聖女来たりて道が拓く
火の聖女が街に来ると決まったときの騒ぎをキコは覚えている。まずは教会の掃除だ、いや、入口の印象が大事だからだ城壁からだ、いやいやいっそ街全体を綺麗にせねば。大人から子供、老若男女問わず駆り出され整備が進められた。
ルルが街に来た。深紅の鎧で武装した兵士たちのなか、輿から降り立った火の聖女ルルは、まさに神の遣いたる風格を放っていた。見た目はまだ大人の手前であどけなさが残っているが、誰一人、市長すら、彼女を子供と同列にはみなさせなかった。
ルルは医者であり、教師であり、教誨師であり、学者であり、探求者であり、政治家であり、良き隣人であった。彼女は知識の泉をその小柄な身体のうちに秘めていた。
色とりどりの知見は求める者に等しく与えられた。ルルは訪ねるものを拒まず、ひとつひとつの問いに丁寧に答えた。
チクチクと針仕事すすめるキコ。手紙を書くルル。
ルルが街に来たばかりのときから比べると訪問の嵐は落ち着いた。それでも火の聖女を頼って様々な人から手紙が届く。その一枚いちまいにルルは目を通し、没入し、解を探る。
おこがましいと思いながらも、心配になることがあった。なにしろいくら神の代理とわかっていても、見た目は華奢な少女なのだから。
だがしかし。キコは思い直す。心配する、などとんだ思い上がりだと。空が落ちはしないかと不安になるようなものだ。火の聖女は不変で揺るがぬ。もしキコが誰かに火の聖女が身体を壊さないか心配だなどといえば、この人の世の繁栄と平定を疑う異端者の扱いを受けるだろう。
窓から差し込む日が傾く頃、ルルが席を立った。
「キコ。ご苦労さまでした。今日はもう大丈夫です」
疲れの色ひとつ見えない、柔らかな声。
「申し訳ありません。まだ出来上がっておりません。次回お伺いするときまでには完成させます」
「仕事を持ち帰っては休めないでしょう」
「聖女様からのご依頼を放って帰ったなど知られたら私が叱られます。それに姉にも相談してみたいのです。」
「お姉様がいたのですね」
独り言のようにぽつり。少し沈んだ響きのようであったが、キコには真意は測りかねた。ルルが言葉を継ぐ。
「そうですね。わたくしからお願いしたのですから、貴方に全て委ねます。ただくれぐれも無理はせぬように。服の件はわたくしの我がままなのですから」
「お任せください。帰るついでと言ってはなんですが、そのお手紙、郵便局に出してきますよ」
火衣の動きが止まる。やや間が空いた。迷っているのだろうか、出過ぎた真似だったのだろうか、キコの心のうちに影がさす。
言葉を発することなく、ルルが手紙を両の手に持つ。そのまま手紙に口づけするように口元に運び、ふっと息を吹きかけた。確かにキコは見た。火の聖女がその奇跡の一端を用いる姿を。
手紙は瞬間朱く光り、そしてまたたく間もなく元の薄茶色に戻った。
「では、これを頼みます」
託された手紙は、わずかに熱を帯びていた。
「わたくしは人のことを知らなさすぎるのね」
キコが教会を後にし、静寂と孤独のなか、ルルは椅子に腰かけ窓のから薄暗くなってゆく街を見た。
夜は獣と魔物の刻。水面に墨を垂らすように、魔のものの時間が訪れようとしていた。