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ヘッドライトシンドローム

作者: 鳥焼火炭

ヘッドライトシンドローム


 タイヤが地面を滑る音、車体が風を切る音だけが聞こえる。何台も何台も僕らのそばを通り過ぎていって、冷たい風を何度も何度も頰に吹きつけてくる。白い息をほう…、と吐き出して、それが空に昇っていって消えていくのを眺めてからジャンパーのポケットに突っ込んでいた右手を君の方へと差し出した。

「私、今肉まん食べてるんだけど」

「片手でも食べられるでしょ」

 一度、二度瞬きをしてからやっと彼女は肉まんと繋いでいた手を離して僕の手を握った。

「肉まんの方が温かった…」

「浮気か?」

 不服そうに唇を尖らせる。ぎゅう、と握る指に力を込めて二つの手をポッケの中へと強引にしまい込んだ。

 それからずっと、何も言わずにヘッドライトが照らす彼女の顔を眺めていた。気づかないうちに伸びた髪の艶、すっきりとした鼻が落とす影、光の当たる角度で変わる頰と唇の赤み、ゆっくりと輝きの移動していく瞳などに目を奪われていた。強い光が当たると茶色に際立つ君の宝石を見つめていると、美しいものを珠に例えた昔の人の気持ちが良く分かる気がする。最初に揶揄した人は、きっと恋人の瞳を間近に見たのだろう。

「前」

「うわ!?」

 急に目の前に現れた障害物をハッと横に避ける。

「あっぶな…」

 もう少しで電柱と正面衝突をするところだった。頭からぶつかればたんこぶどころか出血していたかもしれない、くわばらくわばら…。

 いつの間にか大通りを抜けて住宅街の路地に入っていた。彼女の方を見ていたのと周りは闇に包まれていたのもあって、おかしな位置に生えていた電柱に気がつかなかったらしい。お礼を言おうと彼女の方を見ると、

「こっち見すぎ…」

 明かりはなくとも、うつむいたその顔が赤くなっていることはわかった。

「ごめんね、ありがとう」

 僕は笑った。それから、僕らを照らす明かりがもうほとんどないことに気がついた。

 暗い。辺りが暗い。平日の深夜だ。住宅街は静けさに包まれていて、遠くで走る車の音もまばらにしか聞こえない。静寂の中で心臓の音がどんどんと大きくなっていって、背中に冷たい汗を感じた。思わずジャンパーの中の彼女の手を強く握りしめる。

「早足で帰ろっか」

 君は笑顔だったけれど、とてつもなく申し訳なくて今度は僕がうつむく番になった。

 「ごめんね、ありがとう…」

 静けさの中で、僕のその声が肺の中からこだました。夜になってしまうとコンビニに行くことも恐怖が付きまとうようになった。早足のせいにできないほどの荒い呼吸をしながら、惨めに握った手の平にだけ集中しようとしていた。


「パニック障害と暗闇恐怖症…」

「ええ、恐らくはその二つ、あるいは他のものも…を併発しているのでしょう。パニック障害の発作は閉所などで起こる場合が多いですが、精神病に正解というものはないです。今まで状況を鑑みるに、あなたの場合は”暗がりを意識すること”によって激しい動悸や呼吸困難が発生するようですね」

 呆然とした。ショウガイという文字列に大きな大きな金槌で頭を殴りつけられたような衝撃を感じて、前を見つめることで精一杯だった。

「…治るんですか?」

 何も言わずに、恐らく酷い顔をしているであろう僕の代わりに隣で座っている彼女が、眉根に皺を寄せてカルテを眺める医者にそう尋ねる。

「薬は出します。が、抗うつ薬と抗不安薬はパニック障害には効果を示し発作を防ぎますが、合併症となれば根本的な解決にはなりません。患者さん自身がリハビリによって暗闇を克服するのを待つしかない、というのが見解です」

 「治るという確証がない」を柔らかになだらかに翻訳した言葉が並べられた。不甲斐なくて情けなくて、自分の中に病があるということがこれほどの絶望と喪失を与える感覚に打ちひしがれていた。震えはなんとか抑えて、だけど隣の顔を見ることは叶わないでいた。


