出発前
戦争が始まったところで学園の安穏とした日々に大きな変化はない。
戦争のことももちろん話題になるが、あくまでも殆どにとっては他人事だ。
ルスアノの二方面進攻の可能性が囁かれていたりもするけど誰もあまり気にしてない。
王国はこの世界で最大の戦力を有している。
個人としても集団としても王国が負ける要素はないというのが全体の認識だった。
「レイお兄ちゃん、お隣で戦争だってね」
「ここに居るなら、大丈夫だよ」
だから、ちょっと心配そうだったリーナが聞いた時にはそう答えた。
学園都市に、王国に居る以上は安全である。
でも、その言葉はそれ以上の意味を持たない。
……ここじゃなかったら。
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「どうした、表情が険しいぞ」
「え? あー、いや、暑いから」
「ふん……まあ、そうだな」
「……隣のやつは見てるだけで暑いし」
「ほう、隣とは私しか居ないのだが?」
「他に居るかよ、そんなに暑苦しいの」
始業から三ヶ月以上が経ってこの世界はすっかり夏模様を纏っている。
火精霊達は自分たちの季節がやって来たと主張して止まないように動く。
日差しは照り付け、教室のある騎士科棟から運動場まで歩くのも億劫である。
そんな中、遠くを見やる俺に対して訝しげに指摘してきたローレンスは未だに長袖のままだ。
それなりに涼しい素材である春秋用ではあるが、見た目は暑苦しいと言う他ない。
理由はローレンスなりに色々あるのだろう。
実は寒がりとか、そういうのだと思う。
うん、きっと今年一年で寒がりになったんだ。
そういうことにしておいてやる。
去年は普通に半袖の制服に変えていたし。
しかしあまり表情に出してるつもりはなかったのだが、ローレンスはごく偶にこういうところで鋭い。
学園の敷地内に乱立する木々の上から頭を出した治癒師科棟の方から視線を外す。
小精霊達にある程度の対応を任せてあるし、それで最悪は防げるはずだ。
「おい、聞いているのか?」
「あー、うん。夏の予定だろ?」
「ああ。去年は狩りに行ったわけだが……」
ぼんやりと考えている間に話が進んでいた。
耳に入っていたが聞き逃していた言葉を脳内で再生しているとどうやらこの夏の話らしい。
あと一月もすれば夏季休暇だ。
去年のことを思い出しているのだろう。
隣から期待を込めた眼差しがちらちらと向けられる。
あの時のローレンスはなかなか大変なように見えたのだが、さすがはローレンス、図太い。
ついでに俺たちより前の方を歩いているカイルもこちらに興味を持ったようだ。
ごく自然と、より話を聞きやすいように立ち位置を変えている。
「今年は連れて行けないな」
「なっ!」
隣のオーバーなリアクションはさておき、前の方でも一瞬足取りが揺らいだ。
お前も期待していたか。
「今年こそ必要だろう!?」
「悪いけど、今年は出稼ぎに出るつもりなんだ。学費も生活費も馬鹿にならないからな」
大嘘を理由に掴みかからんばかりのローレンスを引き剥がす。
俺が入学までに稼いだ金も父さんが遺してくれた金もたんまり残っている。
なんなら今は秘密基地でミスリルを量産中だし、自重を捨てれば一日で億万長者だ。
「しかし、夏休みが終われば森林実習が……」
「ああ、あるな。けど、そこで学べるんだ。この夏は無し」
「ぬぅ……」
すげなくローレンスを払い除けてそのまま歩みを進めた。
本格的な対魔物戦を実地で学ぶ森林実習の予習をしておきたかったのだろう。
ローレンスは歯噛みする。
けれど、歩いている間にだんだんと楽しげな顔になっていった。
……こいつ。
「去年も言ったけど、一人では絶対行くなよ」
「っ!」
どうやら図星を貫いたらしい。
更衣室に着くまでの間、一人で魔物のいる森に入る危険性を改めて説教する。
けれど、なかなか納得しないから最後は誰か他の引率を見つけられるなら行ってもいいんじゃないかとだけ言っておいた。
ローレンスならカイルとかグレン、ジェシカあたりからなんとか引率を確保できそうなものである。
****
そして昼休みのお茶会中、ふと神妙な面持ちになったナディアから話が切り出された。
今日はウェインが欠席であり、四人でのお茶会である。
最近のナディアの様子と自分で揃えた情報からそろそろだろうとは思っていた。
ローレンスとなぜか既に行く気満々だったウェインを突き放した甲斐があったというものだ。
表情が隠せるよう、念の為にティーカップを持ち上げる。
「夏休みには……一度国に帰ることにしました」
俺たちを心配させないためか、ナディアは微笑んでいた。
表情だけを見れば誰も彼女の決意の悲愴さなど気が付けないだろう。
優しい、本当に優しい笑顔だ。
自分のティーカップに注がれた紅茶の水面が細かく揺れる。
これ以上そんな表情をさせないための決心はしているが、見ているだけで心苦しくなる。
残り少なくなっていた紅茶を煽るように飲みきると、カミーユが眉根に皺を寄せてこちらを見ていた。
ナディアの前で見せる所作として相応しくなかったのだろう。
その視線には気が付かないふりをしておこう。
「フランクールに行かれるんですね! どんな国か教えてくださいますか? 実は私、あまり知らないのです」
リーナの声色はいつもより明るかった。
ほとんど事情は知らないはずだというのに本当に聡い。
フランクールに行くことの意味をすでにわかっているようだった。
「去年のようなお土産を待っていますね」
