覚悟
まだ火の燻る夕暮れの砦跡は、全てが終わった後だった。
今朝方まで北の大国ルスアノとフランクール共和国の両軍が争っていて、勝者が南進し、敗者は砦を放棄して次の防衛拠点へ撤退。
俺は昨晩から何も見るなと導師に厳命されていて、探知系の能力は肉眼で見える範囲以外は全て封じ、ルリやヒスイ達にもそちらを見ないように命じていた。
導師が用意していた隠れ家は外の様子は何も伝わらない場所で、少し眠った後に魔力操作の基礎を反復していたら、すでに日が傾くまで時が過ぎていた。
そして今ようやく、ここに立っている。
「まずはこの程度かのう」
右隣に立つ導師はいつもと変わらない。
「すぐに進んだのか。向こうも相当な損耗のはずだが……」
左から聞こえる団長の声は深刻そうに聞こえたが、ただ戦況を分析しただけのものだった。
当たり前か。
俺には計り知れない程の経験が二人にはあるのだから。
こんな状況なんていくらでも見てきただろう。
獣や魔獣のそれではなく、人の、鉄の、噎せ返るような強烈な臭い。
地面に、壁に、鎧に、死体に、こびり付いた赤黒。
時折聞こえる金属の擦れる音と微かな呻き声。
そんな情報を捉えても何も感じないほどに。
「……フランク騎士団長閣下」
体を向き直ることも目を向けることもしないまま公爵家の次男で王国騎士団のトップに対して行動を促す。
そう長く我慢できそうになかった。
「導師を連れて、離れてください」
「……何をするつもりだ」
「ただの八つ当たりです」
不敬が過ぎる。
普通なら既に俺の首は繋がっていないだろう。
「……行きましょう、アルノー殿」
「それじゃあ、ゆっくり見させてもらうことにするぞ」
それでも彼は導師を連れて転移で離れていってくれた。
導師は困った物を見る目で肩をすくめていたが、それ以上は何も言わなかった。
「ルリ」
『いるわ。ここに』
呼びかけると、彼女はすぐに現れてくれた。
『……ごめん、ちょっと力を貸して』
『謝らないで、レイ。そんな必要ないの。むしろわたしがあなたの力になりたい……』
ルリは俺の右手を取って、切なげな声と共に治癒をくれた。
いつの間にか握りしめて血が流れていたらしい。
ルリには呼ぶまで出てこないでと伝えていたから、ずいぶん心配をかけていたのだろう。
大事そうに触れられることへ申し訳なさが募る。
『ごめん』
『……謝らないで。あなたは、何も悪くないわ……』
ルリが首を横に振り、両腕で俺を包み込んだ。
今の俺に普段ほどの余裕はない。
精霊達にだって隠したくなるような感情も、思考も、きっとそのまま伝わってしまっている。
それにルリは一番長いこと一緒にいるから、他のみんなよりいくらか多く俺を知っている。
例えば、誰かが死んでしまった時に俺がどうしていたかとか。
学園都市に来てからは一度もなかったことだから、記憶を見せない限りはヒスイ達にも知りえないことだ。
村では病に倒れる人を何人かだが見送っていた。
「……ありがとう」
伝えなければいけない言葉だけはなんとか言えた。
それから一つ間を置いて、願いを唱える。
世界に愛された者のみ行使できる神秘。
自分の魔力を使わずに思うがままの願いを具現するのが精霊魔法だ。
『この世を司る精霊よ、万物を癒し、浄め、鎮める、水の精霊よ』
呼びかけに呼応してルリが魔力を高めていくと、共鳴するように多くの水精がその場に生まれる。
同時に俺も水の魔力を練り上げた。
夏の暑さ、戦場の残り火、全ての熱が消え去って場は静謐に支配される。
『傷付いた者に癒しを、穢れを纏う者に浄めを、そして……鎮魂を』
戦場跡へ青の魔力を注ぐ。
死の淵に居た者、四肢を失った者、既に身を離れた者に向けて。
傷口が塞がるわけではなく、失った身体を取り戻せるわけでもない。
それでも痛みや汚れは取り除くこともできる。
死に絶えるだけの身体を生きるための身体にするため。
……そして、せめて
「せめて、安らかに」
埋めつくすかのような魔力は数瞬の後に消え、そこには何もなかったかのような景色が残る。
『其の慈愛に、感謝を』
礼を述べると風がそよぎ始め──
