第二章‐4
「倉嶋ー、いるー?」
ドアの向こうから聞こえてきたその声は、クラス委員、蒲郡紫子のものだった。
「――って、委員長!?」
「委員長って言うなー!」
いつもの両手を腰に当てたポーズが、篤志の脳裏に浮かぶ。
「――びっくりしたわ」
呟くレーナに向かって、篤志は口の前に人差し指を立てて声を立てないよう促した。思わず大声を上げてしまったので、今さら居留守は使えない。小声で言う。
「隠れて」
「?」
疑問符を浮かべながらも、彼女は素直にごそごそとベッドの下に潜り込んだ。
(いや、そのベタな隠れ場所はどうなんだ?)
思いながらも、立ち上がって玄関に向かう。ドアを開けると、そこには想像した通りのポーズで紫子が立っていた。篤志は、掌を見せないように右手を軽く握る。
「どうした、委員長? ていうか、どうしてここが?」
彼女に住所を教えた覚えはない。
「だから、委員長って言うな。どうした、じゃないわよ。倉嶋、あんた、今日、無断欠席したでしょう?」
あ。
「……忘れてた」
今日は土曜日。半日とはいえ、学校があったのだ。昨晩からいろいろ有り過ぎたせいで、学校のことなど本当にすっかり頭から抜け落ちていた。
「忘れてた、って、あんたねぇ……」
紫子が呆れたような声を上げて、肩を落とす。
「どうせまた、内職に夢中になって徹夜でもしてたんでしょう? って、あんた、なんかやつれてない?」
白髪による印象で、そう見えるのだろう。彼女は眉を寄せて、下から覗き込むように顔を近付けてくる。篤志は顔を引いて、頭がドアの作る影の中に入るようにしながら、左手を振って誤魔化した。
「まぁ、そんなとこだ。疲れてるんだよ」
紫子は、ふぅっと溜め息を吐く。
「たいがいにしときなさいよ? 身体壊したら、元も子もないでしょう? ……ともかく、無断欠席とか、やめてよね。ホントに問題児なんだから。住所は、先生に聞いてきたのよ」
個人情報の漏洩だった。
「なに? 心配して、わざわざ来てくれたの?」
なにげなく篤志が問い掛ける。すると、紫子は両手を腰に当てたまま、呆れた、というような表情を作った。
「自惚れないでよね。あんたのことを心配なんかするわけないでしょう?」
部屋の中から、くすくすという押し殺した笑い声が聞こえる。篤志はビクッとして、背後に意識を向けてしまった。
「どうかした?」
「いえいえ、なんでもないデスよ? 紫子サン」
ぎこちない喋り方になってしまう。
「えーと、それではどういったご用件でしょう?」
何故か敬語だった。
「現国の教科書よ」
「は?」
「昨日の放課後、現国の教科書、取り上げたまま返してなかったじゃない? 月曜は現国の授業あるから」
と、紫子は鞄から現国の教科書を取り出して、ぶっきらぼうに突き出す。篤志はそれを左手で受け取った。
「そんなの、それこそ月曜でよかったのに」
「ひょっとして、万が一、そんなことはないと思うけど、もしかしたら、予習するのに必要かと思ったのよ」
酷い言われようだったが、確かに、現国の予習などするつもりはなかったので、反論は出来ない。
「それで、わざわざ持ってきてくれたのか? サンキュな、紫子サン」
素直に礼を言っておく。紫子は、鞄からさらに数枚の紙束を取り出した。
「それから、これ。今日の授業のノートのコピー」
ぐいっと篤志の胸元にコピーの束を押し付ける。慌てて、彼は教科書を持った左手でそれを押さえた。
「倉嶋、あんた、右利きよね? 右手、どうかしたの?」
しまった。少し不自然だったか。
「どうもしてないけど?」
篤志はとぼけて、掌を見せないようにしながら、教科書とコピーの束を右手に持ち替えてみせる。
「それにしても、わざわざノートのコピーまでしてくれたのか?」
誤魔化しがてらそう言うと、紫子はそっぽを向いた。
「どうせ、あんたは授業に出てても内職してて聞いてないんだから、要らないかとも思ったんだけどね」
「いや、聞くべき授業はちゃんと聞いてるよ。重ね重ねサンキュー、紫子サン」
重ねて礼を言う。すると、紫子はそっぽを向いたまま言った。
「わたしはクラス委員として、クラスから落ちこぼれを出したくないだけなの!」
また部屋の中から、くすくすという押し殺した笑い声が聞こえてくる。篤志は、つい背後の気配を探ってしまった。
(頼むよ、レーナ。静かにしててくれ……)
「やっぱり、なんか変ね、あんた。……部屋に誰かいるの?」
挙動不審な彼に、なにか感じるものがあったのだろう。紫子が鋭いことを言って、篤志の脇から部屋の中を覗こうとした。
「なに言ってるのかな? 紫子サン。俺は一人暮らしだよ?」
篤志は、紫子の視線を遮るように身体をずらす。部屋に裸ワイシャツの異星人の少女がいるなどと知れたら、大変なことになる。この場合、バレて大変なのは、『異星人』のほうではなく、『裸ワイシャツ』のほうだった。それがバレたら、堅物の紫子のこと、平手打ちどころか鉄拳が飛んできかねない。
(げ!)
