唐突
『ねえ、レイは水の魔法を使わないの?』
今は秋も深まって森に落ち葉が積もり始めた頃。
周囲からは隔てられた異空間となっている泉の周りで、誰の目にも憚られず魔法の制御を練習していた俺に彼女は言った。
俺が何かしている途中に彼女が話し掛けてくるのは珍しい。
いつもは気恥ずかしくなるぐらい楽しげに、ただただ俺の行動を見守っているのだ。彼女からは全ての感情が伝わってくるから、実際に気恥ずかしいのだけど。
「使わないんじゃなくて使えないんだけど……珍しいね、いきなりどうしたの?」
『……水の魔法も使ってほしいなあって思って……』
少しの照れの感情が彼女から送られてきた。
これはヤキモチとでも言うのだろうか? 理由は俺が風魔法ばかり使うからだろうか?
唇を尖らせる彼女の姿が可愛らしく、少しだけ頬が緩む。
「水魔法の呪文は聞いたことがないからね」
『それなら……私が教えてあげようか?』
「えっ、ほんと? ニンゲンに使える?」
教わると言っても、精霊の魔法は根本が人のそれと異なる。
人が使っている魔法は、エルフが精霊と同じ魔法を使うために魔法陣を開発し、ニンゲンがその魔法陣を作るための呪文を開発して独自に進化していったものだ。呪文により描かれる魔法陣と流す魔力によって、発動魔法、威力、範囲などが決められる。
対して精霊の魔法は一から十までを全て自分で作り上げる必要があるものだ。
使うには相当に魔力の扱いに長けていなければいけない、はずだと思う。
『レイはニンゲンだけど、魔力を自分の体のように操るもの。信じられないけど、魔力の制御に関しては私たち精霊とほとんど変わらないわ?』
「そっか……じゃあお願い!」
どのような魔法であっても、使えるに越したことは無い。
たとえそれが人前では使えないものだとしても、だ。
『なら、魔力を同調するわ。……手を繋いでくれる?』
「うん、分かった」
魔力の同調なんて出来るのか、と感心しながら、おずおずと差し出された青く光る手に取る。
魔力で出来た体に実態はなく、ひんやりとした感覚だけが手に伝わる。
そして、彼女の魔力が俺に流れ込み俺の魔力が彼女に流れた時に、解けた。
「うわっ、やべっ」
魔力の同調……他者の魔力が流れ込んでくるという初めての事態に対応出来ず、もうずっと無意識の間にやっていた魔力の制御が外れた。
この世界の規格から外れた、膨大な魔力が一気に膨れ上がり、魔力の嵐が吹き荒れる。
普段は波一つ立たない泉の水面が白い波を立てて、泉を取り囲む茂った木々がバサバサと音を立てて揺れる。
……これはちょっと増やしすぎたかなー⋯⋯
数年ぶりに全開放された魔力を目の当たりにして自分でも呆れてしまうほどだ。
「あの……っ……」
弁明しようと口を開けば、次の言葉は出てこなかった。
涙が止まらなかった。
理由もわからないのに胸の中で激情が暴れ回り、思わず膝をつきそうになる。
俺の魔力は完全に収まっている筈なのに、水面はさらに激しく揺れていた。
なんだこれ、とそう思ったが心当たりは一つしかない。
「……どう、したんだ?」
自分の魔力を今一度高めて、一先ず彼女から流れ込む感情を遮断する。
『……レイ、あなたは……』
いつもの透き通った声で、彼女は言った。
でももしそれが本当に声で、音として俺に伝わっていれば、きっといつも通りのものじゃない。
いつの間にか俺と繋いでいたはずの手は彼女の胸の前にあった。
実体を持たない彼女に、涙が流れることはないけれど、俺は言う。
「泣かないで」
俺は彼女に当てられてしまって、ぐしゃぐしゃになっていた頬を拭った。
魔力を同調させ、解放してしまった一瞬で彼女の中に芽生えた感情はあまりに大きく俺の中でも入り乱れていた。
俺の記憶に取り込まれた彼女の感情を思い出せば、直ぐにでもまた涙が溢れ出しそうだった。
