第二章‐5
翌日、日曜日。篤志が買ってきたパンやおにぎりで昼食を済ませた後、レーナが、
「服を買いに行きたいわ」
などと言い出した。ちなみに、篤志は料理が出来ないので食事はほとんどコンビニ頼りだ。篤志は聞き返す。
「って、レーナ、怪我は平気なのか? それに追われてるんだろ? 外出なんかして見付からないのか?」
「怪我のほうは、治療魔法でとりあえず痛みは抑えてるから、歩くくらいなら平気よ。飛んだり走ったりは、ちょっときついけどね。追っ手のほうは、魔法さえ使わなければ魔力感知には引っ掛からないし、こんな昼間に空飛んで探し回ってるとは思えないし、大丈夫じゃないかしら」
暢気に答えるレーナ。まぁ、そういうことならいいか、と思ってから、はたと気が付いた。
「そういや、おまえ、金持ってんのか?」
持っているなら、少し食費を出して欲しい。しかし、レーナは、当然のような顔をして首を振った。
「勿論、この星の通貨なんて、持ってないわよ?」
「てことは、つまり、俺に出させるつもりかよ……」
「美女には、男性に貢いでもらう権利があるのよ」
臆面もなく言い放つ。
「それに、下着の替えもないのよ? アッシュは、女の子をいつまでも裸ワイシャツでいさせるつもり?」
バレていた。顔が熱くなる。
(ていうか、『裸ワイシャツ』なんて単語まで翻訳するとは、自動翻訳恐るべし……)
篤志は少し考えてから答えた。
「……OK。わかった。買ってやる。その代わり、こっちの頼みも聞いてもらうぞ」
「いいわよ。わたしに出来ることならね」
安請け合いするレーナ。ともかく、商談成立だった。
篤志は、掌の紅い石を隠す為に昨夜から巻いている右手の包帯を、きちんと巻き直す。そして、二人とも着替えてから外に出た。レーナの服は例の青い異世界風の衣装ではない。篤志が貸した平凡なシャツとジーンズだ。彼女とは身長が同じくらいだったので、サイズ的にはおよそ問題はなかったが、唯一、彼女の細過ぎる腰には、彼のジーンズのウエストはぶかぶかだった為、ベルトで縛ってなんとかずり落ちないようにする。多少、不格好だったが仕方がない。それを解消する為に出掛けるのだ。
「少し歩くぞ」
と宣言して、篤志は駅前に向かう。途中、コンビニのATMで金を下ろした。
(今月は大赤字だな……。バイト、増やそうかなぁ)
つい、紫子に聞かれたら、また怒られそうなことを考えてしまう。
「この星のエルカルは、すごい音、立てるのね」
駅前への道程を歩きながら、レーナがそんなことを言ってきた。
「エルカル?」
「自動車よ。その、道を走ってるやつ」
また翻訳されない単語が出てきたので聞き返すと、彼女が車道を走る車を指しながら説明する。
「それに、ひどい臭い」
排気ガスのことを言っているのだろう。篤志のような、この星の市街地に住む者にとっては慣れてしまって気にもならない臭いだが、どうやら、彼女の星の車は排気ガスを出さないらしい。電気自動車なのかな、などと思う。
「まぁ、この排気ガスは、この星でも公害とか問題になってるけどな」
「そうでしょうね。この臭いじゃ」
問題はそこではないのだが、とりたてて指摘するほどのことでもない。篤志は、適当に相槌を打っておく。
十数分ほど歩いて、二人は駅前に着いた。駅前の商店街は、日曜の昼下がりという時間帯もあってか、大勢の人が行き交っている。レーナは商店街に並ぶ店々を物珍しそうに眺めながら歩く。周囲の人々は、その彼女を珍しそうに見ながら通り過ぎていった。やはり、彼女の青い髪と異国風の顔立ちは目立つようだ。