「う…」

 最初にそれを感じたのは夜中に目が覚めた時だった。うっすらとしか周りの輪郭が知覚できない暗闇の中で覚醒した時、微かな嘔吐感がして声を漏らした。枕元を探りスマートフォンの画面をつける。少しネットサーフィンをしたら落ち着いて、布団をかぶってすぐに寝てしまった。

 次はマンションの階段を登っている時、切れかけていた蛍光灯の点滅の時間が長くなった時だった。動悸と鋭い頭痛に気分がすこぶる悪くなった。慌てて扉を開けて駆け込み、マンションの部屋中明かりをつけて回った。自分の体に何が起こったのか理解できず、コップに溢れるくらいの水を注いで胃へと流し込んだ。その日は電気をつけたまま眠った。

 段々と、暗がりに目を向けるのが怖くなって、夜道で冷や汗を流して、電気をつけていないと眠れなくなった。眠っても悪夢ですぐに目を覚ました。

 決定打となったのは彼女が家に来ている時に、ブレーカーが落ちた時だった。突然訪れた究極な闇に、僕は絶叫して床に転がり激しい嗚咽と過呼吸を併発していた。

 地獄のような時間だった。生まれてから今まで当たり前のように行なっていた息を吸って吐くことの苦痛を覚えた。止まらない汗に床をかきむしってもがき、訳のわからないことを繰り返し咆哮した。駆け寄って来た彼女に明かりをつけてもらって、その体に縋りついて何時間も泣いた。

 朝日が昇ってから赴いた病院で精神科を紹介され、遠い存在だった病名を診断された。病室を出てから薬の処方を待つ間もずっと僕の手を引いてくれていた彼女が、突然僕の顔を覗き込んで、

「一緒に暮らそっか」

 深い絶望の海の底、そのまま投げ捨てられてもおかしくない閉ざされた世界に眩い光が差し込んだ。 そこには二つ、茶色の輝きがあった。


 蛍光灯がしっかりと照らす階段を昇って、自室の前に立つ。彼女が鍵を開けて、先に中へ入り玄関の明かりをつける。それまで僕は扉を見つめることしかできない。昼間だけしか外に出ることができなかった最初と比べれば大きな進歩と言えるだろうが、完治とは言えない。

 あれから彼女が荷物をまとめて僕の部屋に来て、以前と同じマンションの部屋での二人暮らしを始めたのが四ヶ月前。部屋の一つを寝室にして、やや手狭だがカーテンを利用してなんとか暮らしている。もっと僕に収入があればよかったのだが…。幸い、と言っていいのかはわからないけれど僕はデザインの関係を仕事していたので、在宅勤務に切り替える形で仕事ができている。

 昼間は仕事をして夜はリハビリ代わりに外に出たり、部屋の電気を暗くするなどしている。彼女の手を握っている間なら暗がりを見つめても少しの動悸で済んだり、電気を消して寝られるようになってきた。それでも発作は急に訪れるもので、薬が手放せなのは変わらない。

 玄関から部屋に入るのも彼女が先だ。部屋中の電気をつけて、僕の元へと戻ってくる。

「上着脱ぎなよ。かけてあげる」

 僕は彼女に話していないことがある。言い出すのが怖くて、話せていないことがある。僕が怖いのは暗闇などではなくて、その先にあるものなのだ。

「…ほら」

 笑顔で腕を差し出す君にジャンパーを脱いで渡した。その時にピピッと湯が湧き上がった音がしたので、バスタオルを取りに行ってマットを敷いて服を脱ぐ。

 僕がお風呂に入っている間、発作が起きた時のために彼女には扉の前で待っていてもらわなくてはならない。女性のお風呂上がりは時間との勝負らしく、待たせるのは非常に良くないので入るのはいつも僕が先だ。

 頭の泡を流しながら、考え込んでいた。外に出られるようになって、夜も眠れるようになって、発作が起きなくなって…。でも僕は話さないままでいいのだろうか。胸に抱え込んだこのわだかまりをずっと。

