輝いていた。
金属製の手枷・足枷で四肢を壁に拘束され、自由を奪われた女性。
彼女の髪が、わずかな月明かりを反射しているのだ。
決して華美ではないが、さりげなく華やかで上品なデザイン。
そして上質な生地で作られている、薄桃色のドレス。
それを身に纏う彼女の名は、リコリス・リスコル。
この地を治めていた、リスコル公爵のひとり娘だ。
今年で20歳になるリコリスだが、年齢より若く見える。
元々小柄なこと。
今は幽閉されて、痩せ細っていることなどが理由だ。
顔立ちも可憐すぎて、やや幼く見えてしまう。
だが今、リコリスの可憐さは見る影もない。
ゲッソリとした頬。
幽鬼のように青白い顔色。
ドレスは泥とホコリに塗れ、華やかさとは程遠かった。
数日間閉じ込められ、髪の手入れなどしていない。
それでもまだ形を保つゆるふわの縦ロールヘアは、彼女が高貴な身分の令嬢であることを静かに主張していた。
不意に、リコリスの巻き髪がふわりと揺れる。
地下牢の中を、風が吹き抜けたのだ。
それは何者かが扉を開け、侵入してきた証。
頬を撫でる空気の感触に、朦朧としていたリコリスの意識は覚醒した。
侵入者は鉄格子の扉を開け、牢内へと踏み込んでくる。
近づく靴音に、彼女は閉じていた青い両目を開けた。
月明かりだけでも分かる長身と、広くて逞しい肩幅。
男性だ。
それも、かなり鍛え上げられた戦士。
その人影を見た瞬間、リコリスの胸に押し寄せたのは懐かしさ。
そして憧憬と、切なさだ。
人影は魔法灯のカンテラを点灯し、壁に枷で磔にされたリコリスの姿を照らした。
「ヘンリー様……」
掠れた声で、リコリスは呼びかける。
ヘンリーと呼ばれた侵入者は、美しい黒曜の短髪と瞳を持つ30代半ばの精悍な男性だった。
鋭い顔立ちと視線は、猛禽類を連想させる。
全身を包むのは、雅やかな純白の騎士服。
それ越しでもハッキリ分かる、鋼のように鍛え上げられた肉体。
「黒鷲」の異名で知られる聖騎士団長、ヘンリー・レーヴァテインの姿がそこにあった。
リコリスは、ヘンリー騎士団長の大ファンである。
「推し」というやつだ。
平時の彼女であれば、自分好みの美丈夫が登場したことに鼻息を荒くしていたに違いない。
リコリスは、重度の筋肉フェチなのだ。
だがさすがに、今の状況では――
「リコリス嬢……。君とこのような形で再会するとは、思わなかった」
リコリス・リスコルは、貴族の頂点とも言える公爵家の娘。
対してヘンリー・レーヴァテインは、聖騎士団長とはいえ――
多くの聖騎士を輩出している超名門レーヴァテイン家の当主とはいえ、1代限りの騎士爵に過ぎない。
このような口の利き方は、明らかに不敬であった。
だが今のリコリスに、それを指摘したりする資格はない。
なぜなら今のリコリスに与えられた肩書は、リスコル公爵令嬢ではなく反逆者の娘だからだ。
「父は……公爵領の人々は、どうなったのです?」
このミラディア神聖国には、王族が存在しない。
巨大宗教ミラディース教の教皇が元首を兼ねる、宗教国家なのだ。
各領地を治める公爵家が、遥か昔に存在した王家の血を引く王族の名残りである。
別に王が存在しなくても、宗教国家の形態を取っていても大きな問題はなかった。
どの国でもそうであるように、完璧な政治などあり得ない。
だがそれでも、ミラディア神聖国はそこそこ上手くやれていた国家だったのだ。
それなのにリコリスの父リスコル公爵は、大規模な反乱を起こした。
『今こそ王制を復活させ、王族の誇りを取り戻すのだ』
と主張して。
自分の思想に共感する者達を自領に集め、リスコル公爵は突然武装蜂起した。
公爵領の住民達は、誰もそのようなことを望んでいなかったというのに――
父親や住民達の安否を気遣うリコリスに対し、ヘンリーは沈痛な面持ちで首を横に振った。
「父は……もう、処刑されたのですね……」
震える声で投げかけられたリコリスの問いに、ヘンリーは何も答えない。