「……夏が終わった時、去年のようにたくさんのお話を聞かせてください」
それは俺もローレンスも分かっている。
だから未来のことを語った。
その身に何が降り掛かるか予想が付かない上で、家族と共にあることを選んだ彼女へ。
フラグ臭いなんて言い方もできるかもしれないけれど約束をするのだ。
言葉は大きな意味を持つ、そう信じて。
「……はい」
一瞬だけ彼女が作っていた笑顔が崩れかけた。
その後にはナディアから夏の予定の話が振られ、ローレンスは迷っていると、リーナは他の残る友人達と寮で過ごすと、そして俺は出稼ぎに出ると伝えたぐらいだった。
****
二年生の前期は大過なく終わったと言えた。
大きなトラブルに巻き込まれることも無かったし、テストの順位もいつも通りの三位。
それからローレンスも補習には引っかからなかったし、リーナ、ナディアは二人とも学科の首席に近い成績で、意外なことにウェインも一桁だった。
傍から見れば何も無い。
上手くやれていたとも思う。
だけど俺の中の緊張感だけ日に日に高まっていて、カイルやカミーユには何かを疑われていた気もした。
そして夏休みとなる。
少しでも早く移動をするということで初日にナディア、それからカミーユは転移陣でフランクールへ帰っていった。
貴族が使う転移陣だから俺達は見送りには行けなかった。
前日、終業式の日にしばしの別れの挨拶をしただけだ。
……最後の別れなんかにさせてやるかよ。
ナディアを守るためにフランクールに行く。
最初からそう決めていた。
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ダミーも含めて荷造りは完璧。
そんな夏休み初日の夜だった。
階段を上る足音が聞こえた。
どうにも気になって人物を探る。
……マジか。
足音は最上階まで上がりきり、一つ二つと部屋の前を通り過ぎていく。
そして一番角の部屋のドアの前で止まった。
小さく深呼吸をしているのが手に取るように分かる。
さて、どうしようか。
ドアのノックが。
『あの子だわ』
「そうだね」
ルリに答えてから、ダミーも含めた荷物を全て【亜空間収納】の中に放り込んで玄関へ向かった。
「夜遅くに一人で出歩いたら危ないよ、リーナ」
ドアの前に立っていたのはリーナだ。
リーナなら俺が気づくことを知っているだろうから、わざわざ驚くフリをしたりはしない。
現にリーナも俺が出てきたところで大きな反応はなく、ただ頷いていた。
その後は俯いたままで、彼女の瞳は長いまつ毛の奥に隠されている。
「……リーナが家に来るのは珍しいね」
学校が始まってからは初めてだ。
ラスも居た時に住まいを紹介したことはあるが、それ以降はここに来たことはない。
これにもリーナは頷くだけだった。
「…………」
沈黙が降りる。
……俺から、切り出さなきゃ、か。
彼女が今日ここに来た理由は分かりきっている。
だから何の用事なのかなんて今さら口にしないし、できない。
今日までの俺はリーナからすると不自然極まりなかったはずだから。
賢いリーナならとっくに分かっているのだろう。
彼女の目はいつも俺に向けられているのだし。
「……嘘ついてて、ごめん」
「!」
俯いていた顔が上げられ、驚いたような、泣きそうな、複雑な表情で俺を見つめた。
オレンジの瞳と、薄桃の唇が細かく揺れる。
「行き先なんて言えないからさ。ウェインにも、ローレンスにも……ナディアにも」
リーナへの申し訳無さに胸が苦しくなる。
けれど、そんな自分勝手な感情を規則の厳しい寮を飛び出して俺の元へやって来てくれた女の子に見せていいはずがない。
「なんで……」
ずっと何かを紡ごうとしていた唇から消え入るような声が聞こえた。
「理由は、上手い言い訳が見つからなかったとかじゃない。ただ──」
出稼ぎに行くだなんてリーナに知られたくないなら下手な嘘だ。
リーナは俺と俺の家の金銭事情をよく知ってる。
気付かれないはずがないのだ。
「──ただ、リーナには隠したくなかった。そんな、自己満足だよ」
「そんなんじゃ……」
「そうなんだよ。もっと上手く隠せた。俺が一人でどこかに行くのに、理由なんて付けなくても良かったんだ。俺ならそれもできるから」
リーナの眉間に徐々に力が入っていく。
星明かりが目尻を彩る。
俺なりの誠意とはならないかもしれないけど。
リーナは俺の力の一端を知っているから、リーナは俺がまだ何かを隠してると気づいているだろうから、リーナはそれでも俺を好きでいてくれているから。
力を使ってリーナじゃない違う誰かを守るために動く時、隠そうだなんて少しも思えなかった。
「……レイお兄ちゃん、行っちゃヤダって言ったら……」
「それでも行くよ。行かなきゃいけない」
答えれば美しく微笑んで、ひとつの欠点のないような無垢な頬を一筋の涙が滑り落ちていった。
そこから止めどなく溢れていく。
そうできる義理は今の俺には無い。
分かっていても、彼女の頬に手が伸びた。
触れることを許されているのは多分、俺だけだ。
そして、いつもしていたように涙を親指で拭っていく。
「行ってくるよフランクールに。ナディアと、カミーユと……彼らを守りに行く。ちゃんと帰るから、待ってて」
一歩踏み出したリーナが胸に顔を沈めてきたから、俺はそれを甘んじて受け入れた。
「レイお兄ちゃん……大好きだよ」
「……ありがとう、リーナ」
泣き疲れたリーナを魔法で眠らせた後、寮の部屋まで彼女を送り届けて俺は最後の準備を整えた。
ありがとうございました。




