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そば湯気譚 

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と内容に関する、記録の一篇。


あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。

 うおっあっちゃー! ふーふー……。

 どうも、昔から猫舌が治らなくってなあ。熱いものを食べることは好きなんだけど、こればっかりはどうもな。

 お前は熱いものって、大丈夫か? 聞いたところによると、このふーふー吹く文化って、日本以外だとさほど見られないらしいぜ。冷まさなきゃいけないものは、かき混ぜたりして、あまり音を立てないようにして食べるのが通例だとか。もともと、熱々のものを食べることが少ないっていうのもあるな。

 このふーふー、俺たちはたいてい親や周りの人がやっているのを見て、マネしてやり始めたものじゃないか? どうしてこのようなことが一般化したか、考えたことはあるか?

 俺も少し前に疑問に思ってな。ちょっと調べてみたら、少し不思議な話を見つけたんだ。興味があるなら、聞いてみないか?


 江戸時代の半ばごろの話だ。

 当時は屋台が流行して、仕事の合間にさっと食事をとってしまうスタイルが確立されっつあったらしい。

 特に「夜鷹そば」という、夜中に出しているそばの屋台は人気があった。たいていの飯屋は閉まっている時間帯で、小腹が空いた時にふらりと立ち寄ることができた。

 屋台という性質上、日によって違うところに立っているという難点はある。だがそれを差し引いても、いまでいえば自動販売機のような感覚で、腹を膨らませられたんだろう。

 特に寒い日なんかは重宝して、安定した人気を誇っていたとか。


 ある晩のこと。

 昼から曇りぎみの空の下で、屋台を営むひとりの男がいた。粉雪がとぎれとぎれに舞う寒い日で、人々はときに手ぬぐいを頭に被せながらも、そばを買っていった。

 そして夜中の九つごろ(およそ午前0時)。こうしじまの合わせを来た客が、そばを一杯注文してきた。

 屋台にはちくわなどの、そばへ一緒に入れられるおかずが用意してあったが、ただのかけそばでいいという。その代わり、目いっぱい熱いそばを用意してくれ、とのこと。

 要望に応えた店主が用意したそばは、器から盛んに湯気を出して、客と店主の間に幕のように立ちはだかっている。

 

 たいていの客は、家へ持って帰って食べるか(この場合、器の代金もいただく)、屋台のわきにどいたりして食べる。屋台といえども、ひとりで担いで運べる程度の広さしかなく、あとに客がやってくることも考えると、店主の前を開けておくのが、なかば礼儀となっていた。

 それがこの男は、器を持ったかと思うと、その場でそばをかきこみ始めたんだ。そのうえ、盛大に麺を吹くことも忘れない。

 数本のそばを割りばしに引っかけて、口の近くまで持ってくると、「ふー、ふー」と音を立てて風を巻き起こす。その強さは吹くたびに店主の顔へかかってくるほどだった。

 

 客相手に文句をいうのもどうかと思い、店主はその場にかがみ込んで、屋台下の材料たちを確認していく。やがて頭上を越えていく湯気がひと段落すると、「ごちそうさまあ」といいながら、器を台に置く音がする。

 ひょいとのぞくと、すでに客は背中を向けて、夜の中へ分け入っていくところだった。店主はまだかすかに湯気を立てる器を下げ、次の客を待ちわびる。まだあと一刻(二時間)ほどはここで粘る予定だった。

 

 それからほどなく。ざくざくと土を踏みしめる音が屋台の前で止まる。器を揃えていた店主は、そちらを見て「あれ」と思った。

 こうしじまのあわせを着た男。先ほど、そばを平らげたはずの男がそこにいたんだ。


「すまねえ、だんな。もういっぱいくんな。めいっぱい熱いやつ。今度は持ち帰りで」


 買ってくれるなら、文句はいうまい。注文通りに仕立てると、客は器を抱えながら、やはり盛大に湯気を吹きつつ、屋台から離れていく。

 それも先ほどとは去っていく方向が逆だ。いま、男が去っていくのは店主の帰る方角とほぼ同じだった。

 道の半里ほど先に、店主の家がある。明かりがあまりなく、途中に墓地が横たわる、昼間でも少し薄気味悪い道だった。夜半にそこを通る時には、担ぐ屋台の明かりをつけっぱなしにしている。

 

 こうしじまの男は一刻の間で、ゆうに5回。一晩で店主の屋台を行き来した。

 そのうちの3回は持ち帰り。残り2回は屋台でそのまま食べて勘定をする。

 最後の一回などは、大粒の雪が降り出してからやってきた。これまで以上に強く湯気を吹き、さすがの店主も顔をしかめて抗議する。


「熱いもんが食いてえのは分かるけど、ちっと落ち着いたらどうだい? そんなに冷ますくらいなら、もうちょっとぬるめにしてもいいが」


「いや、これでいい」と客はひとこと。またそばをすすり始める。

 ふーふー、ずず、ずず。ふーふー、ふーふー……。

 もはやすするより、吹く時間の方が長い有様だ。さんざんに湯気を浴びて、またかがむ店主だが、男はこともなげにつぶやく。


「だってよう、だんな。あんたの後ろに、さっきから嫌な奴がいるのさ。こうして湯気を浴びせなきゃ、あんたがあぶねえんだって」


「はっ?」と、店主は後ろを振り返る。


 屋台の後ろ。積もり始めた雪の上に浮かんでいるのは、二の字、二の字の下駄のあと。

 二度目に男が去っていった方向と同じ。自分の家の方から続いてきたその足跡は、自分の後ろ数尺のところまで、ひと筋のみ残っている。引き返した様子もない。

「早く帰んなよ」という声と共に、かたんと台の上に器を置く音がする。

 さっと立ち上がると、そこにはつゆとそば数本を残す器が残っているだけで、男の姿はすっかりなくなっていた。かけ去っていく足音は聞こえず、雪の上に履いていたであろう草履の跡も残っていない。

 

 それから店主は慌ただしく店じまいし、屋台を担いで家へと急いだらしい。

 途中で通った墓の前では、自分の店で扱っていた器が点々と並んでいる。つゆの残るそれは盛んに湯気を吐いていたが、それらは風もないのに、不思議と墓石へ向かって立ち上り続けていたという。


 ――まるで墓が湯気を吸いこんでいるようだ。


 そう感じた店主は先を急いだが、墓石群を抜けかけたところで、不意に足をかけられる。

 危うく転んで屋台を壊しかねなかったが、どうにか踏みとどまった。そこにもそばの器が置かれていたが、すでに湯気の姿はない。

 そして、自分の足を掴んだのは木の根っこだった。だが自分のすね辺りにぶつかってきたそれは、先端近くで五股に分かれて、あたかも手のひらのような形をしていたという。

 店主はその日より、屋台を出す時は常に湯を張った器を台に乗せ、湯気を吐き出させながら仕事に赴いたとか。


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