篤志は、駅に接続されたショッピングモールに入ることにした。ここなら、大抵のものは揃うだろう。モール内に入ると、レーナがうきうきした足取りで篤志の先に立って歩き始めた。服を買ってもらえるのが、よほど嬉しいらしい。
「まずは、ここね」
レーナが足を止めたのは、ランジェリーショップの前だった。当然、篤志は尻込みする。
「じゃあ、俺は店の外で待って――」
「この星の常識を知らないわたしを、一人で行かせるつもり?」
「いや、でも、こういう店に男が入るのは――」
「いいから、一緒に来るの!」
レーナは彼の腕を取り、強引に店内に引きずり込んだ。いらっしゃいませ、と声を掛けてくる店員に笑顔を返すと、さっそく吊り下げられた色とりどりの下着のカーテンをかき分けて、ふんふん、と吟味し始める。彼女が聞いてきた。
「ねぇ、アッシュ。どんなのがいい?」
「って、俺に聞くな!」
恥ずかしい。店員の、バカップルを見るような生温かい視線が痛い。穴があったら入りたいというのは、まさにこういう気持ちだろう。
「だって、この星の下着の流行りなんて、わかんないんだもの」
レーナは真顔でそんなことを言う。篤志は額に手を当てて嘆息した。
「俺にだって、わかんねぇよ……」
「頼りにならないわねぇ。じゃあ、仕方ないから、自分の好みで選ぶわ」
「……ああ。そうしてくれ」
そんなやりとりの後、レーナは下着選びに没頭し始める。暫くして、彼女はようやく選び終えたようだった。店員に声を掛ける。
「これとこれ、試着してもいいかしら?」
「お客様、ブラのカップ数はおわかりですか?」
「……あー、えーと……?」
レーナは困ったように隣の篤志に視線を送るが、彼に答えられるはずもない。
(だから、そこで俺に助けを求めるな……)
「では、お測りしますね。こちらへ」
気を利かせてくれた店員が、レーナを連れて試着室に入っていった。篤志は、とりあえず一息つく。しかし、ほっとしたのも束の間、試着室の中から店員の声が聞こえてきた。
「トップ、八十二。アンダー、七十のBカップですね。では、そのデザインのものをお持ちします」
(うあー! リアルな数字を言うなー!)
想像してしまう。
店員が一度試着室から出てきて、二種類の下着の上下セットを持ってきて試着室に届けた。店員と目が合うのが気恥ずかしくて、篤志はなにげなく店の外を見る。と、そこには、クラスメイト二人と談笑しながら歩く紫子の姿があった。その三人が店内に入ってくる。
(げ! 委員長!?)
篤志は慌ててしゃがみ込み、下着のカーテンの陰に隠れた。こんな店にいるのを見付かったら、なにを言われるかわからない。三人は入り口近くのワゴンセールの品を見ているようだ。
きゃっきゃと黄色い声が届く。
「あ、これ、かわいー。あたし、これにしようかなー」
「えー、ちょっと子供っぽくない? あたしはこっちかなー」
「……」
「ん? どうしたの、紫子?」
「……サイズがないのよ」
「あー、紫子のサイズじゃ、こういうワゴン品は、ねー?」
(……やはり、委員長の胸は規格外だったのか……)
などと思っていると、頭上から店員の声が降ってきた。
「お客様、なにをしておいでですか?」
「う、いや、その……、コンタクト落としちゃって」
「お客様、眼鏡をお掛けですが?」
……最悪の言い訳だった。店員の視線が突き刺さる。そのとき、試着室からレーナの声が掛かった。
「ねぇ、アッシュー、ちょっと手伝ってー」
救いの手、とばかりに試着室に飛び込む。
「あ、困ります、お客様。男性の方が試着室に入るのは――」
「すぐ済みますから!」
店員の声に答えて、篤志は振り向いた。
(うわぁ!)