「話しても理解されない。お前の障害には付き合ってくれだが、今度がそうとは限らない」

 そう囁く声に「わかってるよ」と返して、シャワーを止めた。風呂場のガラスが曇っている。曇りをざっと拭って、鏡の中の酷い顔をしている自分を見た。僕の中にあるこの影が、立ち上る湯気と一緒に消えてしまえばいいのに。願いは届かず、蒸気だけが消える。


 お風呂上がりの彼女の髪を乾かして、二人でコタツに入ってテレビをつけた。僕はこの時間にノートパソコンを取り出して仕事のメールやウェブクラウドに上がっている更新時刻の新しいファイルなどをチェックする。向かい合って入るのではなく、テレビの正面に僕、右の側面に彼女が座る。昔から顔を横に向けてテレビを見ていたらしく、その方が落ち着くらしい。首を痛めないかが心配だといつも思っている。

「明日は雨か〜…降水確率はひゃくぱーせんと!」

 声を出した彼女につられて顔を上げると、ほぼ水平にまで傾いた傘のマークがあった。

「この世界に絶対はないけれど、結構激しいみたいだね」

「またその口癖」

 理系のよくないところが出ている。絶対と相対の違いを説いたとき、彼女はネタバレをされた映画を見ている時よりもつまらなさそうな顔をしていた。

「…雷、落ちないといいね」

 付け加えられたそのセリフが停電が起きる可能性のことを指しているのか、それとも単に音や地響きがうるさいからなのかを聞こうとしたが、考えている間に画面が切り替わってしまった。…なんだか掘り返すのは悪い気がして、予報の次の深夜ドラマを黙って一緒に見ていた。

「裏切りものは、あなただったんですね」

 メガネをかけた若い男が画面に向かってそう呟く。カメラが少しずつ引いていって、ぼやけていた焦点が合った時浮かび上がった顔は、主人公のものだった。

「ええっ…!」

 つづく。と画面に文字が出ると共に、それまで一言も発しなかった彼女が驚きの声を発する。

「来週まで待てないよ…!」

 本当に悔しそうにしている彼女に苦笑する。僕はこの手の週に一回しかない作品は終わった後に一気見するタイプなのだが、そういうもどかしさも楽しさの一端なのだろうと、僕にいつも来週の展開の想像を語る彼女を見ていると思う。

「来週はまだ最終回じゃないし、このまま主人公が悪役なことが判明するより真犯人が現れると思うんだけど…ううん…」

 メタい。

「主人公が悪役っていう伏線はなかったの?」

「え…う、う~ん…」

 僕がそういうと、再び考え込み始める。主人公以外の登場人物が狂っているという設定のまま進んでいって、最後に狂っていたのは主人公だった。という作品はいくつか例がある。主人公の主観を利用した映像での叙述トリックの表現には毎回驚かされてしまう。

「…の主演で知られる俳優の…さんが昨夜搬送された病院で死亡が確認されました」

 ふと切り替わったニュースで、男性キャスターが淡々とそう告げる。僕の目はそのテロップと、笑顔で映るスーツ姿の俳優に釘付けになった。「死亡」その二文字が──…

「ワハハハ」

 チャンネルが急に移り、バラエティ番組が映る。見れば、彼女がリモコンをテレビに向けていた。じっと、その横顔を見ても何も答えずにじっと画面を見つめている。「どうして」と尋ねることはできず、

「アイス食べようか」

 僕の口から出たのはそんな情けない言葉だった。


「電気、消していい?」

「…豆電でお願い」

「わかった」

 カチカチ、と二回に紐を引っ張って淡い黄色の小さな光に切り替わる。うっすらとした闇が訪れて壁に家具や布団の影が映る。不安な気持ちを隠すように隣で寝そべる君の手を握った。

 月の明かりだけが僕を照らしている。僕の背にある影は淡く、心もとない。光が恋しい。強い光が恋しくて堪らない。繰り返し僕と彼女の顔を照らす、あの眩しいヘッドライトが不安を消し去ってくれるのを…。ずっと向こう、青い海から何度も波が押し寄せて足元にある砂を攫って行く。少しずつ僕は沈んでいって泡のように消える。

