出発─冒険者ギルド
「レイ、どうした?」
「………」
「おい」
「………」
俺の全てを刻む正確な記憶力がずっと先程の光景をリフレインしていた。
………ファーストキス、か………。
「ダメです、返事がありません」
「このバカ、ぼうっとしてんじゃねえ」
「………」
「お前………無言で躱すなよ」
………まじかあ。
叶斗として十七年と少し、レイとして十二年と少し、合わせて三十年近くなる俺の人生で初めての出来事に考えることが多すぎた。頭が上手く回らない。
今さっき何かが横を通り過ぎた気がするが、それが何なのかすらよく分からない。
「ははは、これはまた最後に珍しいレイを見たね」
「ずいぶんと腑抜けた顔をしておるのう。大方、色恋沙汰じゃろう」
「色恋って………! おま、リーナと何かあったのか!」
肩を掴まれて揺すられた。ああ、脳が揺れる。忘れる、忘れるから。
「………」
「おうレイ、キスくらいでそんなんじゃあ、先が思いやられるぜ?」
「なっ!」
「お、当たったか?」
ズバリと指摘され、ようやく浮ついていた自我が帰ってきた。
あれ、もう街に着いてる。見慣れたギルドの入口の風景だ。
肩を揺すっていたのがラスで、言い当てたのがマスターか。先程飛んできたのは、マスターの拳だろうか。
「お、お前、キスって………!!」
「おうおう、ラスもウブかよ」
俺とリーナのキスと聞いて、ラスは後ずさり、俺よりよほど顔を赤くしていた。その肩をマスターが肘でつつく。
ラスはそういうことに疎いというか、村にはリーナの他には七つは年上の既婚者たちと洗礼前後の小さな女の子しかいなくて、そういうものに慣れていないように思える。
「よしてやれ、イアン。それでレイ、別れはちゃんと済ませてきたのかい?」
「はい、師匠。卒業までは帰らない予定ですから、ちゃんと。それから、母さんにこれを渡されました」
俺は【亜空間収納】を開いて、父さんの短剣を取り出した。
すると師匠が懐かしそうに目を細めた。
「ああ、やっぱりそうなったんだね。………それは私が入隊祝いにレンに贈ったものだ」
「そうなんですか!?」
「ああ。だからレイ、学園でも大切に使ってやってくれ」
この十五年も前の剣はよく使っただろう痕跡も見て取れるというのに、ずいぶんと綺麗な状態で残されている。
父さんがあまり使えなかったということもあるのだろうけど、隊長としての師匠から父さんが受け取って大切に使った後、これまで師匠が十年間よく手入れしてくれていたのだろう。
大切にされてきたこの剣に、それぞれの思いが乗っているのを感じる。
「大切にします」
「己の武器の手入れは………」
「騎士の基本ですから」
何度も聞かせてもらった騎士の在り方は、全て脳裏に焼き付いている。
師匠の言葉に被せるようにして答えると、師匠はちゃんと覚えているようで何よりだと言って俺の頭に手を置いた。
母さんやマスターによくされるのであまり気にしていなかったが、この世界で十二歳というのはそろそろ頭を撫でられる歳でもないんじゃなかろうか、なんてことも思うが、これが最後だと思い甘んじて受け入れる。
そのまま師匠は低く響く、優しい声で俺に告げる。
「レイ、君には様々な秘密がある。けれど、私にとっては十分に可愛い弟子だし、それは導師もイアンも変わらないよ。何かあれば私たちを頼ってくれていいし、私の名前を使ってくれていい。"聖壁"の名は、きっと学園でも役に立つ」
「わかりました」
頭に置かれていた手がどかされ、俺が顔を上げると師匠はやはり優しく微笑んでいた。
この人が師匠になってくれて、俺は本当に運が良かった。
「君の行く道は限りなく広がっている。迷うこともきっと多いだろう。だけど、君は君の決めた道でしっかり歩いて行け。それがきっと一番だ」
「はい!」
「よし。君の活躍を楽しみにしているよ。行ってこい、レイ」
時には厳しかった師匠の、けれど最後まで優しさに溢れた激励を受け、俺は頭を下げた。
「ありがとうございました!!」
⋯⋯本当に、ありがとうございました。
「あー、なんだ。俺もじじいもジョーみてえに気の利いたことは言えん」
「あはは………」
師匠が後ろに引いて、マスターと導師が俺の前に立った。別に俺としても二人とは感動の別れを期待していない。
「まったく、最後まで失礼なことを考えておるのう」
「笑って別れたいだけですよ」
いとも容易く心を読む導師に、隠し事をしても仕方が無い。ここでもきちんと素直になるとしよう。
この二人とは俺が剣と魔法を習う以外には真面目な話なんかほとんどしなかった。ギルドではいつも楽しくしていたのだ。最後に感動を求めるのが筋違いである。
「ったく。おい無計画小僧、これをやる」
「無計画小僧ってなんですか………」
不名誉な名を付けられた俺にマスターから渡されたのは一枚の書類だった。
さらりと目を通すと何かしらの文言とマスターのサインが書かれていて、その上からギルドマスターの判子が押されていた。
………紹介状、みたいな?