──そして、声が聞こえ始めた。
「何が……」
「えっ……」
うめき声すら出なかった。
ただ死を待つだけの体だった。
そんな彼らにとって敵味方となく降り注いだ青は奇跡と言う他ないだろう。
「行こう、ルリ」
『ええ』
でもこれはただの八つ当たりだ。
行き場のない感情をただぶつけただけである。
子供の癇癪となんら変わりない。
万が一にも誰かに見つからないようにその場から転移した。
その後、俺は地面に背中を預ける。
……心の内から溢れるものに身を任せよう。
その様子をルリがいつもの様にただ見守ってくれていた。
****
揺れていた感情が落ち着いたところで導師と団長の元へ転移した。
見下ろす砦からは未だに戸惑いを多く含んだ声が聞こえてくる。
しかしその中の再会を喜ぶ声や感極まった涙声には、自然と胸が暖かくなった。
「さて、次に行きましょうか」
「ああ。と、言いたいところだが……」
団長が少し自信なさげに、俺の後ろへ視線を向ける。
王国最強も形無しの表情が、つい苦笑を誘った。
「ヒスイ、怒らなくていいよ」
「ふん!」
むくれた様子で二人を見下ろしていたヒスイが鼻先を逸らす。
「すみません、お気になさらず」
「そう言われてもな……」
団長は困った様子だが、まあ、当然である。
この世界においては精霊は万物の上位者として崇められているのだ。
その中でも中精霊ともなれば、普通は精霊とヒトとの架け橋役であるエルフでさえ、一握りしかお目にかかることはできない。
あまり俺も自覚できていないが、二人とも実はすごかったりする。
そんなヒスイに怒りを向けられれば、戸惑うのも当たり前だろう。
おまけにルリも顕現しているのだけど、ヒスイの態度に何も言わないあたり、含むものを感じるはずだ。
ちなみに二人が不機嫌な理由は、ここに連れてきた二人が悪者だと捉えているからだ。
「ほっほっほ、これは困った」
「気にしないでください。人に危害を加えないようにと約束しています」
「……そう言われると、君に何かを教えるというのが馬鹿らしく感じるが」
中精霊を支配する者に教えるなど畏れ多いと団長が言う。
しかし俺が必要な覚悟を持てていないのは事実だ。
学ばなければいけないことはある。
「至らぬ部分も多いもので」
「そういえばいつか、あちらは争いがなかったと言っていたか」
「それも……ありますが……」
『あっちでの最期の記憶を、思い出しちゃうの』
俺が口ごもった言葉を引き継いだのはルリだった。
「ルリ……」
『わたしにはレイ以外のニンゲンのことはあまりわからないけれど、たぶん、もっとずっといっぱいのことを考えちゃうの、レイは』
「……なるほど、それが原因じゃったか」
導師と団長が納得して頷いた。
自分で口にしたかったけど、どうしても言葉にしづらかった。
もしかすると、そのあたりが彼女に伝わっていたのかもしれない。
自分を理解してくれる存在が素直にありがたいと思う。
俺は今でも、あの日を忘れられない。
自分の死を悼む人の姿をただ茫然と見るだけだった、あの日を。
「生まれる前の話を今も引きずっているなんて、格好つかないものですけど」
「余人には到底理解できん、と突っ込んだ方がいいのかのう」
気を紛らわすための軽口に導師が突っ込んでくれたから、肩を竦めて空気を茶化す。
「じゃが、お前さんの記憶はそこからずっと、刻まれておるんじゃったな。逃れられんか」
導師が以前の告白の内容から正解を導き出した。
「……はい。俺の記憶は頭じゃなくて、魂にあるので」
右手の人差し指をこめかみに、それからすっと下ろして親指で胸を指す。
「常に記憶魔法がかかっとるようなもの、じゃったか」
「はい。まあ、解けない呪いのようなものですけど」
記憶魔法というのはこの世界にある魔法の一つで、魔法発動中の出来事をすべて記憶したままにできる。
脳ではなく、魂に刻むことでそれを可能にする。
普通は十何年前の記憶だなんて風化していくものだ。
転生者であっても、前世の記憶がどれほど輝かしくとも、その事実や知識を覚えているだけで、ありのままにすべてを思い出せることなんてまずありえない。
