↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

『屋敷のものには触れるな』と言われたので、白い結婚の三年間、何にも触れずに屋敷ごと買い取りました

掲載日:2026/10/23

「この屋敷のものには、一切触れるな」

初夜に、夫はそう言った。


ローデン侯爵ライナルト。二十八歳。金色の髪に、整った顔。結婚式の誓いのキスは、私の頬の三センチ手前で止まっていた。

「これは白い結婚だ。君の持参金は、屋敷の維持に使う。だが、君を妻として扱うつもりはない。この屋敷の調度にも、書斎にも、帳簿にも、台所の匙一本にも、触れるな。いいな」

私は手袋をはめた両手を、膝の上で揃えた。

「承知しました。一切、触れません」

ライナルトはほんの少しだけ、拍子抜けした顔をした。泣くか、怒るか、すがるか。どれかを期待していたのかもしれない。


私はエルナ。二十三歳。子爵家の娘で、持参金つき。結婚は、父が決めた。夫が愛しているのは幼馴染のミレイア嬢だということは、控え室で、侍女のベティが教えてくれた。

そして私は、もうひとつ、知っていた。

白い結婚が三年続くと、妻の側から、婚姻の無効を申し立てられる。そのとき夫は、持参金と、婚姻中に使った妻の財産を、全額返さなければならない。

私は法律書を読むのが好きなのだ。


翌朝から、私の「触れない生活」が始まった。

まず、扉。ベティに開けてもらう。

椅子。屋敷の椅子には座れないので、実家から持ってきた折り畳みのスツールを、どこへでも持ち歩く。

紅茶。屋敷のカップは使えない。自分のカップと、自分のポットと、自分の茶葉。

食事。台所の匙は、屋敷のもの。私は自分の銀の匙を、胸のポケットに入れている。

「あの」

廊下で、夫が、すれ違いざまに足を止めた。私はスツールを抱えていた。

「それは、何をしているんだ」

「触れておりません」

「……床は」

「歩くしかないので、お許しください」

夫は何か言いかけて、やめた。

「……許す」

命令した本人が、許可を出した。私は、深く頭を下げた。

寝るときは、屋敷の寝台に触れないので、実家から持ってきた寝椅子で眠る。食べ物は、屋敷のものだけれど、食べるのは触れるのとは違う気がして、毎月、食費をオットーに払った。受け取ったオットーは、いつも半分を、台所にこっそり返していた。

ベティは毎晩、枕に顔をうずめて、笑いをこらえていた。


屋敷の家計が火の車だと知ったのは、一か月目だった。

私は触れない。でも、聞こえるし、見える。

夫は書類を読まない人だった。届いた手紙は、封も切らずに、執事長のオットーに渡す。オットーは、夜になると、書斎で溜息をついていた。

ある夜、私はスツールを持って、書斎の扉の前に立った。

「オットー」

「奥様」

「帳簿を、読み上げてもらえますか。私は、触れませんので」

老執事は、目を丸くして、それからゆっくり笑った。

「……かしこまりました。ページは、私がめくります」

借金は、屋敷が三つ買える額だった。先代の頃から、ずっと傾いていたのだ。夫は、それを私の持参金で埋めるつもりで、結婚した。

その持参金は、半年で、ほとんどなくなった。ミレイア嬢の宝石と、夜会の費用で。

夫が「帳簿に触れるな」と言った理由も、わかった。見られたくなかったのだ。

……見るな、とは、言われていない。


でも、持参金の外に、もうひとつ、私のお金がある。

母は、大きな商会の娘だった。母が遺してくれたものは、法律上、私だけのものだ。結婚しても、夫は触れない。

「触れるな」と、夫は言った。

いい言葉だと思う。私も、夫のお金には、触れない。そのかわり、自分のお金で、紙を買う。

母の商会の番頭、トマスに、手紙を書いた。ローデン家の借金の証文を、売りに出ているものから、静かに、買い集めてほしい、と。

トマスは、返事に一行だけ書いてきた。

「お嬢様。本気ですか」

本気だった。私は、自分のペンで、署名して返した。屋敷のペンは、屋敷のものだから。


結婚して四十七日目に、屋敷に、黒い外套の男が来た。

ベルグ商会の会頭、ユリウス・ベルグ。三十歳。屋敷の抵当を持っている、いちばん大きな債権者。利息の取り立てに、定期的にやって来る。「取り立て屋」と呼ばれて、貴族はみんな、彼を恐れている。