『……ごめんなさい、レイ』
「君が謝ることじゃない。俺が隠してたのが悪い。けど、どうして?」
『ねえ、レイ、あなたは……』
俺が指で目を擦りまっすぐに顔を向けると、彼女は何かを言いたげにしていた。
けれど、そのまま彼女が続きを口にすることはなかった。
『ごめんなさい……しばらくあなたとは、会えないかも』
「え?」
聞き返した時にはもう、姿が消えていた。
「……ええ?」
残されていたのは困惑する俺と、主のいない清閑な泉、そして彼女が胸の中に残していったさざ波だけだった。
****
ゴン、という鈍い音がきっとギルドの修練場に響いただろう。
それが憶測なのは音源が俺の頭にあったからである。
「っ……痛ぅ」
「お前、最近気が抜けすぎじゃないか?」
「マスター、頭はダメですよ、割れたら死んじゃう」
「死なねえだろお前は」
頭がギリギリ割れない強さを確実に見極めて剣で殴打したマスターに睨まれ、俺は悶絶するのをやめて押し黙る。
いや、どちらもあまり行動としては変わりはないか。
「何かあったな?」
「……」
「沈黙は肯定だ。このひと月で何回目だ?」
「⋯⋯頭が十一回、脇腹が八回、その他が九回です」
「そこまで正確にゃ聞いちゃいねえよ」
「痛っ」
また頭を軽く叩かれる。軽くと言っても十分に痛い。
そう。彼女が、泉の中精霊がいなくなってから早くも一ヶ月が過ぎていた。
ちゃんとした理由は未だに彼女から聞けていない。
毎日泉に足を運んでいても、彼女はあれから一度として姿を見せておらず、そこにあるのは静まり返った泉でしかなかった。
けれど、いつ行っても彼女の魔力に満ちているから俺の居ない間には主としてそこに戻っているのだろう。そのことが、会えないのは彼女の意思であることをハッキリと俺に伝えていた。
「なんだ? 女か?」
「違いますよ、ってマスター、俺まだ十ですよ?」
「ふん、冗談に決まってるだろう」
外したか、という顔をしたのをしっかりと捉えていた。
本気で心配してくれるのはありがたいが、子供が女性関係でひと月も悩んでいると本気で考えているのかと思うと、常識の違いを疑わざるを得なくなる。
いや、彼女としている時点で中精霊は女性扱いでいいのだろうか。
「一体どうしたんだい? レイ君」
「ジョゼフさん……」
近くで他の冒険者に指導をしていたジョゼフさんもキリのいいところでこちらに尋ねてきた。
いやー、実はですね、森で出会って以来仲良くしていた水の中精霊に逃げられちゃって、困ってるんですよ。
なんてことをジョゼフさんに言えるはずはなく。
マスターにだって言っていないし、精霊が見えることは家族ですら知らない俺のトップシークレットの一つなのだ。
最近は毎日稽古を付けてもらってすっかりお世話になっているジョゼフさんといえども、相談できることではない。
「君の年頃にしては随分思い悩んでいるようだからね」
「ははは……」
十歳の子どもが一ヶ月もほとんど毎日何かに悩んでいるだろうか、いや普通はない。
そのことは俺も自覚していて、乾いた笑いしか出て来ない。
ちなみにジョゼフさんからも数発いいのを頭に頂いている。
物腰が柔らかく丁寧、かつとても効果的な指導がギルドでも人気の彼だが、そこはやはり元騎士であるか。剣を持てば当然に厳しい面も持ち合わせている。
俺が適当に場を誤魔化そうとすると、ジョゼフさんは一つ息を吐いた。
「君にも言えないことはあると思うが、相談できることならいつでも相談してくれていい。私も、……イアンでも話を聞くぐらいできるさ」
「でもは余計だ、ジョー。最っ高の解決策を答えてやるさ」
「……ありがとうございます」
二人がとても頼りになることは確かだろう。だけど、それだけで解決しない問題が多すぎるのが俺だ。
