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明日が来る。

 休日の明けた学園。

 王都との一切の連絡が不可能になったという異変は夜の間に伝えられ、開戦の報も相まって、学生たちは各寮の部屋で不安な夜を過ごしていたようだった。

 最大都市であり、文化水準も進んでいる王都の出身者は学園の三割近くを占めるから、家族の心配をすれば仕方のないことだったろう。最悪の事態だって想像したはずだ。


 だけれども、朝一番に届いた詳細はさておき、王都は無事であったという吉報。

 どこの寮も、街も、いつもの朝よりもずっと騒がしかった。


 その中で、理由はさておきリーナも眠れぬ夜を過ごしていたようで、ちょうど今は寝不足を隠す化粧を施していたらしかった。


「リーナ」

「………!!!!」


 ひゃっ、という驚きの声が漏れたのは風の魔法で遮断して、俺の耳にだけ届くように。


「び、っくりした………」

「ごめん、急に」

「う、ううん。でも、えっと」


 動揺しながら振り返った彼女が突然部屋の中に現れた俺の顔を見たところで、口を噤んだ。


 俺は今、どんな表情をしていんだろうか。

 いつもみたいに笑おうと思ったのだけれど、上手くできていないみたいだ。

 さっきまでのことと今からのことばかり考えてしまっていて。


「話したいことがあるんだ」

「……うん」


 ルームメイトのパメラが部屋に戻ってくる前にリーナを攫う。


 音も気配もなく転移して連れて行った先は、朝を迎えた王都を見下ろす都市壁の上。

 風が強く吹いていて、着替えを済ませていたリーナの黒の制服のスカートが揺れる。


 髪を抑える彼女は音にこそ聞きながらも初めて目にする王城、王都の街並みの美しさを眺めてから、王都の外で騎士や野次馬たちが集まっているのを見つけていた。

 地に伏せても高さ数メートルに及ぶ巨大な地竜の亡骸を検分する騎士団の規制線の外では、目覚めた王都の冒険者や住民、昨夜の騒ぎを何も知らずにやってきた旅商人たちが立ち止まって山のように集まっているから、嫌でも目に付く。


「……竜?」

「うん。今回はそれどころじゃなかったから、ラスたちに頼んだけど」

「え、ラス?!」


 首の断たれた地竜を見て、俺の仕業だと思っていたらしいリーナはぎょっとしていた。

 自分の兄がこれをやったとは夢にも思わなかっただろう。

 実際に、今のラスが地竜の首を叩き切るのはどう頑張っても難しい。


「ラスと、カイルと、ウィルフレッドの三人で。俺も手助けしたけど、あの竜は任せた」

「王都に居たんだ……」

「本当にたまたまね。居てくれて助かった」


 偶然にもラスが滞在していなければ、打てる手立ては大きく変わっていた。

 少なくとも一瞬は俺が対竜戦闘へ参加し、再びドームの中への侵入を試みることとなっただろう。

 そうなった時にどういう被害が及んでいたかは、今は想像がつかない。


 緊急事態の後ということで市壁の上を厳重に哨戒する騎士が俺たちの隣を素通りしていく。


 そうやって夜のうちに過ぎ去った嵐の跡を見下ろしたまま、リーナは尋ねた。


「レイお兄ちゃんは、どうしてたの?」

「戦ってたよ」

「誰と」

「転移者」


 その言葉を聞いて、竜の遺骸を見つめたままだったリーナは俺の方へ視線を向けた。


 俺はリーナに言っていないことがある。

 精霊と契約していること、エルフの森に招かれたこと、同じ村に生まれたはずなのに全然理解できない知識を有していること……色々仄めかしていたけれど、彼女にはちゃんと、言っていないことが。


 彼女が言葉で問おうとしたのを制するために、俺は先に首を振った。


「転生者なんだ、俺」


 今さら驚かないと思っているけれど、口にするのが大事なのは分かっていた。

 その大事な話をするために、それを伝えた上での話をするために、学校が始まる前の彼女をここへ連れてきたのだ。


「気付いてた?」

「そう、なのかなって」

「だよね」


 リーナは俺の力の一端を知っていて、ルリの存在やエルフとの繋がりも知っている。彼女に物心がつく以前から重ねた俺の奇行も母さんやばあちゃん、シェルファさんたちに話を聞いているだろうから、気付くこともあるはずだ。