危ういところで悲鳴を飲み込む。レーナは当然の如く、下着姿だった。しかも、ブラのホックが止められておらず、胸のところを右手で押さえている。
「これ、勝手がわからないのよ。後ろ、止めてくれない?」
「そんなの、俺だって、わかんねぇよ!」
「なによ、もう。さっきから、ホントに頼りないわね」
動転しながらも、なんとか声を抑えて答える篤志に、いいから早く、と彼女が急かす。彼女が左手でかきあげた青いストレートのロングヘアの下の、白い背中が眩しい。恐る恐る手を伸ばして、ブラのストラップを手に取った。
「……こうして、……こう、か?」
なんとか、ホックを止める。それを鏡で見ていたレーナが、あぁ、そうやるのね、と暢気な声を上げた。息を大きく吐いて、篤志は試着室から出る。店員の視線がさらに痛い。幸いなことに、紫子たち三人は店内から出ていったようだ。暫く待つと、レーナが着替え直して試着室から出てきた。
「じゃ、これ、お願いね」
ポンと無造作に、彼の手に脱いだばかりの下着を押し付ける。まだ、ほんのりと体温が残っていた。
(うあー!)
何度目かの悲鳴をまた飲み込んで、急いで会計を済ませる。そして、ようやく外に逃れることが出来た。
「……もう二度と入らないぞ」
悲愴に、そう宣言する。レーナはきょとんとしていた。
暫しの休憩の後、二人並んで次の店に向かって歩き出す。レーナは相変わらず、モール内の店々を物珍しそうに眺めながら歩いていた。そして、相変わらず、すれ違う人々の視線は彼女の青い髪に集まっている。しかし、本人は気付いていないようだ。篤志も、極力、それらの視線を気にしないように努める。
「それにしても、女性物の下着って、なんであんなに高いんだ?」
(男なんて、三枚九百八十円のトランクスで十分なのに……)
ぼやく篤志に、レーナが、
「いい女は、見えないとこまで気を配るのよ」
と、得意げに言った。しかし、この国の通貨価値がわかっていないので、説得力はない。
次は、服だった。二人で、小洒落た服を着たマネキンが立ち並ぶブティックに入る。さっきの店よりは、まだ気楽だった。レーナは取っ替え引っ替え、散々ファッションショーを繰り広げた挙句に、ようやく服を選ぶ。
「着ていくから、これ取ってくれる?」
と、店員に頼んで値札を取ってもらい、再び試着室に入って買ったばかりの服に着替えて出てきた。会計を済ませた篤志に、はい、と先ほどまで着ていた彼のシャツとジーンズの入ったショッパーバッグを渡す。荷物くらい持ってやるか、と彼はそれを受け取った。店を出る。
「さて、次は――」
「まだ、なんかあるのか?」
既に、結構な額を散財していた。恐々として尋ねる篤志に、レーナは青い目を細めて悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「大丈夫よ。アクセサリーまで買えとは言わないわ」
思わず、ほっとする篤志に、レーナは告げた。
「そろそろ、お腹が空いたわ。なにか食べて帰りましょ?」
携帯電話の時計で時間を確認すると、もう夕刻だった。女の買い物は長いっていうのは本当だなぁ、と思う。
「ちょっと晩飯には早い気もするけど、まぁ、いいか」
ショッピングモールを出て、駅前の商店街の通りを歩きながら、夕食を食べる店を探すことにした。篤志の隣をうきうきと歩くレーナは、ペールブルーのキャミソールドレスに、ボレロ風の春物のカーディガンを羽織っている。それに、これは元々彼女の履いていたものである青いミュール。そんな普通の格好をした彼女は、普通の女の子に見え――ない。篤志は、気にしないように努力していたのだが、やはりどうしても、すれ違う人々の視線が集中しているのが居心地悪くて仕方なかった。
「なぁ、ついでに、その髪もなんとかならないか?」
「髪?」
篤志の言葉に、小首を傾げるレーナ。