夫は不在だった。ミレイア嬢と、遠乗りだ。

応接間で、ユリウスは、立ったまま、オットーに言った。

「侯爵は」

「ただいま、お出かけで」

「いつものことだ」

私は廊下の端から、顔を出した。スツールを抱えていた。

「お客様ですか」

ユリウスは私を見て、それから私のスツールを見た。

「……奥様か」

「はい。お茶をお出ししたいのですが、屋敷のカップは使えないので、私のカップでよろしいですか」

沈黙があった。

「……お好きに」

私はスツールを広げて、自分のポットから、お茶を注いだ。彼は、カップを受け取って、ひと口飲んだ。

「私は、取り立て屋ですが」

「お客様です」

「…………」

ユリウスはカップを持ったまま、しばらく黙っていた。

「お客様と呼ばれたのは、初めてです」

それから彼は少しだけ、笑った。怖い人だと聞いていたけれど、笑うと、意外と、若い。

「利息は、三か月分、遅れています。期日までは待つ契約ですが、侯爵に、お伝えください」

「承知しました」

伝える必要は、なかった。夫は、聞いても、払えないのだから。


一年目。

屋敷では、ミレイア嬢が、毎週のようにお茶会を開いた。奥様の席に座って、奥様の笑い方をして、奥様のドレスの胸元には、私の持参金で買った、大きな青い宝石が光っていた。