「冒険者見習いに登録したほうが良いと言っただろう?」
「国内の全ギルドで使える、ギルドマスターからの口利きじゃよ。それをもってギルドのある街に行けば宿には困らん」
この書類をもってギルドに行けば、ギルドの仮眠室を宿泊用に使わせてもらったり、安くて良い宿を紹介してもらえるそうだ。
導師曰くマスターはぶつくさ言いながらもさっさと用意してくれていたらしい。、申請やらにいくらか手間がかかるそうだが、
「ありがとうございます!」
「おう、精一杯感謝していいぞ。お前、全部成り行きに任せようとしてただろ」
「はは、正解です」
「ったく、ちっとは自分のナリを考えろ。面倒が増えるだけだぞ」
野宿で過ごすか、そこらへんの適当な宿に泊まろうと思っていた俺は、思わず頭をかく。
確かに今の俺の姿は、帯剣したりで武装はしているが、どう頑張っても成人前の少女にしか見えない。
この街では行儀の悪い冒険者たちにも顔と実力を知られているが、知らない街ではそうはいかない。一人旅をする美少女なんぞ明らかに恰好の餌食になるだろう。
マスター達が言うには、今の実力でもあしらえないレベルの悪人はいないそうだが、面倒はできるだけ避けたい。
「本当はお前になんも心配はねえんだろうが、万が一もある。学園まで気をつけて行ってこい」
「野宿するにしても、お前さんならまったく問題は無いんじゃろうが、長旅の間も気は十分に配っておれ」
「はい」
導師の視線が俺の奥に向けられていた。きっとルリのことを言っているのだろう。
眠る必要のないルリがいれば、正直どこで寝ていても、ドラゴンでも出ない限り安全なのだが、何かに襲われた時点でルリの存在がバレる。そこを人に見られるかもしれないし、リスクはできるだけ減らしておきたい。
「よし、じゃあ、行ってこい。………まあ、あれだ、またどっかで顔見せろ」
「わしより先に死んでくれるなよ? お前さんが次に何を見せてくれるのか、楽しみにして待っておるからの」
ぶっきらぼうなマスターとふざけた調子の導師、いつもの物言いの中にいつもの優しさを感じながら、俺は二人に頭を下げた。
「言いたいことは、いっぱいあるけどさ⋯⋯リ」
「俺も、お前には頼みたいことがあるんだ」
「⋯⋯何だよ」
最後に俺の前に立ったのはラスだ。
ラスが先に口を開くが、それについては自分で考える。今更ここでリーナの話をグダグダされたくはない。
話を遮って俺のペースに持ち込んだ。
「まず、俺の家族とリーナ、それからトルナ村を頼む。これはお前に任せるよ」
「分かった。………みんなを守れるぐらいに強くなってやるから、安心してろ」
ラスが自信ありげに胸を叩く。ずいぶんと頼れる存在になったものだ。
それからもしもの時のために俺はラスに耳打ちをする。
「でも、もし手に余るようなら、森の中深層に新しく泉を作ったからルリにすぐ知らせて。その時は飛んでくから」
「はあ!? 泉を作ったって⋯⋯いや、精霊様なら⋯⋯」
小さな声でラスが驚くが、マスター達は普段は街にしかいないから、これはラスにだけできる仕事だ。
実はテリン山から帰ってきてから俺とルリは、森の浅層にルリの二つ目の領域となる泉を新しく作っていた。
名を受けてさらに力を増したルリは、管理にもリソースが必要なので無制限とは行かないが、ある程度自由に精霊の泉を作り出すことができるようになっていたのだ。
ラスが泉に入れば、ルリを通じて情報を即座に得ることができる。学園都市はここから遥か遠くだが、トルナ村に何かあるのならば全てを置いてでも帰ってくるつもりだ。
ルリへ送るシグナルを教え、ラスが覚えただろうところで二つ目の頼みを口にする。
「あとそれから、リーナと、それから母さんに悪い虫がつかないようにだけよろしく頼む」
「………おう!」
こちらも快諾だ。
