第5話『コンフリクト・バースト』
守れなかった自分。
守りたいと思った自分。
大地が轟音と咆哮で揺れ、エレンは足を止めた。握られていたリイシャンの手を振り解き、振り返る。
「――ッ!」
絶句した。言葉が、喉元でつかえて上がってこない。
もう遥か前方になってしまった戦場で、焉龍が高らかに天を振り仰ぎ、雄叫びを響かせていた。閑散とした竜頭山に響くその声は、勝利への歓喜ではなく、児戯への飽きを感じさせた。
地面に四肢を投げ出し、這いつくばるルイとレイドットの姿も目に入った。体のあちこちから血を滲ませ、土と野草にまみれていた。《視覚強化》を使うまでもなく、二人が限界なのが見てとれた。
ほら、やっぱりじゃないか。エレンは、声に出さずにつぶやいた。人間と焉龍では、そもそも生物としての規格が違う。火山の噴火にバケツの水で立ち向かうようなものなのだ。勝ち目云々ではなく、元来同じ土俵ですらない。一介の魔法使いでは、お話にならないのだ。
「エレン君? 何してるの、早く逃げなきゃっ」
そう言って再び走り出そうとするリイシャンの手を、エレンは冷たく振り払った。
リイシャンは目を丸くして、当惑した表情を浮かべている。
「何やってるの!? 早く逃げなくちゃ!」
逃げる? それに何の意味があるというのか、荒涼とした大地に立つエレンには、理解できなかった。
「どうして……?」
それは、純粋な問いだった。邪推も含みもない、純然たる疑問。
リイシャンは、噛み付くような視線をこちらによこし、反駁する。
「逃げなきゃ死んじゃうんだよ!? ルイ先輩達が戦っている間に逃げなくちゃ!」
そのルイなら、もうすぐ事切れてしまう。次は、自分達の番だろう。
エレンは、あくまで冷やかな口調で訊ねる。
「仲間を見殺しにして得た命に、何の意味があるんだ…………」
記憶が、再び《三年前》に遡りだしそうになり、懸命に堪えた。
「だって、私達には何もできないじゃない! 私達は、無力なんだよ!?」
無力。
それを突きつけられて、エレンは心の内に鋭い痛みを覚えた。その言葉に対する異様な反発心が、少しずつ膨れ上がってくる。
――――どうするんだ、エレン。
頭の中で声が響く。酒焼けした、しわがれた声だった。
(どうするもこうするもない。逃げるんだ)
――――そんなことしても意味がないことなんて、あんたが一番分かってるんじゃないの?
今度は、琴の弦を爪弾くような美しくも力強い声。
(うるさい。もう僕は《あの日》には戻らないって決めたんだ)
――――じゃあその脚に付けた魔具は何だよ。戦う気満々じゃねーか。
威勢のいい、暑苦しい声が脳裏に響く。エレンは、たまらずそれらの幻聴に叫び返した。
(僕にどうしろっていうんだ、あなた達は!)
――――戦えばいいじゃないか。
再び、しわがれた声。ひどく、耳障りに聞こえた。
――――逃げたい? ならどうして足を止めた? なぜリイシャンに問答をした? 走り続ければいいじゃないか。それをしないってことは、お前はどこかで戦いを渇望してるんだよ。《あの日》捨てたはずの意志を、な。
(違う! 僕は!)
――――何も違わない。お前はまた戦場に戻ってきた。今お前が戦わなきゃ、大事な家族が死ぬんだぜ?
説教臭い、酒焼けした声で、エレンはハッとなった。
今まさに、焉龍は〝じゃれ合い〟を終え、二人を捕食しようとしている。そして次は、自分とリイシャンが狙われる。
死ぬ。ルイと、レイドットが。自分を仲間だと認めてくれた大切な人が。
(でも僕が戦えば、二人は僕から離れていってしまうかもしれない)
――――それはお前の責任だな。隠してきたお前が悪い。だからこそ、お前が決めろ。見殺しにするか、立ち向かうか。
体が小刻みに震え出す。
恐怖心があった。それは、焉龍に対するものではなく、ルイやレイドットが自身に向けるであろう侮蔑の眼差しに対する恐れだ。
自分を認めてくれた人がいなくなってしまうかもしれない。それが、たまらなく怖かった。死と同等か、それ以上に。
戦うことも怖い。また守れないかもしれないから。自身の力量不足が、他人を傷つける結果になってしまうから。
『君は、誰かを守る能力などない、羽蟻の一匹でしかないんだ』
脳裏に、《あの日》の言葉が蘇る。エレンから全てを奪った、諸悪の根源たる男の愉悦混じりの声音。
同時に、先刻のリイシャンの言葉が蘇り、再生される。私達は無力なのだ、と。
「違う。僕は……僕は……」
決めろと言われて、真っ先に逃げ出したかった。今逃げだせば、少なくとも現実から目を逸らすことができる。焉龍と、対峙しなくて済む。
だが、それは無意味だと気が付いた。魔法使いとして生き続ける以上、戦うことを放棄しない以上、《あの日》の続きはいつかまたやってくる。それが早いか遅いかの違いがあるだけだ。
自分が逃げだせば、間違いなくルイとレイドットは死ぬ。レイラやヤドルフと同じように、儚く命を散らすのだ。丁度、道端に転がる鳥の死骸のように。
だったら、どうするのか。
——決まっている。
絆が失われることなど、もうどうでもよかった。命が失われることに比べれば、一掻きの埃より軽かった。
「僕は……」
脚甲内の法晶石が、濃い翡翠色に輝き始めた。これまでのどの輝きよりも強く、濃く、重い。
地を蹴った。魔法が爆発し、エレンの体を激烈に加速させる。久しい感覚だった。
風属性魔法、残響。
「無力じゃないッッ!!!」
加速したエレンの体は、一瞬にして焉龍の眼前へと飛翔した。
繰り出された渾身の脚撃が、焉龍の顎先を捉え、かち上げる。
けたたましい悲鳴を響かせながら、漆黒の龍がその巨体を仰け反らせた。
冷たい眼光を向けたエレンの背後で、ルイの声がした。何と言ったのか、聞き取れなかった。だからエレンは、小さく頭を下げる。
「ごめんなさい、ルイ先輩。帰ったら全部、説明します」
体勢を立て直した焉龍が、白い眼を血走らせながら怒号を上げた。これまでの嘲笑とは違う、明らかな怒り。エレンを、破壊対象として認めたようだった。
「充分だ」
誰かを守る力なんてない。
そう言って家を出たことを今更悔やむつもりはない。
だが、今だけは。
今という、一瞬だけは。
「僕が、皆を守ります」
沸騰する覚悟と法力が、大気を揺らす。
かつての傷を携えて、
過去も今も置き去りに、
運命を喰らう嵐、舞う。