迂闊にも、今頃気付いたが、玄関にはレーナの履いていたミュールが置きっぱなしだった。昨晩、ベッドに寝かせる際に、脱がせて置いておいたのだ。篤志は、急いでそれを靴箱の下へ蹴り込んだ。
「……なにか隠してない? ちょっと部屋に上がらせてもらおうかしら」
紫子がそう言って、彼の脇をすり抜けて玄関に入ろうとする。篤志はドア枠に手をついて、彼女の進路を塞いだ。
「一人暮らしの男の部屋に女が一人で上がり込む、ってことが、どういうことかわかってるんだろうな? なにがあっても知らないぜ?」
咄嗟の機転で、そんな最近の過激な少女マンガにでも出てきそうな台詞を吐いてみる。これで、部屋の中への進入は防げるだろう。
「え?」
その台詞に、紫子は頬を赤らめて目を伏せると、大きな胸に押し付けるようにして、鞄を両手で抱き締める。
「いきなり、そんなこと言われても、わたしにも心の準備が――」
なんだか、予想とは違う、乙女のような反応をされてしまった。
「……委員長?」
こちらのほうが反応に困ってしまい、恐る恐る声を掛けてみる。すると、紫子は、はっとしたように顔を上げた。そして、いつもの両手を腰に当てたポーズと、怒ったような、呆れたような表情を作る。
「な、なに破廉恥なこと言ってるの! まったく、あんたはいつもいつも、そうやってふざけてばっかりなんだから! あと、委員長って言うな!」
すっかり、いつもの彼女だった。しかし、頬がまだ少し赤い。
「ともかく、元気ならそれでいいわ。じゃ、わたし帰るから」
早口でそう言って、紫子はくるりと踵を返した。肩までのストレートの黒髪が、ふわりと広がる。
「あ……、ああ」
篤志は紫子の豹変ぶりについていけず、言葉少なに頷いた。
「もう無断欠席なんかするんじゃないわよ。月曜は、ちゃんと学校来なさいよね!」
紫子は背を向けたままそう言い残して、通路をスタスタと足早に歩いていってしまう。その後姿を見送って、篤志は首を捻りながら玄関から中へ入った。ドアが閉まった後に、紫子が一度振り向いて、大きく息を吐いたことを、彼が知る由もない。
「可愛いわね。彼女?」
部屋の中のレーナは、もはやくすくす笑いを隠そうともしていなかった。
「そんなんじゃないよ。ただの腐れ縁の委員長」
言いながら、篤志はドアに鍵を掛ける。
「アッシュは、胸の大きい子がお好みなのかしら?」
どうやってか、玄関の様子を覗いていたらしい。
「いや、どっちかって言うと、小さいほうが――、って、なに言わせんだよ!」
「ふーん。巨乳より美乳派なのねー」
部屋に戻ると、レーナは床に寝そべって、ベッドの下で見付けたらしい本をパラパラと捲って――。
「うわわわわっ!」
篤志は慌ててその本を取り上げる。それを抱き締めて隠すように後ろを向いた。
「どこの星でも、男の子って同じねー」
レーナは笑いながら身を起こすと、床に座り直す。
「男子の聖域を荒らさないで下さい……」
思わず、丁寧語になってしまった。
「お姉さん、胸はあんまり大きくないけど、形はいいと思うのよねー。どう?」
と、レーナは両手で髪をかき上げるようなセクシーポーズを取ってみせる。
「からかわないで下さい……」
裸ワイシャツでそんなポーズを取られると、かなりきわどい。それこそ、今篤志が抱えている本のグラビアのようだ。生でそんなものを見てしまい、篤志は顔が、かぁっと熱くなるのを感じた。
「痛たたた……」
突然の声に振り向くと、レーナが脇腹を押さえている。篤志は本と教科書、コピーの束を投げ捨てて、急いで駆け寄った。
「大丈夫か?」
「……ちょっと、はしゃぎ過ぎたみたい。少し休ませてもらうわね」
そう言って、彼女はベッドによじ登り、横になる。そうは見えないので忘れかけていたが、怪我人なのだ。
「ああ、そうしとけ」
程なくして、レーナは寝息をたて始めた。篤志は彼女の額に手を当て、昨晩のように発熱していないか確認する。とりあえず、熱はないようだ。ひとまず安心して、篤志はベッド脇の椅子に座ると、右掌の紅い石を見下ろしながら何事かを考え込み始めた。