私は部屋の端に、スツールを置いて座った。

「エルナ様は、座る場所があって、いいですわね」

ミレイア嬢が言った。

「はい。持ち歩いておりますので」

「変わった方」

ミレイア嬢はテーブルの上の焼き菓子の皿を、すっと私のほうへ押しやった。

「どうぞ。触れたら、召し上がれるのに」

「お気持ちだけ、いただきます」

私は自分のポケットから、自分のクッキーを出して、かじった。母の商会の、いちばん高いやつだった。

夫が、ミレイア嬢の隣で、笑った。

「放っておけ。触れなければ、害はない」

私は紅茶を飲んだ。茶葉は、自分のものだった。

社交界では、すぐに噂が立った。ローデン侯爵夫人は、夫が怖くて、椅子にも座れないらしい、と。

夫はその噂を、気に入っていた。

「あいつは、俺が怖くて、何にも触れないんだ」

夜会で、夫がそう笑うのが、聞こえた。怖がるのは、もう少しあとでいいと思う。私は、紅茶を、おかわりした。

その一年で、私は、ローデン家の借金の証文の、三割を、買った。

一度だけ、廊下で、夫に呼び止められたことがある。

「君は、文句のひとつも、言わないのか」

「触れるなと、言われましたので」

「……つまらん女だ」

「よく言われます」

夫はふんと鼻を鳴らして、行ってしまった。つまらない女が、三割の証文を、持っているとも知らずに。


一年目の終わりごろ、ミレイア嬢が、一人で私の部屋に来た。扉は、ベティが開けた。

彼女は、扇も持たずに、私のスツールの前に立った。

「あなた、どうして、怒らないの」

「怒る理由が、ありますか」

「私は、あなたの夫の」

「存じております」

ミレイア嬢の唇が、震えていた。

「私ね、十年、待ったのよ。あの人の隣に、堂々と座れる日を」

私は、黙って聞いた。

「あなたが来て、その席は、あなたのものになった。私は、隣で笑っているだけ。……あなたが怒ってくれたら、私も、怒れたのに」

私は、少し考えて、予備のカップに、お茶を一杯、注いだ。

「どうぞ。私のものです」

彼女は、カップをしばらく見て、結局、受け取らなかった。

「……いらないわ」

出ていく背中は、いつもの白いドレスなのに、少しだけ、小さく見えた。


二年目。

ユリウスが、利息の取り立てに来た。夫は、また不在だった。

応接間で、私は、いつものようにお茶を出した。ユリウスは、カップを受け取って、それから静かに言った。

「ローデン家の証文が、市場から、減っている」

「そうなのですか」

「誰かが、買っている。貴族の家名を伏せて、番頭を通して。……奥様の母方は、商会でしたね」

私はお茶を、ひと口飲んだ。

「なぜ、夫の家の借金を、買うんです。潰すためですか」

「潰す?」

私は首を傾げた。

「触れませんよ、私は。屋敷にも、調度にも、夫にも。紙を買っているだけです」

ユリウスは私の手袋を見た。

「……その手袋は」

「触れないための、手袋です」

「夫の命令で」

「はい」

彼の目が、一瞬だけ、すっと冷えた。それから、何も言わずに、お茶を飲み干して、カップを私に返した。

「ありがとう。お茶は、おいしかった」

帰り際、玄関で、振り返った。

「奥様。来年は、利息の取り立てではなく、あなたに、用事があるかもしれません」

「お待ちしております」


ある冬の夜、寝椅子の上で、私は、なかなか眠れなかった。

「奥様。お辛いですか」

ベティが、毛布を掛け直してくれながら、言った。

「辛いというより、静かなだけ。……手袋の中の手が、ときどき、何かを握りたがるの」

「何を」

「さあ。何だろうね」

ベティが部屋を出たあと、私は、自分のハンカチで、静かに泣いた。屋敷のシーツは、濡らせないから。


数日後、屋敷に、小包が届いた。差出人の名前は、なかった。開けると、厚手の手袋が一組と、毛織りの膝掛けが入っていた。メモが一枚。

『屋敷のものでは、ありません。あなたの持ち物です』

ベティが、ぷっと吹き出した。

「奥様。あの人、絶対、取り立て屋じゃないです」

私は新しい手袋を、両手にはめた。あたたかかった。


三年目の秋。

私はベルグ商会の事務所に、一人で行った。屋敷の外だから、触れていいものは、全部、触れた。自分のペンを出して、ユリウスの前に座った。

「ローデン家の抵当の債権を、買い取りたいんです」

ユリウスは机の上で、指を組んだ。

「あの屋敷は、今年の返済期日で、私が差し押さえる予定だった。先代が借りた三十年満期の期日が、結婚三周年の夜と、同じ日だ。いい立地だし、売れば、利息の何倍にもなる」