仕方がないと顔に出したジョゼフさんが俺の頭をグリグリと撫でた。
この一か月でまだ底を見せていない魔力以外にも秘密があるのだと、なんとなく彼も勘付いているのだろう。
「仕方がないことはいい。今はそれより出来ることをやろう」
「……はい!」
武器を槍から適当に選んだ細剣に持ち替えて、共に気持ちも切り替えてジョゼフさんと向かい合う。
今日こそ一本入れてやる。
****
「やあ、水精さん。服を洗ってもらってもいいかな?」
そう問いかけるとどこからともなく現れた水が体を包み、あっという間に服がピカピカになる。
「ありがとう、けど、魔力吸いすぎじゃない?」
「知ったこっちゃないね」とでも言いたげな小精霊達に苦笑いを浮かべるしかなく、魔力を奪われてやや乱れた息を吐いてからその場に座り込んだ。
「今日はまたマスターに頭をぶっ叩かれたよ。あの人絶対いつか俺の頭叩き割るつもりで……」
いつものように笑顔で話を始める。
「……ジョゼフさんにはまだ一勝もできなくて……」
「……昨日の夜に初めて母さんに言われたんだけどそろそろ将来を考える必要があるらしいんだ……」
「……十二で見習いにならなくちゃいけないからね。ニンゲンの生きる速度は俺にも速すぎると思うよ⋯⋯」
「……学園ってのにも行っていいらしいんだ。俺ってけっこう選り取りみどりでさ……」
「……このまま冒険者になるのか、他の仕事を選ぶのか……」
つらつらと言葉を並べたてていく。
主のいない泉は沈黙を常に保っているが、そんなことは一切を気にせず、彼女が聞いている、そう信じて語りかける。
何かの拍子で姿を見せないか、誰かが見れば馬鹿にしか見えないような期待を持って、ひと月の間毎日こうしているのだった。
「……やっぱりだめかー」
今日も彼女には会えない。そのまま背中を地面につけて空を見上げる。
「じゃあ、ちょっと寝る」
そう彼女に言葉をかけて青の魔力を全て泉に渡す。小さな精霊たちが嬉嬉として俺の中身を吸い尽くしていく。
もう冬も来ちゃうけど、どうするんだ。
そんな不安が頭を過ぎって、俺は意識を手放した。
****
目を覚ましてから、「また明日」と声をかけて泉を出る。帰り道に何匹かの獣をナイフで狩ってから村に戻った。
「お兄ちゃん、今日もすごいね!」
「ありがとう、リーナ」
俺が帰るのを待っていたリーナが俺を称える。
狩った獲物で両手が塞がっていて手を繋げないのが申し訳ないところだ。
「もう冬も近いのにそんなに狩れるなんて、ってお父さんも驚いてた」
「俺はちょっと運がいいらしいんだ」
森の中層での狩りに一切魔力は使わないから、気配を探るのは己を頼りにしている。
深層の魔物を相手にし始めてから、以前にも増して生き物の気配を敏感に感じるようになっていた。
「……冬はどうするの?」
「うーん、どうしようか?」
リーナが前を向きながら訪ねてくる。
どうしようかなんて言いながらきっと俺がやることは変わらない。
朝からギルドに向かって、それから日が暮れる直前まで森の奥で一人過ごす。
その間に何をやっているか、誤魔化すしかなくて、ごめんなリーナ。
****
そして、何も変わらないままに時間だけは過ぎていった。
冬になっても毎日ギルドから帰れば「狩りをしてくる」と言って森へと入った。
どこかで途切れればもう絶対に会えないのではという確信めいたものが胸の中にあったのだ。
家族は、俺が魔物の素材を持ち帰っていることもマスターにお墨付きを貰っていることも全部話してあるから、気をつけて、としか言わない。
ラスたちが遊びに誘ってきても、一切を顧みなかった。
リーナは誘ってこなかったが、毎日俺が戻ってくるのを待っていてくれた。
それでも何も無いまま、寒い冬は過ぎて年が明け、俺が十一を迎える年の春がやってきた。
ありがとうございました