「この星には、そんな髪の色をした人間はいない。さっきから視線が集まってるの、気にならないか?」
彼女の青く長い髪に、視線を投げて言った。レーナは臆面もなく言い返す。
「なんだ。美人だから見られてるんだと思ってたわ」
それもなくはないだろうけど、と篤志は思うが、言わないことにしておいた。彼女は自分の青い髪を摘まんで、毛先を弄ぶ。
「そんなこと言われても、地毛だしねー」
(やっぱり地毛でその色なのか。さすが異星人)
などと感心するが、問題はそこではない。篤志は提案してみる。
「染めるとか」
「髪染めって、髪が痛みそうで嫌なのよねー」
パサッと弄んでいた髪を背に払って、レーナはそろそろお馴染みになってきた悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「髪染めが必要なのは、あなたのほうじゃないの? 『灰かぶり』さん」
彼女がくすくすと笑う。う、と言葉に詰まる篤志。確かに、この白髪交じりの頭で登校したら目立つだろう。帰りにドラッグストアに寄って白髪染めを買っていこうか、と考える。
(ていうか、この歳で白髪染めかよ……)
なんだか、少し情けない気分になった。肩を落とす篤志。そんな彼の心情など知らぬとばかりに、レーナは、
「そんなことより、ご飯よ、ご飯。今日は、なに食べさせてくれるの?」
と、話題を引き戻す。篤志は気を取り直して、駅前の商店街に並ぶ店を見回した。
「安心して。豪華ディナーを奢れ、なんて言わないから。安いとこでいいわよ?」
レーナが言うが、女の子連れで牛丼屋、というわけにもいくまい。篤志にもそのくらいの見栄はある。結局、無難なところでファミレスに決めた。夕食には少し早い時間のおかげか、店内は比較的空いている。窓際の席に向かい合って座った。篤志は、メニューを眺めて自分の注文を決める。ふと前を見ると、レーナはメニューを眺めながら、なんだか困ったような顔をしていた。
「どうした?」
「……読めないのよ」
「自動翻訳があるんじゃないのか?」
そう尋ねるが、彼女は困ったような顔のまま首を振る。
「さすがに、視覚にまでは効果はないわ。効くのは、音声と電子ファイルくらいよ」
「じゃあ、メニュー、読んでやろうか?」
篤志はそう提案するが、再び彼女は首を振った。
「……いいわ。聞いても、どんな料理か、わかんなそうだし。写真見て決めるから」
レーナはそう答えて、真剣な面持ちでメニューとにらめっこを始める。ファミレスを選んだのは、正解だったようだ。メニューにデカデカと写真が載っている。暫くして、これ、と彼女が指差した料理と自分の分の料理、それとドリンクバーを二つ注文した。
「飲み物、取ってきてやるよ。なにがいい?」
「自分で好きなのを取ってくるの? ふーん。……じゃあ、甘いの」
子供のようなことを言う。篤志は自分の分のウーロン茶と、彼女にはメロンソーダを選んで持ってきた。
「……なんか、毒々しい色ね」
緑色の飲み物を見て、緑茶を思い出したのだろう。レーナは警戒したように言う。
「大丈夫だ。それは甘いから」
篤志が言ってやると、彼女は、ずずずっとストローに口を付けて啜った。こくこくと頷く。やがて料理が運ばれてきて、二人は食事を始めた。
「んー、想像してたのと違う味だけど、甘辛くて美味しいわね」
ハンバーグの照り焼きソースがお気に召したらしい。レーナは、パンをソースに浸して食べていた。
「ところで、これ、なんのお肉?」
「……なんの肉かわからないのに、よく食えるな」
呆れ半分、感心半分で篤志がそう言うと、レーナは平然とした顔で答える。
「だって、ここは食べ物を出すお店でしょ? だったら、食べられないものが出てくるはずないじゃない?」
それは道理だった。一応納得して、篤志は教えてやる。
「牛の肉だよ」
