追記『LOVE COUNTER』(2)
◆ ◆ ◆
「んー、そもそも『ホワイトデー』って何なんやろなァ? 何をお返しにするべきなんやろか?」
「僕は人から貰ったことないし……真君はバレンタインにチョコを貰ったの、初めて?」
幼い子供達や営業のサラリーマンが慌ただしく目の前を走っていくのを見ながら、公園のベンチに腰掛けた二人は困っていた。憎たらしいほどに青い空の下で。
まだ記憶の日が浅い純也はともかく、真はコレが生まれて初めてなのだろうか。
「いや、義理でならいくつかあるけど。その時はあまり深く考えもせずに花とか返しとったからなァ」
「今回は深く考えて、悩んでるんだね」
「そ、そんな変な意味やないで!? ただ単に、『どんなモノで喜んでもらえるか』とか『何色が似合うのか』とか『なんて言えばエエのか』とかっ……、しょーもないコトまで一緒くたになって、もう自分でワケわからなくて……」
肘を膝に置き、俯いた顔を両手で覆って深呼吸のような大きなため息を落としてしまう真。彼の呻き声とため息が止まないのを見て、どこかが痛むのだろうかと純也はオロオロしてくる。
実際、純也は真の言う『変な意味』がわかっておらず、「真君は丁寧だねー」などとどこか的はずれな言葉と共に頷いていた。
「ねぇ真君、お菓子を貰ったわけだし、やっぱりお返しは食べられるモノじゃないかな? それと……ホワイトデーだから、白いモノなんじゃない?」
「あァ、それでホワイト言うんかァ。白い食品ねぇ…………何かエエ物ある?」
「僕なら――――『白米』が嬉しいなっ」
小さな手をぎゅっと握り拳にして、純也は真顔でそう宣言する。
それはちょっとどうなのだろう、と思いながら引きつり気味の微笑のまま「米、なん?」と尋ねれば「ご飯はとてもエネルギーになるしね!」と満面の笑みで返され、なんだか却下しにくくなってきた。
「あー、でも聞いたことあるなァ。昔の農村では、嫁をもらう百姓が相手の家に米を贈ってたって」
「そっか、この国の伝統なんだね! じゃあ白米で決まり?」
「う、うーん……今時の若い女性に米俵とか贈ってもエエもんかなァ? くぅ……社長、なんで女性と付き合う術は教えてくれなかったんですか……!」
心底悔しそうに真は膝を叩くが、反省が遅すぎたのは自分でもわかっている。今まで特に意識せずに女性と接していた、しっぺい返しなのだろうか。
一ヶ月も費やして考えているのに、ついには他人に相談までしたのに、答えのイメージすら出来ないのは何故なのか。一見すると、こんなにも簡単そうな問いなのに。
「……ワイは彼女に、何を贈りたい……?」
結局は、それだけのことなのに。
「でもさ、どっちかって言うと真君は【贈りたい】んじゃなくて【伝えたい】んじゃないかなぁ? 『あなたからの贈り物がとても嬉しかったです』って返事を」
ふと、自然に思いついたような純也の一言。そんな少年の小首を傾げた不思議そうな顔を向けられて、男は喉に言葉も呼吸さえも詰まってしまった。どこまでも無垢な青い瞳が、『違うの?』と問いかけてくる。
「そ、それはあかん! そんなコトを言えるわけがっ、」
「嬉しくなかったの?」
「うぅ、嬉しかったけど! 頭ん中真っ白になるくらい、めっさ嬉しかったけどっ!」
「ならそう伝えればいいのに」
何の策略も下心の欠片さえも無いのであろう少年の、ピュアすぎる平然さは続く。今更ながら真は(もしかしなくても人選ミス?)とか思い始めるが、大丈夫だ、中野区支部の部下達に【当たり】は無かったから。
このまま恥ずかしさで黙っていては余計に純也からの無邪気質問攻めに遭いそうなので、残り僅かな余力で彼は反撃を試みた。
「じゅ、純也は恋したことないから、そんな簡単に言えるんよっ?」
「あ、そうか。ごめん、何もわからないのに勝手なこと言って。……真君は今、恋してるんだね」
純也の優しい微笑みと遠慮皆無な一撃に、地球語ではない悲鳴をあげる真。カウンターを更に数倍にして返され、心だけで満身創痍だ。
