第一章『優しき獣』(4)
そいつ自体が《疾風》だったのだと思わざるを得ない、そんな突如の出現。
「…………何してんだ、てめぇ」
「ここまでだよ、遼平」
その大きな手で、俺の腕を横から握った翼。全く痛くはないのに……指に力が入らねぇ。
気配が……俺の耳が音を感じなかった、この男は何者だ? どんな速さで……。
そして俺を真っ直ぐ見つめる瞳は、決して怒りや責めの感情ではなく、哀しみと俺の知らない何かの色。その感情は……何だ?
「殺す必要は無いよ、彼らには俺がもう二度とこんな真似をしないように言っておくから。だから、ね?」
「知らねぇぞ……その甘さが、後にてめぇの仲間を傷つけたとしても」
「大丈夫、大丈夫だよ。その時は俺が、護る」
随分と呑気な笑顔をされて、なんかやる気が喪失したので男の首を放す。とっくに恐怖で失神していた男を、わざわざ翼は丁寧に路地に寝かせた。
「鈴ちゃんと拓君が慌てて俺のところに来たから何事かと思って焦ったよ〜。えーっと……コレ、どうしたの?」
その口調はいつもの翼に戻ってる。苦笑いで、呻きながらアスファルトに這いつくばってジタバタしている男どもを指差す。
「……」
説明するのは容易、理解されるのは困難。俺が『蒼波』の名を口にすればいいだけのこと。
「遼平、この人達に何したの? 何か変……」
「そ、れは……」
なんでだ、なんで言えない? ただ名乗れば、それでいいのに。それで、俺はまた独りになれるのに。
「……っ!?」
いきなり目眩がして、立っていられなくなる。まだ『呪縛波』の反動が残ってたのか……くそっ、そろそろ《音》の効果が切れるのに……!
「遼平っ? どうし――――」
「翼、後ろっっ!」
不完全な呪縛は、既に効果を切らした。男どもは立ち上がって、背中が無防備な翼に跳びかかる!
その瞬間、何かの光を見た気がした。銀の煌めき、獣の瞳……?
地面に膝をついた俺の前で、宙に舞っていた人間の身体が落ちていく。もう、微動だにしない……だが、死んでいるわけではない。
「グループ『フレイム』、和平条約を結んでいた俺達『スカイ』に敵意をもって攻撃してきたと確認し、和平を破棄をしたものと見、ここから排除するよ」
翼はその場から全く動いていないのに、動いていないように《見えた》のに、明らかにあいつらは翼にやられたんだ。何故なら翼の手が銀色に……長袖の部分から鋭いクローが見えていたから。
鋭利なかぎ爪は闇の中で銀の光を帯び、グループ『フレイム』に振り向いた瞳は獣の怒り。それだけですくんでしまう、男ども。
「遼平っ、翼!」
駆けつけてきた時雨は、場の状況を瞬時に把握して薙刀を構える。だが、時雨が薙刀を使用する必要は無かった。
ふっと俺の身体が持ち上げられ、瞬間移動のような素早さで時雨のもとまで運ばれる。翼が、「ちょっと遼平をよろしくね」などとやっぱり呑気な言葉を残して、俺は時雨に背中から抱かれる体勢に。
「……俺、少し怒ってるんだ。逃げたほうがいい」
言葉だけ聞いたら、バカバカしいくらい間抜けなセリフだろう。だがその声色が、翼の発する《気》が、口を噤ませる。その背に感じるのは恐怖じゃない、驚怖。
怯えて逃げていく奴が半数、狂ったように襲いかかってくる奴が半分。翼は狭い路地に両手を大きく開いて、かぎ爪の部分を両壁に引っかけ、全体重をかけて手足をアスファルトから弾く反動で、消える。
長身の人間には手の甲で壁へ叩きつけ、殴りかかってきた奴の拳はクローで受け止め、片方の拳で殴り飛ばすっ! 小柄な俺と大差ない俊敏さで、圧倒的な力の差。俺とは違う、強い力。
「時雨……翼は一体……」
「冥府の門番という名を冠した、スカイ最強の人物です。彼が負けたのを見たことがありません」
あぁ、鈴も何か同じようなこと言ってたな。どっかの門番とか……。
「じゃあ、普段は呑気な顔してるくせに何人も殺してるんじゃねーか」
そのくせ俺を止めやがったのか、アイツは? ムカつく野郎だな。
「違います、遼平。彼の《冥府の門番》という名は、《味方も敵さえも冥府に逝かせない》という意味なのです。生者に、その門をくぐらせない番人」
「殺さないってのか……? この裏社会でっ?」
「私達スカイは、《秩序と平安》を求めるグループですから」
時雨の笑顔の言葉が終わったと同時に、翼は最後の一人を昏倒させていた。
誰一人として、血を流してはいなかった。
――――それは俺には無い《強さ》。
――――それは俺とは違う《力》。
――――それは、俺が手に出来ない《光》。
「ごめんね……もう、来ないでね……」
自分が気絶させた相手に、聞こえないのをわかっていて、それでもアイツは謝っている。
なんでそんな悲しそうな顔をする?