実際に、叶斗の事故以前の記憶はレイとしての記憶よりよほど曖昧なものばかりである。
魂での記憶が始まったのは、向こうで再び目覚めた時以来だからだろう。
「忘れない、と言うより、忘れられない……」
「ええ。消えてくれません。って、話が逸れましたね」
大切なのは記憶が残っているとかどうとかじゃなかったはずだ。
「死の記憶、死後の記憶、そいつらは俺の根底に絡みついて剥がれ落ちてはくれません」
これはきっと、この世界の転生者の宿命だ。
同じく転生者である賢公の手記にも、あちらでの最期からを思い出す記述がいくらもあった。
「克服は、するつもりです。あちらの記憶も大切ですが──」
向こうの家族を、友人を、好きな人を、悲しませてしまった。
だけどそれはもうはるかに過ぎ去ってしまったもので、取り返すには時間も場所も離れすぎている。
だけど、だから──
「今の大切を守るためなら、削ぎ落さなければならないものもあります」
例えば、確実に一人の女の子を救うためには、更新されることはおろか、こじれてしまっている死生観とかを。
「今の私は、こちらの両親から生まれ、こちらの幼馴染たちと育ち、こちらの友人たちと学ぶ、一人の少年なのですから」
俺は『俺』の延長線上にいる。
そのことは決して変わらない事実であり、『彼ら』はいつも俺にとっての大切な人たちだ。
けれど、だからといって、この世界で共に生きるみんなが大切じゃないなんてことにはならない。
「まずはナディアと、それからカミーユも守るために、覚悟が必要です。なにとぞご教授ください。導師」
****
俺たちの話が纏まったのを見届けると、団長はさっさと国へ帰っていった。
今は学園が夏休みなだけで平日の真昼間だから、職務を放り投げてここに来ていたに違いない。
副団長のクラリス様が実質団長と宣ったのも無理はないかもしれない。
「あれの仕事は、日の当たるところだけとは限らんぞ」
「自在の転移に相当レベルの隠密……暗殺や他の仕事も簡単ですね」
……裏の仕事ってやつか。
「おおかた上からもそれがあるから目こぼしされとるはずじゃ」
「じゃあ今日ここにいたのも偵察のついでとかですかね」
「だといいがのう」
導師が意味ありげに笑う。
いやまあ、うん、大体わかる。
「まあ、逆ですよね……」
「そうじゃな。案の定、えらいことをしでかしてくれたわけじゃし」
戦火などは跡形もなく、新造のような砦を見降ろした。
砦の守り人たちは生き残ってしまった敵兵をどうするか決めあぐねているようだ。
言葉違えど、互いに奇跡に救われた身。
そう簡単に皆殺しとはいかないようだった。
「命を奪う覚悟をするのと命を救わないのは、全く別でしょう」
「まあの。怪物になるわけではあるまい。あれはそうならんか懸念しておったがな」
はるか先の王国の方角へ、目を見やった。
「ところでじゃ」
「はい」
「お前さん、さっきはナディア某と言っておったな?」
「はい。友人です」
そういえば、俺は別に導師に何を話したわけでもなかった。
俺と導師を引き合わせたフランク団長にも、何を話したわけではない。
団長は息子を通して俺が何やら暗躍の動きを見せたのを察知し、導師はそれを団長を通して聴いただけだ。
そもそも、俺がフランクールを目指していたことすら彼らは多分知らなかった。
「ふむ、なるほど、そうか……」
「?」
「わしは戦争の方かと思っておったが、なるほどそうか」
「あの」
導師が勝手に何かに納得している。
行動を読まれた?
あまりに情報は少ないというのに?
「危地の姫君と、騎士見習い、魔法使い……物語のような展開じゃのう」
だけれど導師はすべてに合点を得ていた。
「ちょうどいい、さっそく授業じゃ。まずは帝都……今は首都じゃったの。そこに連れてってくれ」
……そんなことよりまず事情説明じゃないかな。
そんな反論はため息になって掻き消えて、諦めた方がいいと経験が告げた。
「はあ。あとでちゃんと作戦は教えてくださいね?」
導師が何を考えているのであれ、ひとまずは、本来の目的も果たせそうだ。
ありがとうございました。