第3話『天に届け』
天蓋に瞬く希望の光。
「ふぅ……」
午後の訓練が終わり――この土壇場で力に目覚めるというような奇跡は当然なく――、後片付けを済ませてからシャワー室で汗を流し、自室で部屋着に着替える頃には、既に午後7時を回っていた。
午後7時半。自室。
ベッドに寝転んだリイシャンは、不意に先刻までの出来事と、自身の心境についてわずかばかり記憶を遡ることにした。
――訓練室に戻った時にルイの姿はなく、結局、訓練が終わるぎりぎりの時間まで姿を現すことはなかった。リイシャンにとってはありがたくもあり、同時に、悲しくもあった。
訓練終了後、ルイは澄ました顔で「焦るな。気長にやれ」と言った。ルイにしてみれば、何ら悪意も言い回しもない、ただ単純な励ましだったのだろう。だがそれは、リイシャンにとっては何よりも重い、重責を伴うものだった。
『才能がないな』
そう言われているような気さえしたのだ。邪推、だろう。こちらに気を使って優しい言葉をかけてくれたルイに対してそんな風な考え方しかできない自分を、内心で深く咎めた。
(もう、わけ分かんないよ……)
どうしたらいいのか、どうすべきなのか、どうすることが自分の糧になるのか。
焦燥と疑問と落胆とが、ごった煮のようにぐちゃぐちゃに混ざり合い、リイシャンの思考を狂わせる。
卓上の時計に目をやると、針は7時40分過ぎを指していた。
体が重く、言うことを聞かない。それでも、エレンが待っているのだから、行くしかなかった。
心の底にもやもやを抱えたまま、リイシャンは屋上へと続く階段を上っていた。
シャワーのおかげで体はさっぱりしたが、頭の中はぐるぐると絡まり続けている。
一段上る度に心が締め付けられるように痛む。
この先で――エレンはどんな表情をしているのだろうか。
ドアを開けたリイシャンを待っていたのは、曇っていた心を淡く照らし出す、星達の瞬きだった。
全天が、煌く星々で満ちていた。空に散りばめられた大小様々な天体が、宝石のように光り輝いている。辺りの静謐さと相まって、その輝きはより強く、儚いものに見えた。
「うわぁ……」
思わず、その美しさに見入ってしまう。
学院時代には、こうして空を見上げること自体、考えられなかったからだ。
高官になるための勉強は本当にハードで、毎日毎日連日連夜、心身ともに疲弊しきるほど勉強に明け暮れる日々だった。
周りの半分は、エリート二世、三世だった。一般家庭に生まれたリイシャン達にとって、熾烈な蹴落とし合いを繰り広げる彼らは、本当の意味で別世界の存在だった。
敷かれたレールの上を無表情で歩き続ける彼らは、言うなれば血統書付きの愛玩動物で、そんな彼らにとってのリイシャン達など、所詮偶然知能が優れただけの雑種だった。
勉強の疲れから周りの声が騒音に聞こえ始め、伸びない成績に苛立ちが募り、人付き合いが苦手になり、そんな自分が嫌で余計に苛々が増していった。加えて《あの日》以降、拍車をかけるように心が死んでいくのを感じていた。
――だが、ここは違う。個性的で温かな人達で溢れ、皆が笑い、怒り、騒がしく生きている。
人間らしく、生きている。
最初は、先生に言われたからだった。
『リイシャン。この間の身体検査の結果でね、あなたに魔法の適性があることが分かったの。神様はリイシャンを見放してなんかいなかったのね。どう? ギルドへの推薦状なら、私が書くわよ』
そうして薦められたのが、《時代の放逐者》だった。
最初は、何故? と思った。《時代の放逐者》の置かれた現状は大陸中の魔法使い候補者なら誰でも知っているし、当然、先生も知っているはずだ。そこで理由を聞くと、『リイシャンの力を小さなギルドで埋もれさせるのはあまりにもったいないの』『初心者を募集してる大きなギルドがそこしかなかったの』と苦笑を返された。
今となっては、その方が有り難かったのかもしれない。争い事を好まないリイシャンに、何十人もの会得者に囲まれて神経を擦り減らすような毎日が合っているとは思えなかった。ただでさえ壊れそうだった当時のリイシャンに、そんな環境はとても耐えられるものではない。
しばらくの間、悩みに悩んだ。
自分にそんな力が眠っていること自体信じられていなかったし、《時代の放逐者》に加入し己を磨く姿が想像できなかった。先生が声高にする話は、どこか遠いところの、おとぎ話を聞いているようだった。
血を見ること自体、嫌でしかなかった。
争い事は、友達伝いに聞くのさえ嫌だった。
ただそれでも、繋がりが欲しかった。
学院という、微妙な距離感と緊張感の上に成り立っているような希薄なものではなく、はっきりと感じられる、絆のようなものが。
先生がリイシャンにギルド加入を勧めてから半年後、リイシャンはやっと決心を固めることができた。
欲したのは、繋がり。
求めたのは、自身の変化。
「――リイシャン?」
その声が、屋上の入口で回顧しているリイシャンを我に返らせた。
「あ、エレン君……」
数時間ぶりに会うエレンは、屋上の柵にもたれかかり、柔らかな表情でリイシャンを出迎えた。一歩踏み出し、屋上に出る。
「ごめんね。わざわざ来てもらって」
「ううん、大丈夫です……エレン君こそ、任務から帰ってきたばかりなのに……」
エレンの頬や首筋、腕に刻まれた擦り傷が、痛々しく映る。何故か、胸を締め付けられる思いがした。
「大した怪我じゃないし、馬車の中で寝たから平気だよ。1日休めば全快すると思うし」
「そう……よかった……」
それを聞いても、胸の痛みは消えなかった。むしろ、そう言って笑うエレンが、リイシャンにとっては苦痛だった。
怪我は確かに、《肉体強化》の一つ、《細胞活性》ですぐに完治する。骨折程度なら、1日《活性》に努めれば充分だ。
ただそれでも、怪我をした、という過程は変わらない。リイシャンがギルドで休んでいる間にも、エレンは傷つき、痛みを負っていたのだ。
「…………」
何か言おうと思っても、言葉が見つからない。
僅かな、沈黙。
音のない世界で、星の光だけが煌いている。美しいほどの静寧の時が、そこにはゆっくり流れていた。
数秒の静謐を破ったのは、エレンだった。
「リイシャンは、さ……」
「えっ?」
「空って、掴めると思う?」
遥か高い空の先、微かに瞬く星空を見上げて、エレンは呟いた。




