第2話 誘いの果てに
「・・・よかったら、一緒に行きませんか。」
時が止まったかのような感覚に襲われる。そして、そんな止まった時の中で考える。この女性はいったい何を意図してこんな発言をしたのだろうか。
選択肢としては2つ。1つは、大学生特有のノリを装って発言した説。大学生は基本的に1人ではなく、友人たちとともに2人以上の集団で動こうとする。しかし全員が全員そうではない。友人を作りたくても、集団で動きたくてもそれが出来ない者もいる。
ゆえに、講義や食事、その他のあらゆる大学生生活を1人でこなす。とある界隈では、そのような者のことを「陰キャ」と呼ぶ。陰キャは別に珍しいものではない。1つの大学に一定数は存在する。
彼女もその1人であり、この俺をミクロ経済学Ⅰに誘うことで、脱陰キャを果たし、ここから夢のキャンパスライフの始まりを迎えようとしているのではないか、というのが1つ目の考えだ。
2つ目、この俺に好意を抱いている説。好意を抱いていなければそんな発言出てこない。以上。
と、このように2つの可能性を思いついたのだが、俺としては圧倒的に後者であってほしいという欲望がうずく。好意を抱いているから俺を履修もクソもしていない講義に誘おうとするのではないかと、自分でも恥ずかしくなるような都合のいい解釈をしてしまう。
自慢ではないがこの木村 達央、中学・高校と女子に話しかけられたこと計5回。決して多いとは言えない異性とのコミュニケーション回数だ。
しかも内訳が、授業中に女子が落とした筆記用具を拾ってあげた際に「ありがとう」と感謝されたことが4回、隣の席の女子が俺の登校を確認して「おはよう」と挨拶をしてきたのが1回。
よくよく考えると感謝4回は話しかけられたというより、ただの感謝声明だ。話しかけられたわけではない。だが、この4回をカウントしないと、俺の話しかけられた回数が1回にまで減ってしまう。それはいくらなんでも辛いからどうか感謝4回も話しかけられた回数にカウントさせてください、と自分の中の神様に懇願した。
結局何が言いたいかというと、これまで女性とほぼ縁の無い人生を歩んできた俺は、彼女の誘いが遠回しな好意を現わしていると信じたいのだ。話しかけてくる女性=好意を持っているなどというのが、陰キャ男性100パーセントな発想だと頭では理解していたとしても。
「・・・。」
「あの~・・・、大丈夫ですか?」
「ふぁっ!」
彼女の優しい声が、止まった時の世界から俺を現実に引き戻す。そうだよ、結局この後どうするか決めていないじゃないか。ただ単に好意を抱いてくれてたらいいなぁ、という願望を脳に染みこませただけで、何も物事が進展していない。どうする、誘いを受けるの、断るの?
「あ、えと、その・・・」
俺は情けなく言葉を濁しながら、別に断る理由は無くないか、と冷静に考えた。だから誘いを受けよう、ミクロ経済学Ⅰに行きましょうと返事をしようとした。すると、
「・・・やはり今日はやめておきましょうか。」
彼女は俺が返事をする前に、自らの誘いをキャンセルしてきた。なぜ、そんな急に、と心の中で疑問符がスクランブル交差点の如く巡る。次第に俺は思わずその疑問を口にしてしまう。
「え、どうして。」
「なんだか顔が赤くなっておられるので、熱でもあるのではないかと思いまして。」
言われて俺は自分の顔を両手で触る。熱い、たしかに熱い。一昔前のアンドロイド端末みたいに熱い。そうか、俺は緊張と興奮でひとり顔を熱くしていたのか。そう考えるとなんとも滑稽でみっともない。
「ごめんなさい、どうか今日はお家でごゆっくりお休みください。」
彼女は親切に帰宅を勧めてくれる。誘いを受けられなかったのは残念で、勝手に顔を赤くした自分に後悔しか残らないが、心配してくれた彼女の優しさに心が満たされた気がした。たったそれだけで今日がとてもいい日になったという満足感を残し、俺は家に帰ることにした。彼女に軽く頭を下げて、俺は席を立つ。
「あの、すみません。」
ここで俺は彼女に話しかける。もう会話に一区切りついたというのに。だが俺は1つ重要なことを忘れていたことに気付いたのだ。彼女は「はい」と再び俺に顔を向けてくれた。
「お名前、聞いてもいいですか。」
そう、少しばかり会話したものの、俺はこの人の名前を知らないのだ。名前くらい覚えておきたいと思い、俺は尋ねたのだ。そして彼女は顔をそらし、少し笑みを浮かべると、改めて俺に顔を向けて言った。
「琴藤 沙希です。」
琴藤さんか。その美しい表情に相応しい名前だなぁと感心した。そしてふと、相手の名前を聞いておきながら、未だ自分が名乗っていないことに気付き、慌てて名乗る。
「・・・あ、俺は木村 達央。キムタツって呼ばれてます。」
そんな呼び方、ネトゲのフレンドしかしないが。
「ふふ、キムタツさんですか。面白いあだ名ですね。」
琴藤さんが優しく微笑んだ。彼女に面白いと言われると悪い気はしない。むしろキムタツというあだ名に誇りを持つことができる。
「それじゃあキムタツさん、またお会いしましょう。」
またお会いしましょう。琴藤さんのその言葉で、俺は再び顔を赤くし、そそくさと彼女の前から立ち去った。そして自分は今、ニヤけているという気持ち悪い確信を持ちながら家路についた。