第四章『風車』(1)
第四章『風車』
冷たいとか。
痛いとか。
怖いとか。
寂しいとか。
悲しいとか。
……そんなこと、感じなかったんだ。
ただ真っ白で。それだけ。
◆ ◆ ◆
意識が戻ると同時に、開く瞳。この感覚には慣れたけど、広がっていた光景は見慣れないモノだった。
古そうな、茶色い天井。曇り空でも、あの冷たい白壁でもない。寝かされた身体は、柔らかい何かの上に。
「目ぇ覚めたみたいだな?」
「……?」
突然だけど、聞いたことのある声。ゆっくりと顔を左に向けると、紺髪をした男の人が僕の近くの床に座り込んだ。
「……りょう……」
「だから、なんで俺の名前を途中で切るんだよ?」
あぐらをかいて髪を掻き上げるこの人は、この前僕を助けてくれた人。名前は確か、『蒼波遼平』。
あれ……?
「僕は……何?」
目の前の人の名前がわかるのに。僕の名前がわからない。そもそも、なんでココにいるんだっけ?
「……まだ後遺症が残ってんのか……」
僕の呟きに、声を低くする男の人……遼。どういう意味だろう、『後遺症』って?
「遼、僕は誰? なんでココにいるの??」
「お前は……お前の名前は、『純也』だ。思い出せるか、昨日まで獅子彦の病院にいたのを?」
えっと……あ、獅子彦先生はわかる。僕の治療をしてくれて……そうだ、僕は入院してたんだ。あれ? でも、なんで僕は入院してたの??
どうして……思い出せないの?
「あのさ、なんだかよく思い出せないんだ。僕、どうしたの?」
「…………」
僕と視線を逸らして、遼の顔が髪に隠れる。なんで? なんで言ってくれないの?
「今は……気にするな。悪い純也、でもまだ……まだ、今は……」
震えて弱まっていく声……遼……? 僕のせい? 遼が震えているのは、僕のせい?
「ごめん、やっぱり訊かない。もう、行くよ」
寝かされていたのはソファだったみたい。窓はカーテンで閉められているけど、明るい光が漏れているのを見ると今は昼なのだろう。掛けられていた毛布をたたんで、僕は立ち上がった。
「行くって、ドコにだよ!?」
何故か焦ったような遼の言葉に、僕も気付く。そうだ、ドコに行くというのだろう。何も思い出せないのに。ココが何処かもわからないのに。
「……遼、ココ、何処?」
「ココは、俺の家……アパートだ。杉並区にある。症状が落ち着いたから、お前は退院したんだ」
『症状』って……僕、何かの病気? そういえば、ずっとベッドに寝たきりだったっけ。そこで、確か……。
「あ……《約束》……」
「そうだ、《約束》したろ? だから、俺ンちに運んできた。とりあえずお前はココに居候だ」
「いいの……? だって僕、《化け物》で……!」
『約束』という単語を思い出した途端、色んなコトが記憶に蘇ってきた。惨劇、狂気、化け物、願い、そして《約束》……。
立ち上がった遼を見上げる僕の頭に手を置いて、その漆黒の瞳を細めて。哀しそうで、自虐的で、それでもふざけたような色。
「お前みてぇのが『化け物』なら、怖くねーよ。そうだな、お前にはココで――――」
僕が化け物であろうとなかろうと、遼にはどうでもいいことなんだ。そう、だよね……僕の存在は、もうじき消えるから……。
「――――っつーわけで、お前は家事をしろ。わかったか?」
「ふぇ? あ、ごめん、カジって何?」
「やっぱ知らねぇか……。じゃ、俺が後で教える。今はまだ休んでろ」
軽く押されるだけで、小さい僕の身体はソファに戻る。たたんだ毛布を投げられたのは、「寝てろ」という指示なのだろう。
それから何も言わず、部屋から出て行く遼。毛布を抱いてソファに座る僕が、一人っきり。
「ごめん……ごめんなさい……」
僕のせいだ。僕が勝手にあんな《約束》したから。だから遼は、嫌なのに僕を置かせてくれているんだ。化け物の、僕を……。
僕の雫は、毛布を濡らした。化け物は頭まで毛布を被り、静かに嗚咽を漏らしていた。