第一章‐1
キーボードの上を、十本の指が軽やかに踊る。
ノートブックのメンブレン式キーボードは打鍵音を立てない。静かに、素早く、そして正確にタイピングが続けられていた。キータッチに同期してディスプレイ上にアルファベットを刻んでいくカーソルは、左から右へ、そしてまた左へと滑るような速度で動いていく。それを追う眼球も、激しく左右に往復運動を繰り返していた。
それにしても、速い。いや、速いという以上に淀みがないのだ。
まるで、頭の中に既に完成したファイルが存在していて、それをただ指先から出力しているだけ、とでもいうかのような速度だった。
キーボードの上の十本の指が、さらに加速する。
静寂の世界の中、その速度はさらなる高みへと――。
「こぉら、倉嶋!」
突然降ってきた怒声に、滑らかに動いていた十本の指がビクリと止まる。
「いつまでやってる気? もうとっくに放課後よ?」
集中し過ぎてノートブックのディスプレイしか見えていなかった視界に、ゆっくりと周囲の景色が映り始めた。ぼんやりと首を巡らせる。帰り支度をしている者や、友人同士で連れ立って教室を出て行く者といった、ごく当たり前の放課後の教室の風景がそこにはあった。気付いてみると、放課後の教室はガヤガヤと騒がしい。先ほどまでの静寂は、どうやら自分の中にしかなかったようだ。
(集中すると周りが全く見えなくなるのは、よくない癖だな)
倉嶋篤志はそんなことを考えながら、眼鏡のアンダーリムを押し上げて位置を調節した。ようやく焦点の合った瞳で、ノートブックを隠す為に立ててあった現国の教科書を取り上げて声を掛けてきた人物を見上げる。
「なんだ。委員長か」
窓際の一番後ろという誰もが羨む机の脇に立っていたのは、クラス委員の女子生徒だった。定規で測ったように眉の高さと肩の高さで真っ直ぐ切り揃えたストレートの黒髪が、ザ・委員長という感じだ。
「委員長って言うな! わたしには蒲郡紫子って名前があるのよ!」
怒ったようにそう言って、彼女は両手を腰に当てて胸を張る。そんなポーズを取ると、元々大きな胸がより強調されて男子生徒の視線を集めるのだが、本人は気付いていないのかもしれない。
「わざわざフルネームで名乗らなくても知ってるよ。それで、なにか用か? 蒲ごお、り……紫子サン」
名前を呼んでいる途中で睨まれ、篤志も結局、彼女のフルネームを口にしてしまう。彼女は蒲郡という自分の姓が気に入っていないらしく、友人たちには下の名前で呼ばせていた。なにか嫌な思い出でもあるのかもしれない。
(小学生の頃、男子に『ガマガエル』とかあだ名を付けられてからかわれてたとか、な)
それはいかにもありそうだ、と篤志は思った。子供って残酷だからなぁ、などと誰もがそうであるように自分もかつては子供だったのを忘れたようなことを考える。
「なにか用か、じゃないわよ! あんたねぇ、内職もいい加減にしなさいよ? 先生だって気付いてるわよ、絶対」
普通、学生が『内職』と言う場合は、試験対策等の為に授業とは別の科目を勝手に自習することを指すが、篤志の場合は言葉通りの意味だ。彼は企業から委託されてプログラミングを請け負う、アルバイトのプログラマーだった。
「中学までとは違うんだからね? うかうかしてると、置いてかれちゃうんだから」
篤志としては、自分の学力に合ったレベルの高校を選んだだけなのであまり実感はなかったが、この高校は近隣の公立では随一の進学校だ。彼女の言うことは正論だった。
「わかってる?」
紫子は両手を腰に当てたまま前屈みになって、椅子に座った篤志に、ずいっと顔を寄せてくる。すると、元々大きな胸が重力に引かれてさらに強調された。セーラー服の襟元から胸の谷間が見えそうになり、篤志は慌てて眼を逸らす。
同じ中学からこの高校に進学した数少ない同級生というよしみか、紫子は気安い。だが篤志は、その距離感の近さが少し苦手だった。
確かに、中学でも三年間のうち二年間同じクラスだった、と記憶している。そのどちらでも彼女はクラス委員を務めていた、という覚えがあった。だから、つい『委員長』と呼んでしまうのだ。それにしても、中学時代には彼女とそれほど親しく話していた記憶はない、ような気がする。しかし、『倉嶋』と『蒲郡』で出席番号順に並ぶと隣同士になることはよくあった、かもしれない。つい先日の入学式でも隣に彼女が座っていた、はずだ。……だいたい、こう曖昧な文末が続くこと自体、自分が蒲郡紫子という存在をあまり意識していなかった証拠ではないか、と篤志は思う。
「ちゃんと聞いてるの!?」
眼を逸らした篤志を、話を聞く気がない為だと勘違いしたらしい紫子の語調が強くなった。丸めた彼の現国の教科書を篤志の胸元に突き付けるようにして、さらに、ずずいっと顔を寄せてくる。綺麗なストレートの黒髪が、さらりと肩から流れ落ちた。篤志は、それに気圧されるように顔を引いて仰け反る。両手を肩の高さに上げて、降参のポーズを取った。愛想笑いを浮かべて返事をする。
「はいはい。聞いてますよ、紫子サン」
「まったく、あんたみたいな問題児がクラスにいると、手が掛かってしょうがないわ!」
紫子は腰を伸ばして直立姿勢に戻った。再び両手を腰に当てる。さらに、お説教のときにいつも見せる、怒ったような、呆れたような表情を作った。そうして、本格的にお説教を始めてしまった彼女に生返事をしながら、篤志はノートブックや、なにも書いていない真っ白な現国のノート、筆記用具等を鞄に仕舞う。ちなみにノートブックは、ほとんど無意識的な手順で書きかけのスクリプトファイルを保存してテキストを記述する為のエディターを終了し、スリープモードに入れてある。机の中の教科書やノートもまとめて鞄に放り込むと、彼は椅子から立ち上がった。
(なんでこう、委員長は、俺に突っかかってくるかな……?)
確かに、紫子はややきつめの顔立ちだが美人の部類に入るし、篤志とて美人とお話が出来るのはやぶさかではない。しかし、その内容が毎回お説教で、その結果、クラス中の注目を集めてしまうことになるのは勘弁して欲しかった。目立つのは嫌いなのだ。しかし、お説教を食らうのが嫌ならば、授業中にプログラミングを行うなどという暴挙をしなければいいのだが、彼はその選択肢を選ばない。これでも一応、授業の内容とアルバイトとを天秤にかけて量っているのだ。まだ続いているお説教を聞き流し、こういうときはさっさと逃げるに限る、と紫子の隣をすり抜けた。
「じゃ、俺は、これで」
「だから、もう少し真面目に――、って、ちょっと! どこ行く気!?」
歩き出す篤志を、お説教を中断して紫子が呼び止める。
「どこ、って帰るんだよ。もうとっくに放課後なんだろ?」
彼は首だけで振り返って答えると、再び教室のドアに向かった。
「まだ話は終わって――!」
「続きは、また明日な。委員長」
今度は振り返りもせずに、手をひらひらと振りながら歩み去る。
「あ、うん。また明日」
反射的に素に戻って、別れの挨拶を返してしまう紫子。その隙に篤志が廊下に出ると、一瞬間を置いて紫子の怒声が響き渡った。
「委員長って言うなーっ!!」