「ラスと、師匠たちには言ってたんだけどね。学園に行く前に」

「……リーンさんには?」

「言わないかな」


 視線を逸らすために青い空を見て、目を細める。


 どこかで告白しようかと何度も迷ったけれど、今ようやく決められた。


「俺が母さんの子どもだってことは変えられないし、変わらないから」

「……そっか」


 母さんが愛した唯一人、父さんとの間に産まれた子に、彼女は無条件の愛を捧げてくれていた。

 今日まで、ずっと。

 俺の挙動を不審に思うことも沢山あったろうに、ずっと。


 だから、彼女が母として抱いた愛の形はできるだけ歪めず、そのままにしておきたかった。


 ……彼女がそうやって与えてくれた愛が俺をこの世界に繋ぎ止めてくれたことは間違いないから。


 生まれたばかりの時の俺は絶望の中で本当に酷く鬱屈していて、頭の中では生きることを手放すことさえ考えた。


 そんな中で無条件の愛を与えられ続けて、申し訳なさばかりが募っていって、せめて彼女の息子として振舞おうと思うほどに絆されたのが、レイとして生きるこの世界での生の始まりだった。

 母さんが気付いたとしても、気付いているとしても、事実は墓場まで持って行ってやろうと思う。

 父さんと母さんの一人息子として、せめて母さんの前では生きていきたい。


 ……それでも。


「リーナ」


 目の前の彼女には全てを伝えなければならないと思ったのだ。

 全てを、伝えたいと思ったのだ。


 なんと言ったものか今更悩んで、言葉を呑む。


 好きな人が居たんだ、と切り出そうとしていた。

 でも今そんなことを言い出して、彼女の何になる。

 ただ自分の後ろめたさを懺悔して許してもらいたいだけなら、これまでの無責任の全てを断罪されるために膝を付いて地に伏せるべきだし、そんなことはいつだって、何度だってできる。


「っ……」


 再び、言葉を呑む。


 ありがとう、なんて言おうとして。


 言葉だけの感謝が、今さら彼女の何になる。今必要な言葉は、今彼女のためになる言葉だ。

 うわべだけの甘く優しい言葉を定型句のように繰り返してきたのはただ、優しくできたと自分が満足するため。自分のかつての後悔の傷を舐めて癒すためであって、彼女のためであったことがあったか。


「……っ」


 もう一度、言葉を呑む。


 愛していいか、と問おうとして。


 そうじゃない、と思わされたのは、落ち着きなく彷徨った俺の視線が彼女のオレンジの瞳にぶつかった今。


 彼女の、不安に揺れる瞳を何度も見てきた。

 俺が傷ついて帰ってきたとき。俺が一人で顔色を悪くしていたとき。彼女が学園都市まで来た夏、俺に縋った時には同じ目をして泣きじゃくった。


 だから俺は、そうだ。

 彼女の願いを知っているはずだ。


 彼女はずっと、本当にずっと俺に恋をして、俺を愛してくれていた。


 リーナの恋を知りながら、愛を受け取りながら、それでも俺はずっと彼女を軽んじてきた。


 学園へ行くとき、プレゼントを送ったお返しでもないキスまで貰って名残惜しさこそ芽生えたけれど結局、俺はリーナを顧みなかった。


 一年生の間にも彼女のことを思い出すときは度々あったけれど、俺を追って学園に来てくれるなんてことは想像すらしていなかった。


 学園まで追ってきてくれた時はまた会えたことが嬉しかったけれど、将来の責任なんか考えられなくて、判断をずっと先延ばしにしたままだった。


 去年の学園祭の後、母さんが去って行った後からなんとなく、自分はきっとリーナと結婚するのだろうと思い始めたけれど、それもあくまでもなんとなくの感覚であり、この世界を生きて行くならば、という強い仮定付きだったのだ。

 だから、学園都市で見つかることのなかったあちらの世界に戻る手段がエルフの森で精霊女王から示された時、強く、強く揺らいだ。


 ……それでも今。


 自分でこの世界を選んだと言うのならば。

 押し付けられた決断かもしれなくても、この世界で生きることを選んだのならばもう。


 今ここで、選ぶ。


「……リーナ」


 何度も言葉を呑んで、覚悟を決めようとしても、出てきたのは彼女の名前だけ。


 自信を持って言葉を選ぶのにこれだけの時間がかかるのは、彼女の前でいつもいつも、格好だけ取り繕った薄っぺらい言葉ばかり並べてきたから。

 向こうでだって十七歳までしか生きていなくて、人の愛し方だって全然知らないことばかりで、何の道理も、相手との向き合い方も分からないのに、うわべの知識だけで誤魔化していた自分の姿。