その沈黙こそ、リコリスの父がすでにこの世にいないことの証明だった。
「領民のみなさんは、どうなったのですか?」
「酷い有様だな。反乱軍の抵抗は、熾烈を極めた。多くの罪なき人々が戦火の巻き添えとなり、家を焼かれ死んでいった」
「ああ……そんな……」
半ば予想していた返事だったとはいえ、リコリスは身を切り裂かれるような苦しみを覚える。
領民達の活気に溢れた声。
生き生きとした笑顔。
はしゃぐ子供達。
馬車で街中を通る時、リコリスは窓からそんな光景を眺めていつも微笑んでいた。
彼女は、愛していたのだ。
自分が生まれ育った領地を。
そこに生きる人々を。
「反乱軍は全滅したが、我々聖騎士団にも多くの犠牲が出た」
それは団長であるヘンリーにとって、かけがえのない部下達。
リコリスは痛感する。
父が起こした内乱の重大さを。
自分がそれを止められなかったことに、罪の意識も感じていた。
だが次にヘンリーから聞かされた言葉で、罪の意識は深い絶望へと変わる。
「……レオンも戦死した」
ヘンリーの言葉が、一瞬リコリスには理解できなかった。
ヘンリーの部下、剣聖レオン・ノートゥング。
剣を振るえば天を切り裂き、拳ひとつで大地を叩き割る。
女神より賜わりし神剣を抜いた時など、大陸をも切断するとまで言われている英雄だ。
彼が聖騎士団にいるからこそ、自分の父が起こした内乱など瞬く間に鎮圧される。
リコリスはそう、確信していたのに――
「そんな……嘘……。剣聖レオン様が……」
リコリスは昔、レオンとヘンリーに護衛をしてもらったことがある。
だから、知っているのだ。
目の前にいるヘンリーは、レオンを後輩として――
部下として――
弟分として、とても可愛がっていたことを。
レオンもまた、ヘンリーに懐いていたことを。
リコリスの奥歯が、カタカタと震える。
最愛の部下を失ったヘンリーが、反乱首謀者の娘にどのような感情を向けるのか想像して恐ろしくなったのだ。
リコリスは幼少時より密かに、ヘンリーを慕っていた。
慕っていた相手から、激しい憎悪を向けられるなど――耐えられない。
だから、早く終わらせたかった。
「本来は反乱首謀者の一族など、まとめて処刑されるはず。なのにわたしを生かしておいたのは、ご自分の手で斬り捨てたかったからですか?」
ヘンリーは答えない。
無言で腰から、ミスリル合金製のロングソードを引き抜く。
その動作を見てリコリスは、「ああ、やっぱり」という感想を抱いた。
反乱の首謀者であるリスコル公爵を、聖騎士団長自ら処刑するというのは難しそうだ。
だがその娘ならば密かに捕え、自らの手にかけることも不可能ではなかったのだろう。
彼の――ヘンリー・レーヴァテインの怒りに満ちた刃を受け入れよう。
そう覚悟を決め、リコリスは青い両目を閉じた。
ヘンリーは、無表情で剣を構える。
柄を逆手に持つ、独特の構えだ。
次の瞬間、月明かりと魔法灯の光を反射した剣閃が走った。
鋭く、何度も。
(ああ……。一太刀程度で、怒りと悲しみは収まらないのね)
リコリスは、目を閉じたまま。
しかし閃く剣圧を、肌で感じていた。
きっと何度も斬り刻み、無残な肉塊としなければ満足しない。
だから普通に公開処刑させるより、自ら手にかけたかったのだろう。
リコリスはそう納得し、受け入れる。
しかし、数秒してから気付いた。
ヘンリーの剣は、自分の肉を斬ってはいないと。
「……え?」
自分がまだ生きていることに戸惑いながら、リコリスは両目を開いた。
体のどこにも、斬られた痛みはない。
痛みといえば、手足を束縛している金属製の枷がもたらす痛みぐらいしか――
そこで、彼女は驚く。
自分の四肢を壁に繋ぎ止めていた、金属製の枷がなくなっているではないか。
足元に視線を落とせば、恐ろしく綺麗に切断された手枷が転がっていた。
今の斬撃で、ヘンリーが斬ったのだ。
足元にあったのは、切断された枷だけではない。
金色に輝く髪の毛が、足元に散っていた。