「違っ、ちちち違いマスよ!? 恋と言うより恋慕っ? やなくて愛情!? ってどんどんヤバくなっとるがなァァ!!」などと昼下がりの公園で勝手に身悶えだす男がここに一人。
墓穴製作エネルギー、只今フルスロットル。
とうとう四苦八苦の末に七転八倒するという、奇跡の苦悩コンボを繰り出し始めた真に手を伸ばした純也は、何故か悲しそうな顔をしていた。
白く小さな指に掴まれた男の手首から、あまりにも呆気なく力が抜けていく。いつの間に身体を強張らせていたのか、自分でわからない。
「気になってたんだけど……手、ずっと震えてるよ? 何か不安? ……何かが、怖いの?」
純也が何を言っているのか理解できない、それが本音の半分。【自分が今まで震えていた】という事実にただただ驚愕しているのが、残りの本音。
見てわかるほどに震えていたのだから、よほど何かの感情が高ぶっているのだろう。それを純也は『不安・恐怖』と捉え、心配してきた。
「それは純也が恋とか言うから恥ずかしくて……ッ」
「『恥ずかしい』? 違うよ、真君の震えはソレとは違う。脈が苦しそうだし、発汗の様子もおかしい。何か、負の感情で苦しんでない……?」
心から真を気遣ってくる少年は、脈をとった手首の方の指に小さな両手を添える。純也の表情があまりに切なそうなので、そこでようやく、真は自分の乱心ぶりに気付くことが出来た。
しかし『負の感情』とは何だろうか……真自身が自覚していないのに、そこまで動揺するほどの感情は何だ?
「無理矢理に想いを押し込めてるような……なんだかまるで『好きになっちゃいけない』みたいな、変な感じがするよ、真君」
「あ……」
――――きっと、それこそが真実だ。どこまでも透明な少年の瞳で見えたのだから。
言われてみればすぐに気付くことで、あまりにも当たり前すぎて。納得と虚脱感に冷たく満たされ、ベンチに腰掛け直して真は光の無い眼ごと俯く。
過去を忘れて己の望みに走ろうとしている、身勝手すぎる自分が怖かったのだろう。その想いだけは抑えなければいけないという、葛藤に苦しんでいたのだろう。
そこに悩む必要性など、有りはしないのに。
恋だの愛だの、そんなモノ、悩み出した時から根本的に間違っていた。
誰かを好きに?
……よく見ろ、私怨だけで紅を求め続けたその穢らわしい手を。思い出せ、大切な人間を無惨に斬り殺された人々の悲痛と憎悪、その全てを背負う肩を。
それでも口に出来るのか、『誰かを愛する』と?
「……その通りやね、純也。有り得へん、それは絶対に有ってはならんこと。答えが見つからんのは当然のことやった、ワイは、人を愛する権利をとうの昔に捨ててたんやから」
寂しい笑顔を浮かべていきなりそう言い出した真に、純也は戸惑う。『有り得ない』とか『当然』とか『愛する権利』とか、何を根拠と理由にして彼がそんな結論を出してしまったのか、今の純也ではわかるはずもない。
それでも唯一わかるのは、目の前の男が酷く辛そうだということ。どうしようもなく、悲しそうだということ。
純也が戸惑いと感じ取ってしまった辛い感情で狼狽えているのを見て、真は上手く誤魔化さねばと咄嗟に思った。純然な善意のみで協力してくれた少年を傷つけるなど、あってはならない。
「え、っと……あのな純也、悪いのは全部ワイなんよ。ワイは昔、すごく悪いことをたくさんしてもうた。その時、多くの人達が傷ついて、悲しんで、不幸になった。――――だからそんな悪い人間が、愛したり、笑ったり、幸せになるなんてことは絶対に許されへんねや」
「簡単なお話や、わかるやろ?」と小さく微笑みながらも、少しだけ力をいれて純也の髪を撫でる。無理矢理押し当てているようにするのは、こちらの表情を見られたくないから。
過去の悪行、大罪の詳細はまだ少年に話せない。いつかは明かさねばならないが、純也に酷く嫌われて怖がられると思うと、切り出す勇気など湧くわけがなかった。
つまり、今の結論としては。無責任で失礼だけれど、断りの連絡を入れてもう二度と彼女とは会わない――そう明言しようとした口が半分開いた時。