リーナは兄として勝手にガードするだろう。その範囲を少し、母さんまで伸ばしてもらう。
………まあ、こっちも言わずともってとこはあるだろうけどさ。
俺の家に来る時、いつもやけに緊張していたラスを思い出していると、手に持っていたままだった短剣に自然と手がかかった。
「お前が悪い虫になるなら………分かってるな?」
「………おう」
カチャリと剣が音を立てると、ラスが神妙な面持ちで頷いた。
とりあえず釘は刺しておこう。何かの間違いがない限り何も無いと思うが、あってからでは遅い。
幼馴染が義父とか考えたくないのだ。
「レイ」
その他言い残すことはすべて伝えて、ラスに最後の挨拶をしようとしたら、向こうが先に俺の名を読んだ。
「さんありがとうな、お前がいたからオレは今ここにいられる」
感謝の言葉が述べられた。なかなかに気恥しい。
そんな俺を知ってか知らずか、ラスの言葉は続いていく。
「お前に助けられたから、お前が引っぱってくれたから、ずっとオレの前にいたから、俺はここにいられる。お前は多分ずっとオレにとっての恩人で、英雄で、憧れなんだと思う」
「おま………」
大げさだ、そんな言葉が口に出そうだったが、あの日の朝に村で俺を見つめた目が同じように向けられていて、俺は何も言えない。
「学園に行ってもきっと変わんねえんだろ? きっとお前は走ってる。普通なら追いつけないぐらいの速さで、カッコよく、追いつかせないぐらいの真剣さで、オレの前を走ってると思う」
いつもなら、思っていても絶対に照れて言わないような台詞をラスは真剣に伝えた。
俺を見つめる瞳が静かに、しかし熱く燃える炎のように、揺れた。
「けどさ、オレは一応、お前の幼馴染だから、お前が前にいるのに追いつこうとしないのはオレが納得行かないんだ。お前が速かったらオレはもっと速く走れるようになりたいし、お前が格好良かったらそれだけオレも、お前以上に真剣に走りたい」
ここでラスはハッとして、ひとつ目をつぶって、 恥ずかしいなと笑った。
それから最後に俺へ向けて決意と激励を表す。
「学園でも、どこでも、お前らしく走ってろよ、レイ。オレはオレの足で追いつくから。お前が卒業したずっと後になるかもしれないけど、追いつくから。胸張ってお前の隣にいれるように、追いつくから」
言い切ると同時に、力強く突き出された拳に、俺は迷うことなく拳を合わせた。
「お前に見えない所で、今よりもっと速く走ってると思うけど、いいの?」
「それくらい考えてるさ」
再び目が合って、二人で笑い合う。
ラスが俺を追いかけるというのなら、俺はそれに見合うような姿を見せてやろう。
「来いよ、ラス」
「おう、どこまでも行ってやるよ」
拳を合わせれば、それ以上の言葉はもういらない。
****
『寂しい?』
『そりゃあまあね』
あの後四人やギルドの受付のお姉さんたち、わざわざ日取りを聞いて朝早くからギルドに集まってくれた冒険者の先輩方に送り出されて、街を出た。すっかり皆と顔なじみになった門番や、仕事の依頼をくれた商人にも声を掛けられ、一つ一つに例を言った
今俺の目の前には次の街へと向かう、長い街道が続いている。
ここからはしばらく彼らと離れた長い旅。心細くもなる。
『でも、大丈夫だよ。ルリもいるし』
『ふふ、そうね』
それでも側にはルリもいる。隣で見守ってくれる彼女の存在はとてもありがたい。
そして、それだけじゃない。
俺の将来を期待してくれているのを確かに感じる。
まっすぐ俺を見つめてくれている瞳が確かにある。
俺を愛してくれた人達の気持ちを受け取っている。
ここから俺は一人かもしれないが、これからも俺は一人じゃない。
「よっしゃあ、行くかー!」
未だ知らぬ次の街へ向かって、俺は確かに歩き始めた。
ありがとうございました。
これにて第一部終了となりますが、まだまだ物語は続きます。お楽しみに。