ひょっとしたら、牛と豚の合い挽き肉かもしれないが、そんなことを言っても混乱させるだけだろう。
「うしって、どんな動物?」
「四足で、白と黒の斑の毛で――あぁ、茶色いのもいるか。角が生えてて、モーって鳴く、乳を取ったり食用にしたりする家畜だ」
こんな説明でわかるのかな、と思いながら、篤志は説明した。レーナは小首を傾げて言う。
「ハラウみたいなのかしら?」
「ハラウ?」
「四足で、オレンジと黒の縞々の毛で、角が生えてて、マゥーって鳴く、乳を取ったり食用にしたりする家畜よ」
彼の説明と同じようなことを繰り返すレーナ。それがおかしくて、二人で顔を見合わせて吹き出した。
「それにしても、ナイフとフォークは普通に使えるんだな?」
「食器なんて、どこでも似たようなものよ」
彼女は篤志の問いに、そう答える。
「でも、これはそうそう見ないだろう?」
と、彼は箸で、自分の皿の上のしょうが焼きを摘まんでみせた。
「よく、そんな棒二本で食べられるわね。器用だわ」
「これが、この国の伝統的な食器なんだよ」
一応、周囲に配慮して、『どこの星』とか『この星の』という言葉は省略して話している。ちなみに、昨夜の夕食は篤志が買ってきてやったコンビニ弁当だったのだが、箸の使えない彼女にはフォークを出してやったのだ。そのときもレーナは、箸で弁当を食べる彼の様子を、手品を見る子供のように、目を丸くして見ていたのだった。
二人は、そんな他愛ない会話をしながら、食事を終える。
「食後にデザートも食べていい?」
「……まだ食うのか?」
「甘いものは別腹なのよ」
レーナは澄ました顔で言った。魔法を使うと体力を消耗するのでたくさん食べるのかと思っていたが、単に彼女が健啖家なだけらしい。篤志がそんな感想を抱いていると、その沈黙を金銭的な理由で渋っている為だと勘違いしたのか、彼女はテーブルの上に身を乗り出して、こんなことを言い出した。
「じゃあ、あなたのお願いっていうの、あれ、今聞いてあげるから」
それは、元々服を買う交換条件だったのだから、取り引きになっていない。それに、こんなところで話すことでもない、と思ったのだが、まぁ、いいか、と思い直した。周囲に聞かれたとしても、ゲームの話でもしていると思われるだけだろう。
「それじゃ、とりあえず、お願いの内容だけでも聞いておいてもらおうかな」
「ん。……あ、エッチなお願いは程度によるからね?」
(……ダメじゃないんだ。程度によるって、どの程度までならOKなんだろう?)
いやいや、と篤志は頭を振る。彼の頼みはそんなことではない。
「その前に一つ、確認したいんだけど……。こいつ、魔装機として使えないかな?」
こいつ、と包帯を巻いた右手を指す。勿論、指しているのは『魔人血晶』だ。レーナは軽く眼を見開いた。
「……面白いこと考えるのね。……んー、そうね。元々、人間を魔法兵器に変える為のものだから、魔法を使えるように、魔装機の機能も内包してると思うけど。で、そんなこと聞くってことは――」
「ああ。魔法を教えて欲しい」
篤志はレーナの青い瞳を真っ直ぐに見て、言った。彼女はくるくるとグラスの中のストローを弄びながら思案している様子だ。
「連邦法では、その星の文明レベルを超える技術をそこの住人に伝えてはいけない、ってことになってるんだけど……、でも、あなたのことは、もう最初から巻き込んじゃってるし、いろんなこと話しちゃったし、ご飯食べさせてもらってるし、服も買ってもらったし……、ん。いいわよ」
公安局監査官という公務員的な肩書きのわりに、法の遵守に対する姿勢がずいぶんアバウトだった。
(ていうか、法律を破らせるには、えらく安い賄賂だったな……)
なんだか少し申し訳なくなる。篤志はせめてものお礼だと思い、
「食後のデザート、食べていいぞ」
と言った。レーナは無邪気に喜ぶ。
「ホント? ありがと。じゃあ、これ」