「存じております」

「それを、あなたに売れと」

「はい」

「……なぜ、私が」

私は少し考えて、答えた。

「あなたが、損をしないからです。市場の値に、利息と手数料を上乗せしてお支払いします。ただ」

「ただ?」

「あの屋敷を、売らずに、残したいんです」

ユリウスは長いこと、私の顔を見ていた。

「……なぜ」

「毎朝、お湯を沸かしてくれる、オットーがいます。扉を開けてくれる、ベティがいます。三年、一緒に暮らしてきた人たちです。あの人たちの家を、売りたくありません」

沈黙。

それから、ユリウスは小さく息を吐いた。

「私が差し押さえるはずだった家だ。だが」

彼は書類に、署名した。

「あなたが持つなら、あの屋敷は、いい家になる気がした」

「それと、ひとつ」

「はい」

「冬の小包ですが。差出人の名前を、書き忘れただけです」

「存じております」

「…………そうですか」

彼は、咳払いをして、書類を揃え直した。

帰り際、彼は、付け足した。

「期日の夜は、立会人として、屋敷に伺います。……扉は、自分で開けますが」


三周年の日の午後、私は、オットーとベティを、納戸に呼んだ。スツールの置いてある、納戸だ。

全部、話した。ふたりは、しばらく、口をきかなかった。

「三年、黙ってたんですか」

ベティが、やっと言った。

「聞かれなかったから」

「旦那様に、お知らせは」

オットーが、おそるおそる訊いた。

「書類を読まない方に、お知らせは、届かないでしょう」

オットーは笑いそうになって、咳でごまかした。


そして、三周年の夜が来た。

屋敷の大広間で、夜会が開かれた。夫の主催だ。ミレイア嬢の、誕生日を祝う会ということになっていた。

私はスツールを持って、壁際に座っていた。

ミレイア嬢は白いドレスで、私の持参金の青い宝石を、首に光らせていた。

音楽が止まった。夫が、広間の真ん中に立った。

「皆さん。今日は、大切なお知らせがあります」

ライナルトは私のほうを見た。

「エルナ。三年間、ご苦労だった。君とは、今日で、離縁だ」

広間が、ざわついた。

「白い結婚は、三年。区切りとして、ちょうどいい。持参金は、屋敷の維持に使った。出ていってくれ。そして、私は、ミレイアを妻に迎える」

ミレイア嬢が、扇の陰で、微笑んだ。

私はスツールから、立ち上がった。

「承知しました」

夫は頷いた。予想どおり、という顔だった。

「ただ、その前に、ひとつ、確認させてください」

「なんだ」

「この屋敷のものは、全部、ご自分のものですか」

「当たり前だ」

「調度も。書斎も。帳簿も。台所の匙も」

「何が言いたい」

私は後ろを向いた。広間の入り口に、オットーが、銀のお盆を持って立っていた。

「オットー。お願いします」

お盆の上には、紙の束が、積まれていた。

「私は、触れませんので。読み上げてください」

老執事は、背筋を伸ばして、広間じゅうに響く声で、読み上げた。

「ローデン家、抵当権付き債権、ベルグ商会より譲渡、現在の債権者、エルナ・ローデン」

夫の顔が、止まった。

「ローデン家の無担保債権、総額、現在の債権者、エルナ・ローデン」

「……何だと」

「抵当の返済期日は、本日、日付が変わるまで。お支払いは、ございますか」

夫は口を開けて、閉じた。

「そ、そんなもの、私は聞いて」

「書類を、お読みにならなかったからです」

私は静かに言った。

「借金のことは、どうやって知った。帳簿に触れるなと言ったはずだ」

「触れておりません。オットーに、読んでもらいました」

「それは、見たということだろう」

「見るな、とは、言われておりませんでした」

夫が、オットーの銀のお盆に、手を伸ばした。紙の束を、破り捨てる気だ。

「お待ちください」

私は言った。

「それは、私のものです。……触れないで、いただけますか」

夫の手が、空中で、ぴたりと止まった。

広間の入り口で、扉が開いた。黒い外套の人が、立っていた。

「ベルグ商会、会頭、ユリウス・ベルグ。譲渡の立会人として、参りました」

ユリウスは広間をゆっくり歩いて、夫の前に、一枚の紙を置いた。

「署名は、確認しました。それと、写しが三通、商会の金庫にあります。破っても、無駄です、侯爵」

ライナルトは紙を見て、それから私を見た。顔が、青かった。

「ミ、ミレイア。君の実家に、頼めないか」

「……私の家に、そんなお金は、ありません」

ミレイア嬢の扇が、ぱたりと、落ちた。

「……あなた、お金が、なかったの?」

夫は、答えなかった。

「エルナ。君は、私の妻だ。夫の家を、妻が」

「触れておりません」

私はまっすぐに、夫の目を見た。

「あなたの屋敷には、三年間、指一本、触れませんでした。買ったのは、紙です。婚姻の無効の申立ては、三年が満ちた明日の朝一番に、役所へ出します。そうなれば、持参金と、婚姻中に使った私の財産は、全額、返していただきます。……ああ、それと」

