キャウスト
川辺で水を汲んだ。
桶の水に、まぶたの腫れあがった自分の顔が映っている。
とっさに目をそむけた。
――醜い自分の相貌が、幸を遠ざけている。
少女はそう思い込んでいた。
すべての元凶を顔のせいにし、それを自嘲することで、心にやり場を作った。
村の男の子にぶたれたのも、もとをただせば顔の醜さのせいだ。
美しかったら、こうはならない。
最もきらいなものを挙げるなら自分の顔だった。
嘆いても笑っても、この顔はどうにもならない。
無駄な考えをやめて、すっくと立ちあがった、その時だ。
視界の隅、川面に、何か黒い影がよぎった。
「……誰なの」
醜く幸薄いド貧乏の少女は、おびえた。
目の前に、黒い生き物が現れた。
生き物ならざるものに思えた。
尖がったしっぽをフリフリさせる黒いソレは、
「悪魔さ。メプスト・ペペスってえの。嬢ちゃん、今ほしいものあんでしょう。それ、あげにきたのさ」といった。
悪魔と名乗ったそれは、目が血走っていた。
少女は、本能的に悪魔だと会得した。
「……欲しいものって?」
おそるおそる、問うた。悪魔はうれしそうに、充血した目をおっぴろげた。
ぜんぶ、だよ。
みるみるうちに雲行きが怪しくなっていく。
ぽつりぽつり、やがて、ざあざあと雨がふりだした。
暗雲から雷鳴がとどろいた。
悪魔は両手をぱちんと叩いたかと思うと、身をふりふりと踊りだした。
悪魔の差し出した魔法のペンと契約書が光りだし、少女の顔を照らす。
少女は、
――悪魔と契約した。
それから。
悪魔メプストと契約して得た魔法を使い、醜く幸薄いド貧乏の女の子はこの世で一番キレイになった。
少女の手の中に、黒い炎がともる。
なんでも叶えられる悪魔の魔法だった。
願いを込めて手を振れば、空から黄金が降り注いだ。
轟音めいたその甲高い金属音をBGMに、星々がちりばめられた漆黒のドレスが女の子の身をつつむ。
妖艶で可憐。笑みをこぼしたら惚れない男はいなかった。
魔女となった少女は、それでも満足できなかった。
だから自分好みの王子様を召喚した。
かっこよく、正義感がある。
いじめられていた頃に思い描いたヒーローそのものだ。
魔女は自分がブスでみじめだった頃にいじめてきた者たちへの復讐を開始した。
容赦はしなかった。泣いても許してくれないのは、お互い様でしょう、と。
自分が苦しんでいた頃に助けてくれなかった周囲の皆にも復讐した。
辛い思いをした世の中、環境そのものにも復讐した。
気にくわないものはすべて焼きはらった。
あらゆるものを灰にし、一息に空へと撒いたが、あきたりなかった。
世間をすっかり焼け野原に変えても、収まるどころか、よけい苛立った。
焼いても焼いても何かが物足りない。
だから、今日も夜景には炎があがる。
焼いては歩き、歩いては焼いて方々を渡った。
世間ではすっかり恐れられる存在となった、そんな時。
魔女は一人の女の子と出逢った。とても醜い子だった。
みるからに幸が薄そうだった。
魔女は尋ねた。
「あなたは、何が欲しいの?」
女の子はそっけなく「なにも」と答えた。
魔女はむきになってひけらかした。
「欲しいものがあるなら、何でもあげる」
手を振ると、星のドレスが輝き、美味しそうなごちそうが現れた。
女の子は目を見張っておどろいた。
お腹をぐうと鳴らし興味を示したが、
「よくないわ」と顔をそむけた。
魔女は「どうして」と笑み、さらにむきになってお金をたくさん出した。
チャラチャラと金貨が滴るなかで、魔女の声は艶をおびる。
「もとめれば何だって手に入るのよ。よくなくなんて、ないじゃない」
女の子は、魔女の前に立ち向かうと、毅然と言い放った。
「お父さんとお母さんを殺した魔女。あなたは哀れね。何も持っちゃいないわ。ただただ醜いだけ」
チャラチャラと滴る金貨が止んだ。
魔女は、急につまらない顔をした。
「そうなの。いいわ、お父さんとお母さんに、会わせてあげる」
――あの世で、きっと会えるわ。
魔女は黒い炎を手に浮かべた。
女の子の目に映る魔女の姿は、まるで悪魔だった。
もうダメだと目を閉じた。
けれど、いつまで経っても、何も起こらない。
女の子が目を開けると、満天の星空の下、王子様が魔女の胸を剣で刺していた。
「……いたい」
魔女の美しいくちびるから、つうと鮮血がたれる。
王子様は、倒れる魔女の身を抱きかかえようとした。
魔女はそれを拒み、地面を這った。
ずるずると遠ざかる魔女を、王子様はうつろな目で見下ろしていた。やがて魔法とともに自分の存在が消えかかっていることに気付くと、夜空を見上げた。
「あの星々の放つ一光が、私の瞳の中で終末を迎える。はるか遠方から長い長い旅をして、こうして出逢ったというのに。それはただ、終わりだったのでしょう」
――お別れです。
しずかに告げ、王子様は星屑となって消えた。
ずるずると這いながら、魔女は宙へ手をのばした。
「メプスト。メプスト、どこにいるの。おまえの思惑でさえ、私の世界を美しくしなかった。おまえは魂がいいのだわ。欲しければ……連れておいきよ。もうそれで構わない。でもね、喰うならせめて、おまえだけは私に愉悦おしよ」
血だらけの魔女の手に、メプスト・ペペスは「ぺっ」と唾を吐きつけた。
「冗談じゃないぜ、嬢ちゃん。こちとら、しこたま苦労したんだ。わざわざ人生絶頂の歩みってのを拝ませてやろうとしたんだぜ。それを下手こいて、このざまだ。いいか魂ってのは絶頂の極みがうまいんだ。そりゃあもう、舌がうなるほどにな。でもな嬢ちゃん、あんたはダメだ。悪魔も喰えやしない」
「……この、悪魔め」
「さようで」