なんで泣きそうな瞳になる?
なんで謝る?
――――俺には、わからねぇ。
振り向いて俺達の近くへ帰ってきた翼は、またあの呑気な笑顔に戻ってやがった。クローも、長袖に隠して。
「遼平、ケガとかしてない? ごめん、俺が用事頼んだりしたから……」
「なんでだ……!」
俯き、拳が勝手に震える。俺の声は完全に憤っていた。
「あっ、ごめん、ホントにごめん! でも、あれには意味があって――」
「違ぇよっ! なんでてめぇはそこまで人間に甘いのかって訊いてんだよ!!」
言葉と同時に腹部へ突き出した拳を、翼はあえて避けなかった。わざと俺に、殴らせた。俺の感情を、黙って受け止めた。
「なんでだよ……俺は嫌いだ、大嫌いだ、人間なんか……!」
「……遼平は、人間が嫌い? 俺達も嫌い?」
「っ、そうだ、お前らなんか……大嫌いだっ…………俺は……俺はっっ」
なんでだよ、なんで頭がぐちゃぐちゃになっていくんだよ……なんでこんなに寒いんだよ……なんで俺は、生きてるんだよ……。
「大丈夫、大丈夫だよ、俺達は遼平が大好きだから」
何言ってんだよ、コイツ……俺は『嫌いだ』って言ったんだよ……気安く頭に手を乗せんじゃねぇよ……。
今更気付いた。こいつらは俺に、同じ目線で語りかけてきていたことを。こんなのは何年ぶりだ? 俺を《人間》として接してきたヤツは。
殴られ、貶され、蹴られ、裂かれて、何度も殺されかけた。俺の唯一の肉親は、この身体に癒えることない多くの傷を刻んだ。《俺》という存在は、誰からも望まれなかった。当然、俺を好む人間などいるわけがなかった。
なのに、なのに……お前ら何なんだよ。
「怖くないんだよ、人間は。だから、怯えないで」
「俺が怯えてるだと!? ふざけんな、俺は人間が憎いだけで……!」
「でも、鈴ちゃんと拓君を逃がしてくれたよね? 俺が襲われそうだった時とっさに呼んでくれたよね? それに……言ったよね、『知らないぞ、後にお前の仲間を傷つけても』って。遼平は優しい人じゃん」
「なっ、違……っ」
違う……違う、違う違う違う!!
俺は優しくなんかない! 『優しさ』なんて知らねぇんだから! 優しくされたことなんか、無いから……。
もう身体に異常が無いのに、今度は心がマヒし始める。両膝をアスファルトについて、音を拒絶したくて耳を両手で塞ぐ。
「違……ちが……お、れは……『優しさ』なんて知らねぇ……ニンゲンが……!!」
「大丈夫、大丈夫だよ。俺達は遼平を独りにしないし、憎んだりしない。だから無理しないで? 同じ種族を憎むことは、とっても辛いことだから。『優しさ』がわからないのなら、俺達が必ず教えてあげる。ね?」
時雨が俺の両肩をしっかり掴んで、耳を塞いでいた俺の両手は翼に握られて力を無くしていく。
温かい…………人間の身体って、こんなに温かいモンだったのか……。もう、思い出せねぇよ……。
「俺は、俺の名は――――――――《蒼波》遼平……」
もう耐えられなかったのだと思う。こいつらを騙したような気がしていたから。
この名を口にすれば、人間は俺を独りにして去っていく。異常な血と力を恐れて。でも、もう、いいんだ。
こいつらには充分世話になった。何故か、お前らには嘘つきたくねぇんだ。
だから、お別れだ。