「僕は死が怖いんだ」

 ぽつり。

 引いていった潮に向かって呟く。ずっと昔から考えないようにしていたことを、最近強く意識するようになった。暗闇を見ると、影に包まれていることを感じると、どうしようもなく死を連想する。どうなる、何も感じない黒の中に沈んでいってそのまま浮かび上がらない。その黒も沈んでいく感覚も感じない。無の中へ。

「なんでだろうね」

 答えを告げるように、海に映った僕の姿が次第に君の姿に変わっていく。朧げに揺れる君を眺めていた。君と共に生きて、将来のことを想像して、添い遂げることを想像して…。

 いつかは朽ちて逝くのだ。

 死は想像できない。五感の全てが失くなって、絶望の中へ沈んでいく。思考もできなく耳も聞こえなくなり、光も感じなくなってこの後の世界で何が起こるかも知ることができない。無を感じることもできず、感覚が全て閉じて存在が消えてなくなっていく。二度と浮かび上がることのできない暗闇に落ちて、僕が今こうして生きて視て聴いて触って、当たり前の呼吸や胸の鼓動も何もかも。死した存在は何も得られない。必ず訪れる生物としての死。

 僕の記憶は。この体は。僕が今生きているというこの実感は。この恐怖は。僕が夢想する世界は。

 君は。

「僕は死ぬのが怖いんだ」

 この地球上の何よりも永く生きていたい。長く永く。僕は死にたくない。自分を失うことがこれほどまでに苦しく怖いことだと知ってしまった。

「私はこの手を離さないよ」

 溺れ切った僕は、君に手を握られていた。この手に、この手にぬくもりがある。海の中でも、君は僕と共に沈んでこの手を掴んでくれていた。

「君の最期まで、私はこの手を握ってるよ」

 その声に、目を閉じた。


 雷の音と、揺れる地面に目を覚ます。

「んぐ…」

 強い光に再び目を閉じた。どうやら彼女が先に起きて電気を点けておいてくれたらしい。

「おはよう。すごいよ、雲が分厚くて夜みたい。雨だけじゃなくて雷がひっきりなし。これは今日一日ずっと止まないかな〜」

「休日で良かったね…」

 布団をもう一度被りながら返事をする。雷が鳴る度、地面も共鳴するように唸り声をあげる。小さい頃は本当にへそが取られると思っていたっけ…。母親の胎内で栄養のやりとりをする器官(もっと言えばそれを切除した跡)を食物とするなんて、鬼という生き物は醜悪が過ぎる。

「全然ドロップしないよ~」

 隣はスマホゲームの周回に悲鳴を上げていた。休日朝のこの時間が愛おしくて中々布団から出られない。いつも三時間以上無駄にしている気がする。夜の間ずっと僕と君の体温を吸っていた布団が恩返しをするように熱を返してくる。いや恩返しだったらしょうがないよね、ね?

「…お腹空いた」

 しばらくしてぽつりと彼女が呟く。昨日はコンビニのチキンとサラダだけで済ませたので(誰かは肉まんも口にしていたが)お腹が空くのも早いようだ。卵と食パンとソーセージの最強朝食セットがあるので、それで手早く朝ごはんにしてしまおう。名残惜しいが、僕は恩返しを振り切ることに決めた。

「よし」

 もぞり、と布団から出てベッドの横にある簡易タンスから着替えを取り出す。どうせ雨で家から出ないしダボッとした楽なやつにしようと、やけに頭の大きい犬がプリントされたシャツを引っ張り出して頭から被る。思い出したように鳴り響いた雷鳴と強い光に驚きながら、ゆっくりと靴下を温かいものに履き換えて───


───バツン。


 何かが切れる音がして、ブレーカーが落ちた。

 今まで世界を照らしていた明かりが全て無くなって、完全な闇が全てを包む。

「大丈夫!?」

 焦った声。彼女が僕のことを探しているようで、布団の上でバタバタと慌てている音が聞こえる。スマホのライトが僕の顔を照らして、ぎゅっと右手に君の体温を感じた。そういった状況を判断できるくらい、驚くほどに僕は冷静だった。