 もう一度、彼女の瞳を見た。

 全ての沙汰を俺に委ね、左手で右の手を掴んで、じっと待っていてくれた。

 リーナが何を考えているか推し量ろうとして、俺の方が涙を滲ませそうになる。


 彼女の痛切な願いを知っているなら、気付いているなら、選べ。

 俺の生きるべき今を、明日を。


 それから一歩だけ近付いて、固く握りしめられていた左の手を取った。


 今日までずっと、リーナが俺に手を伸ばしてくれていた。

 剣の稽古で痛みに晒され、心がささくれ立った冬の日に手を繋いでくれて、それが温かかったのをよく、よく覚えている。


 覚悟は決まった。


 告白する。


「リーナと一緒に、生きたいと思ったんだ」


 今朝のこと。

 この世界で生きると決めた時、彼女の顔がまず真っ先に顔が浮かんだ。

 傷ついたのを慰めてもらいたかっただけかもしれないけれど、その相手として確かにリーナの顔が浮かんだのだ。

 ならば、それでいいだろう。

 十分な理由なはずだ。


 その直後にだって、今だってどうしても、あの黒く長い髪で顔を隠した姿が浮かんでしまうけれど──。

 あの手を取れなかった後悔が、慰めることもできなかった無力さへの絶望が浮かび上がってきてしまうけれど──。

 どうしても向こうの世界での記憶が魂の根幹に位置していて、それを覆いきれなかった自分の一部分はずっとずっと中途半端な……宙に浮かんだ亡霊のままだったけれど──。


 ──選ぶ。


 この世界で生きると決めたのだから。


「リーナと手を繋いで、俺は生きていきたい。これから、何があっても」


 彼女の瞳が揺れて、滲む。

 俺が彼女の涙を拭った数を俺はもしかすると数えられるのかもしれないけれど、彼女を泣かせてしまった回数が俺には分からない。

 十四年の人生のほとんど全てを捧げて学園まで辿り着き、転生チートの下駄を履いた俺の隣に相応しいと示すために研鑽した彼女には、どれだけの苦労と苦悩が付きまとったのだろうか。どれだけの不安と恐れと共に夜を過ごしてきたのだろう。


 ならばせめて、これからの俺が与えられる限りの報いを、彼女に。


「君を愛するよ」


 ずっと手を伸ばしてくれた恩も、それを蔑ろにしてきた償いも、彼女の全霊をもって俺を愛してくれたことへの報いも、全部に責任を持って。


「絶対に離さないからね。リーナ」


 宣言しきって、ようやく俺はいつものように笑うことができた。

 可愛らしい女の子に向ける、歯を見せた砕けた笑い方。

 沢山沢山回数だけを重ねてきたけれど、今日のこれがようやく本番なのかもしれない。

 それにしては随分不格好だと思うが、それでいい。


 リーナの目からはもうとっくに涙が溢れていて、俺が早くそれを拭ってやりたいと思ったのに気付いたのか、彼女は返事をくれた。


「うん! レイお兄ちゃん!」


 彼女の、一輪の花が咲くような笑顔。

 どれだけの朝露に塗れても咲く花は美しいものかもしれないけれど、彼女には晴れやかな空こそよく似合うと思う。

 彼女の頬に触れて、親指で拭う仕草もこれで最後かもしれない。


 しばらく互いの表情を見つめて笑い合っていると、俺と同じくらいの背丈のリーナが俺を覗き込み、いたずらっぽく目を細めた。

 何を求められているかは、そのまますっと閉じられた目を見ればすぐに分かった。


 あの時はただ当惑のままに受け入れるだけだったけれど、今日ならばもう、どんな決断より簡単だ。


「大好きだよ、リーナ」


 柔らかく口づけを落として、暫く。

 飛びついてきた彼女を踊るように抱き締める。


「私も! 大好きだよ! ずっと、ずっと、ずっと!!」


 泣きじゃくる彼女を、決して離さないようにしようと心から思えた。

 あらゆる恐れから守り、決して泣かせやしないと心に誓った。

 蟠りの無いよう、ずっと手を繋いでいられるように素直に言葉にしようと改めて胸に刻む。


 俺は彼女を幸せにするために生きていくために。

 この世界で彼女と共に、明日を生きていくために。

ありがとうございました。


この作品を描くと決めた時からずっとずっと辿り着きたかったシーンでしたが、まだもう少し終われないです。

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