序章‐1
夜の空を、風を切って飛ぶ。頭上には満天の星、眼下には街の灯りが地上の星のように瞬いていた。ビュウビュウと耳元で風切り音が鳴っている。
しかし、彼女には、そんな飛翔の爽快感を味わっているような余裕はなかった。後方から彼女を追って飛んでくる一団から放たれる光弾をかわす為、ランダムに上下左右に身体を振る。もう、ずいぶん長い距離を逃げてきたというのに、彼女を追う十人ほどの一団は諦めることなく、しつこく追い縋ってきていた。彼我の距離は百メートル程度だろうか。その距離は縮まることはなかったが、広げることも出来なかった。時折、拳大のその光弾が剥き出しの手足を掠める。転んで擦り剥いたときのような痛みが走った。視線だけで確認すると、実際に擦過傷が出来て、血がにじんでいる。怪我とも言えないような負傷だったが、それを見て、彼女は、事態の深刻性を改めて思い知った。
こんなドジを踏んだのは久しぶりだ、と彼女は思う。ひょっとすると、初めてこの仕事に就いたときにやらかした大きなミス以来かもしれない。
ふと、そんなことに意識を取られたのが悪かったのか。後方の一団から放たれた光弾の一発が、彼女の脇腹を直撃していた。
「っ!!」
衝撃にバランスを崩す。そして、灯りが頼りなく点々と灯るだけの地上の暗闇へと、真っ逆さまに落ちていった。
「落ちたぞ!」
「探せ!」
彼女を追っていた一団が、そう口々に言いながら、彼女が落下した空域へと殺到する。そこに、別方向から新たに三人の人影が飛来した。
「これは、いったい何事ですか!?」
新たに現れた三人の先頭を、黄金色の長い髪をなびかせて飛んできた少女が、最初の一団を一喝する。続けて、彼女に追随して飛んできた、銀髪おかっぱ頭、黒いロングスカートの少女に指示を出した。
「ストラビニスカヤ伍長、至急、不可視結界を展開しなさい」
「了解。『インヴィジブル・スフィア』、展開します」
呼び掛けられた銀髪の少女が、碧眼を感情に揺らすこともなく、淡々とした口調でそれに答える。彼女らと最初の一団の周囲に、一瞬、青白い光が閃いた。だがそれだけで、それ以上のことはなにも起こらない。しかし、もしも彼らと彼女らの様子を離れたところから見ていた者がいたとしたら、その者からは、彼らと彼女らの姿が一瞬にして夜空に溶けるように消え失せたように見えたことだろう。
「なんだ、貴様らは!?」
最初の一団の内の一人が、声を荒らげる。金髪の少女がそれに応じて、鞘に納められたままの剣を掲げた。その鍔元に身分証が立体映像で浮かび上がる。
「陸軍第六辺境警備師団第二連隊第一大隊第八小隊小隊長、エリカ=デ・ラ・メア=ブラウスパーダ少尉です。貴方がたの所属と、当空域を飛行している目的を申告して下さい」
後ろの二人もそうだが、エリカと名乗ったその金髪の少女は、その手に掲げている剣以外はとても軍人には見えなかった。服装も、清潔な印象を与える白いブラウスに、活動的なサブリナパンツ、と至って普通だ。だが、最初の一団は、その名乗りを特に不審がることもない様子だった。再び、先ほど声を上げた男が口を開く。
「陸軍の辺境警備隊ごときが、邪魔をするな! 任務中だ!」
その男の言葉に、彼の後ろにずらりと並んでいた一団が、一斉にアサルトライフルのような銃器を構えた。見ると、彼らは一様に、灰色を基調とした都市迷彩の軍服のような衣服に身を包んでいる。
「……フィアリス軍曹、射撃準備」
エリカと名乗った少女が、斜め後方に控える、赤毛のショートカットを頭の右上で一つ括りにした、デニムのミニスカート姿の少女に声を掛けた。
「あいあい、まぁむ。射撃モードぉ」