「大丈夫、大丈夫、生きてるよ。私はここに居るよ」

 努めて落ち着かせるような声で、母が子の背を撫でるように言う。君はいつから知っていたんだろう。僕は君に一言も告げたことはないのに、心でも読んでいたのだろうか。彼女も目を閉じて、それ以上は何も言わずにただ僕の手を両手で包んでいる。

 きっと、不安なのは君も同じなのだろうと思う。雷が得意というわけでも無いのに、真っ先に僕のことを探して、こうして手を握ってくれる。

「もう、大丈夫だよ」

 僕はにっこりと微笑み、彼女の手を握り返してから解いた。

「えっ…」

 ゆっくりと後ろを向く。息を深く吸い込んで止める。動悸は止まっていない。「大丈夫」なんて言っておいて全く大丈夫じゃない。手は震えるし、奥歯を食いしばっていないと叫びだしそうだ。闇を意識した途端に恐怖が全身を支配する。


 一歩目を踏み出した。

 死ぬのは怖い。死ぬときもきっとこんな暗闇に包まれていくのだろう。雷が鳴って、部屋が一瞬明るくなる。それがまた黒を際立たせる。

 二歩目を踏み出す。

 君から離れる度にどんどんと恐怖が膨らんでいく。独りぼっち。最期はきっと、死ぬときはきっと、みんな独りを思うのだ。そして永遠に醒めない虚無を見る。

 寝室を出た。

 息が上がる。ただ歩いているだけなのに苦しくて苦しくて、生きていることはこんなにも苦しいのかと問い掛ける。頑張れ僕の肺胞、もう少しだけ力を貸してほしい。まだ僕は前を向いていられるから。まだ僕は、生きているから。

 廊下を進む。

 視界は歪んでいるし壁に手をつかないと進めなくなった。息切れは最高潮で、耳の血管を流れる血液の音まで聞こえる。嗚呼、雷の鬱陶しい光でさえ恋しくなってきた。後ろから絶望が這ってくる。心臓も血も雷も雨も風も空気も、耳から聞こえる全部の音が遠くなって死神の足音が迫ってくる。

 玄関までやってきた。僕の目の前に、大きな影がとおせんぼをするように現れる。僕の声をした影が、僕に囁く。

「君はいつか死ぬんだぞ」

「知ってる」

「暗闇を克服したって、それは変わらない」

「分かってるよ」

「あの手の平の温度だって、感じなくなる。君は独りなんだ」

「独りきりになる前に、僕が消えて失くなってしまう前に、彼女がこの手を握って僕の名前を呼んでくれるなら」

 一度、息を吐きだした。

「怖がる理由なんて、どこにもない」

 配電盤に手を伸ばすと、影はどこかに掻き消えた。知ってるよ、その恐怖だって僕の一部なんだ。情けなくて不甲斐ない僕のそんな一面も、彼女が受け入れてくれるというのなら、恥ずかしいけれど愛してくれるというのなら、こんな影にだって意味があったんだ。ありがとう、君のおかげだ。僕はやっと大切なものに気づくことができた。だからしばらく、僕の中で眠っていてくれ。

 パチン。

 スイッチを指で押し上げると世界に明かりが灯った。少し眩しくて目を細める。おかえり、ちょっとだけ寂しかったよ。だけどもう君がいなくても生きていけそうだ。そんな僕の心の声に対して、電灯は不服そうにチカチカと瞬いた。

 トタトタトタ、と足音が聞こえる。こっちに向かって急いで走ってくる足音が聞こえる。死神の呼び声を掻き消す、世界で一番大好きな僕の恋人の足音がする。

 僕はそっと、迎えるように両手を広げた。この温度を失う以上に恐れるものなど、この世界にあるはずがない───


───絶対に。


子供のころに聞く訃報は知らない人だったけれど、最近はそうでもなくなってきました。


死ぬのって怖くないですか…とっても。

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[良い点] 頑張った [気になる点] 腹減った [一言] サトウのごはん
2020/02/19 17:02 小泉純一郎
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