「髪は女の命というだろう? リコリス・リスコル公爵令嬢は、いま死んだのだ」
そう言ってヘンリーが差し出した手鏡を、リコリスは覗き込んだ。
トレードマークであるゆるふわの巻き髪は、跡形もなく切り落とされている。
彼女の横髪は癖っ毛なので、短くなると少し跳ね気味に。
後頭部の直毛な部分は、そのまま残されていた。
もうひとつの変化として、なぜか頭頂部の髪が立っていた。
ひと房だけ、ピョコンと元気に。
ミラディア神聖国一般市民の間では、「アホ毛」と呼ばれるチャームポイントである。
「化粧を落とし、巻き髪を切っただけでずいぶんと印象が変わるものだな。これもまた可愛らし……いや、なんでもない。これならば、わざわざ偽名を名乗らせずとも済みそうだ」
ヘンリーは満足げに、容姿の変わったリコリスの顔を覗き込む。
精悍な顔立ちの男性から見つめられて、彼女は非常時だというのにドキドキしてしまった。
ドキドキを打ち消すために、ヘンリーの顔から視線を下に逸らす。
――が、逸らした先には騎士服を押し上げる逞しい胸筋。
リコリスの鼓動は、さらに加速してしまう。
「……偽名? わたしを、どうするおつもりなのです? 処刑なさらないのですか?」
「ふっ……。普通に命を奪う程度では、私の怒りと悲しみは収まらぬ。君にはもっと、屈辱感に満ちた罰を受けてもらおうか? 父親が犯した愚行を、一生かけて償うのだ」
厳しくも怜悧。
それでいて怪しい色香を放つヘンリーの視線に、リコリスはゾクリとした。
「……わたしを、生かしておくおつもりで? 独断で反乱首謀者の娘を処刑から逃がすなど、聖騎士団長としてのお立場が危うくなるのでは?」
「案ずるな。反乱軍戦死者の中から、君そっくりに偽装した死体を用意した。リコリス・リスコル公爵令嬢は、すでに処刑されたことになっている」
リコリスは、ヘンリーの手回しの良さに舌を巻いた。
同時に、申し訳なく思う。
自分の代役として亡骸を晒されることになった、反乱軍の戦死者に。
「さあ、来なさい」
有無を言わさず、リコリスの手を引き自らの方へと引き寄せるヘンリー。
衰弱していた彼女は、当然よろめく。
だが床に倒れるより前に、ヘンリーの逞しい腕がリコリスを横抱きにかかえ上げてしまった。
「あの……ヘンリー様。わたし幽閉されっぱなしで、もう何日もお風呂に……」
だから相当臭うはずだが、ヘンリーは全く意に介さない。
人ひとり抱えているとは思えぬ軽い足取りで、地下牢を出て行く。
「少し、眠りなさい」
ヘンリーは自分の額を、リコリスの額に軽く押し当てる。
(近い! 近い! 近い!)
と、彼女は心の中で絶叫したが、その言葉が口から出ることはついになかった。
口だけではなく、全身が弛緩していく。
額を通じて、ヘンリーが催眠魔法を発動させたのだ。
リコリスが最後に感じたのは、倒れた頭を受け止めてくれる鋼のような胸筋の感触。
(こ……こんなに美味しいシチュエーションなのに、眠ったらもったいな……)
そう抵抗しながらも、リコリスの意識は闇の中へと落ちていった。
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ふと気が付くと、リコリスはベッドに寝かされていた。
公爵令嬢時代に使用していた、豪華でふかふかなベッドとは比べ物にならない。
だが簡素ながらも充分な柔らかさと暖かさ、寝心地の良さがあった。
リコリスは布団を押しのけ、むくりと上半身を起こす。
泥とホコリに塗れた貴族令嬢のドレスから、地味ながらも厚手でしっかりとしたネグリジェに着替えさせられていた。
ヘンリーが着替えさせたのかと思い、彼女の顔は恥ずかしさに火照る。
しかし、すぐに勘違いだと気付いた。
部屋の片隅から、女性の声が聞こえたからだ。
自分を着替えさせたのは、この女性に違いない。
「レーヴァテイン邸へようこそ。リコリス・リスコル元公爵令嬢」
リコリスは声のした方向へ、ゆっくりと顔を向けた。