「幸せに、しよう……?」
「純也?」
強引に髪を撫でられて首を下げたままだった純也の、囁くようなか細い音に気付いた。ベンチに座ったままの真と、立った姿勢で顔を正面に戻した純也の眼が合う。
いつになく毅然とした青い瞳で、少年は独りで何かに頷きながら。
「多くの人を不幸にしちゃったのなら、それよりももっともっと、たくさんの人を幸せにすればいいよ。悲しませてしまった分だけ、誰かを喜ばせればいい」
両拳を握り締めて真剣に訴えかけてくる彼に何と返せば良いのか、どんな顔を向ければ良いのかさえ、真は窮する。
感情は算数ではないのだと、人間は綺麗事だけでは満たされないのだと、まだこんなにもあどけない少年に言い放ちたくない。まだ、人間全てを無条件で好いているこの少年には。
ならば作り笑顔で曖昧に肯定しておいて上手く受け流せば良いのに、何故だろう、無表情のまま引きつった顔が整わない。慣れきってしまったはずの愛想笑いの仮面が、作れない。
純也の言葉が、あまりに心地良すぎた。いっそ無知なフリをして本気で浸ってしまいたい、その優しく甘い温もりに。
「あかんって、そんなの……。決して許されへんと、そんな妥協でこの罪は許さないと……ッ!」
その誓いが揺らぎそうで、見えない罪の枷が疼く。思考を埋め尽くし始めたのは血生臭い紅一色の世界なのに、時折フラッシュのように一瞬だけ、笑いかけてくる彼女が浮かんでしまう。
冷たい汗の流れ続ける顔を両手で覆っても、余計に心配しだして何度も「真君、真君」と呼びかけてくる純也。少年に悪意など一片も無いことがわかっているからこそ、『もう黙ってくれ』なんて口が裂けても言えなかった。
真の知る中で誰よりも優しく、穢れなく、それ故に純也は人間の世界に甘い。人の醜い面をまだあまりよく知らないのだろうし、出来ることならこれからも知ってほしくないと思う。
そんな純也の温かい言葉を【綺麗事】だと感じてしまった、荒んだ自分が嫌だった。真っ白な純也が、羨ましくてしょうがなかった。
これ以上甘い言葉をかけられたら、気が狂ってしまいそうだった。
「――――確かに許されないよ、許しようがないんだ、過ぎた不幸は決して埋め合わせ出来ないもの。だからこそ、未来のことを考えようよ? 真君の本当の想いを伝えることで、きっとユリエさんは不幸にはならないよね。これから先の不幸は、いくらでも補えるよね?」
予想に反して聞こえたのは、アルトでの重たく悲しそうな声。
ずっと真剣な表情だった純也の最後の問いだけは、答えを真に求めているように感じた。不安そうに眉を寄せて、どこかすがるような響きを込めて。
純也自身も薄々感付いているのだろうか、それが極めて困難だということを? 所詮は理想に過ぎないのかもしれないと?
……そうなのだとしたら、こう言うしかないではないか。真が選び取るべき言葉はコレしかない。
「せやな、努力すれば未来の不幸はきっと回避出来るな。誰かを幸せにすることも、きっと可能や。……ワイが愛することで彼女が幸せになれるなら、それが一番エエ」
コレも償いの一種なのかもしれない、と。
「そうだよねっ」と純也が至極嬉しそうな笑顔になったので、やはりコレで正解だったのだと確信した。
少年の期待を破るという【不幸】を回避し、望み通りの回答を述べて【幸せ】にさせる。言葉など、いくらでも偽れるから。こんな贖罪も悪くないと、純也の笑みを見て思った。
彼女のことをいくつか純也に話している内に、陽が暮れかかっていることに気付いて「長くなってごめん」と謝ってもう別れを述べようとした。待ち合わせ時間が近いのでそろそろ行かねばならない、と。
「純也、色々と協力してくれてホンマにありがとう。付け焼き刃やけど、これから一人を幸せに出来るかな?」
オレンジがかってきた陽を背にし、照れくさそうに笑ってみる。眼前に立つ純也の白銀の髪に橙色が注ぐので、その優しい笑顔と相まって綺麗な絵になりそうだ。
「違うよ真君、二人だよ。――――ユリエさんと真君、二人とも幸せになれるんだから」
本当に、綺麗だ。