とストロベリーパフェの写真を指差した。それを注文してやる。彼女は運ばれてきたパフェを幸せそうな笑顔でぺろりと平らげた。
ファミレスを出て、帰途に着く。食事をしている間に、すっかり日が暮れていた。レーナは通りに並ぶ店々のショーウインドウを覗き込みながら、ゆっくりと歩いている。なにかまだ欲しいものがあるなら、もう少しくらい買ってやってもいいかな、などと思いながら、篤志は彼女の隣を歩いていた。すっと、彼女が身を寄せてくる。
「なんだ? なんか欲しいものでも――」
「尾けられてるわ」
レーナが小声で言った。反射的に振り向きそうになるのを、堪える。
「ショーウインドウを見る振りをして、眼だけで後ろを確認して」
篤志が言われた通りにしてみると、相手はすぐにわかった。金髪を短く刈り込み、いかにも兵隊やっていますといわんばかりの筋骨隆々とした外国人風の男が、彼らから少し離れたところで、なにげない様子を装ってあらぬ方向を見ながら立ち止まっている。服装はごく当たり前のジャケットにスラックスだったが、全く似合っていない。
「……うわー、バレバレだなぁ」
なんだかおかしくなって、彼は笑いを堪えながらレーナに囁いた。対照的に、彼女は真剣な声音で囁き返す。
「目立たないように変装して街を歩いて探索する、くらいの知恵はあったみたいね」
「……いや、目立ってるぞ、むちゃくちゃ」
そもそも、こんな街では金髪の外国人風の人相自体が珍しいのだ。
(いや、それを言ったら、こっちはもっと目立ってるか)
篤志は、隣のレーナの青いロングへアに視線を走らせる。こんなに目立つ異国風の顔立ちの少女が、半日もショッピングモール内を歩き回っていたのだ。見付からないほうがどうかしている。さすがに油断し過ぎだった。
不自然でない程度の間を置いて、二人は再び歩き出す。篤志は小声で尋ねてみた。
「どうする?」
「向こうも、人通りの多いところでは仕掛けてこないでしょ。だからといって、このまま真っ直ぐ帰るわけにはいかないわね。どこかで撒かないと」
そうしているうちにも、商店街の終わりが近付いてくる。住宅地に入ってしまえば、人通りも格段に減るだろう。なんとか、この商店街を抜ける前に撒いてしまいたかった。
「アッシュ、次の細い脇道に入るわよ」
「え? でも、人通りがなくなると――」
「いいから。……走って!」
レーナが彼の手を掴んで、路地裏に飛び込む。篤志はこんなときだというのに、その手の柔らかな感触にドキッとした。いや、こんなときだから? 促されるまま走る。そのまま路地裏を抜けて反対側の通りに向かうのかと思いきや、路地の中程でレーナが急停止した。たたらを踏んで止まった篤志を路地裏の壁に押し付けるようにして、抱き付いてくる。
「な、なにを――」
「『不可視結界』」
レーナが呟くと同時に、路地裏に尾行者が飛び込んできた。そのまま、こちらに駆け寄ってくる。
「レ――」
「しっ」
彼女の名前を呼びかけた篤志の唇に、レーナの人差し指が押し付けられた。尾行者が迫る。彼女と密着している身体が熱い。心臓がドキドキしている。篤志には、尾行者が迫っているからドキドキしているのか、それとも、彼女と密着しているからドキドキしているのか、どちらだかわからなかった。しかし、尾行者はそのまま彼らの前を通り過ぎ、反対側の通りに出ると左右を見回してあらぬ方向へと駆けていってしまう。
「……やりすごせたみたいね」
そう言って、レーナが身体を離した。
「……なにしたんだ? あいつ、俺たちが見えてないみたいだったけど」
「不可視結界を最小半径で張ったの。窮屈でごめんなさいね」
「不可視結界?」
「説明は後。今のうちに早く帰りましょ」
レーナは篤志の手を引いて、元の商店街に出ると、そのまま、彼のアパートへの帰路を歩き出す。繋いだてのひらが、温かかった。