それに答えて、赤毛の少女が、背負っていた長大な銃身を持つアンチマテリアルライフルのような銃器を構える。すると、ガシャガシャッと音を立てて、その長い銃身が先端と中央部分から花弁のように開いてしまった。銃器にしては、奇妙な形だ。しかし、人数で勝るはずの軍服の一団は、それを見て少なからず怯んだようだった。エリカが、静かな怒りにまなじりを吊り上げ、金色の瞳で軍服の一団を睨みつける。
「こちらも、これが任務です。出来れば、同胞に銃を向けたくはありません。貴方がたの所属と、当空域を飛行している目的を申告しなさい」
先ほどの言葉を、再度繰り返した。軍服の一団の先頭にいた男が歯噛みして、唸るように言う。
「海軍第七艦隊、戦艦ドラスネイル所属、第一〇七特務部隊だ。任務内容は、貴様らに話せるようなものではない」
それを聞いて、エリカは掲げていた剣を腰の剣帯に戻すと、左手を軽く上げた。彼女の左後方の赤毛の少女が、くりくりした青い目を細めて、にぱぁっと笑うと、花のような奇妙な銃器を下ろす。エリカが海軍兵士を名乗った男に向けて告げた。
「貴方がたの行為は、連邦法第百三条第二項に抵触しています。飛行している姿を現地住民に目撃されたら、どうなさるおつもりですか?」
「貴様らの知ったことではない!」
海軍兵士の男が言う。その言葉に触発され、エリカは金の瞳を怒りに燃え上がらせた。
「それを未然に防ぐのが、私どもの任務です! 飛行している目的が申告出来ないと仰るのなら、なおさらです! 即刻、この空域から退去なさい!!」
エリカの強い言葉に、海軍兵士の男は暫く唸り声を上げていたが、結局、肩を怒らせながら背を向ける。
「撤収だ。上の指示を仰ぐ」
そう、配下の兵士たちに言った。
「この件は、上から厳重に抗議してもらうからな!」
頭に血が上った様子の海軍兵士の男が、そんな捨て台詞めいた言葉を投げ付けてくるが、エリカは対照的に涼しい顔で応じる。
「ご随意に。勿論、こちらも、この件は上に報告させて頂きます」
海軍兵士の男は背を向けたまま、またひとしきり唸った。それを見て、エリカは少し溜飲を下げる。
「ストラビニスカヤ伍長、不可視結界の解除を。海軍の皆さんがお帰りです」
「了解。結界、解除します」
エリカの指示に、銀髪碧眼の少女が答えた。特になにかした様子はなかったが、その言葉で彼らを閉じ込めていた結界が解除されたのだろう。海軍兵士の男はもうなにも言わず、配下の兵士たちを連れて元来た方向へと飛び去った。エリカは、その一団の後姿が豆粒のように小さくなって見えなくなるまで見守る。念の為、もう少し高度を上げて、さらに暫し佇んだ。いつの間にか、こめかみの左右から青白い光のアンテナのようなものを生やしていた銀髪の少女が口を開く。
「海軍第一〇七特務部隊、洋上に出ました。進路上の地上で、騒乱が発生している様子はありません」
その報告を聞いて、エリカはようやく、ほっと息を吐き、肩の力を抜いた。この地に赴任してきてから二年になるが、今回のような揉め事は初めての体験だ。
(海軍のほうで、なにか大きなトラブルでもあったのかしら……)
エリカはそんなことを思うが、陸軍と海軍とでは組織が違う。その内情は、容易には窺い知れないだろう。
(余計な詮索は無用ですね。私たちは、私たちの任務をこなすだけです)
そう思い直し、エリカは表情を弛めて二人の部下のほうに振り向いた。
「では、任務完了ですね。アリーセ、サーニャ、帰りましょう」
「いえす、まぁむ」
「了解」
エリカの言葉に、アリーセ、サーニャと呼ばれた赤毛と銀髪の部下が返事をする。アリーセと呼ばれた赤毛の少女が、隣の銀髪の同僚に声を掛けた。
「お腹空いたねぇ、サーニャぁ」
その言葉に同意するように、サーニャと呼ばれた銀髪の少女がこくりと頷く。エリカは軽く微笑むと言った。
「帰って、軽い夜食でも作りましょうか」
「わぁい!」
表情豊かに笑うアリーセと、表情の変わらないサーニャの様子は対照的だ。エリカは、そんな二人を連れて、自分たちの駐留基地の方角へ進路を取った。