私はミレイア嬢の首元を、見た。

「その青い宝石は、私の持参金で買われたものです。もちろん、返還の対象です。お返しいただけますか」

「な、何を」

「屋敷のものではありませんが、人の首元に触れるのは、はしたないので。ベティ、お願い」

ベティが、ずかずかと歩いて、ミレイア嬢の首の留め金に、手をかけた。

「失礼します」

宝石は、ベティの手のひらに、あっけなく落ちた。


「期日は、今夜、日付が変わるまで」

オットーが、懐中時計を見た。

「あと、十分でございます」

夫は誰にも救いを求められなかった。夜会の客たちは、一人、また一人と、静かに、広間を出ていった。

十二時の鐘が鳴った。

私は言った。

「この屋敷は、いまから、私のものです。持参金の返還は、屋敷と相殺で、結構です。それが、私の、いちばん大きな譲歩です。お二人とも、今夜じゅうに、出ていってください」

「待て、せめて荷物を」

「ええ。お持ち出しください」

私はにっこり笑った。

「ただし、屋敷のものには、触れずに」

夫が、はっとした。

「……それは」

「あなたの命令ですよね。屋敷のものには、触れるな。調度にも、書斎にも、帳簿にも、台所の匙一本にも。いまは、私の屋敷です。あなたは、あなたが決めた規則を、守ってください」

ライナルトは口を開けたまま、動かなかった。ミレイア嬢は、ドレスの裾を握りしめて、泣き出した。

二人は、その夜、着の身着のままで、屋敷を出た。門のところで、夫は一度だけ振り返った。

「床は」

「歩くしかないので、お許しください」

私は言った。

「許します。三年分、まとめて」

広間の隅から、ユリウスが歩いてきた。手に、折り畳みのスツールを持っていた。私のだ。

彼はそれを、私の足元に、そっと置いた。

「座っても、いいですよ。もう、屋敷の椅子でも」

「……これは、私のスツールです」

「知っています。持ってきただけです」

私はスツールに座った。膝が少し震えていた。三年間ずっと、立ったまま戦っていたような気がした。


朝になる前に、広間に、使用人が全員、集まっていた。

オットーが、一歩、前に出た。

「奥様。……いえ、ご主人様。お屋敷に、変わらず、お仕えいたします」

老執事の声が少し、震えていた。

「オットー。みんなも。この屋敷のものには、もう、好きなだけ、触ってください」

一瞬の間のあと、ベティが、真っ先に、飛びついてきた。

「奥様ーーーっ!」

三年分の笑いと涙が、いっぺんに来た。受け止めながら、私は少し、息ができなかった。


翌朝。

私はいつもの習慣で、スツールを持って、庭に出た。

ユリウスが、門のところに立っていた。

「おはようございます。奥様。……いや、まもなく、奥様では、なくなるのか」

「エルナで、結構です」

「エルナ様」

彼は私の手を、見た。

「手袋は、もう、要らないでしょう」

私は自分の両手を見た。三年間、毎日はめていた。夜に洗って、朝にまたはめる。肌に貼りついたみたいになっていた。

「……そうですね」

ゆっくり、右の手袋を、外した。左の手袋も、外した。

朝の空気が、指に触れた。

「冷たい」

「三年、ですから」

ユリウスは少しだけ、手を伸ばして、止まった。

「……許可は」

私は笑ってしまった。

「要りません」

彼の手が、私の手を、握った。

あたたかかった。手袋の中で、三年間、何かを握りたがっていた手は、これを握りたかったのだ、と、そのとき、わかった。

「朝食を、ご一緒しても」

「屋敷の匙で、よければ」

「それは、触れていい匙かな」

「ええ。どうぞ、全部」


一年後。

ローデン家の屋敷は、もう「ローデン邸」ではない。門に、新しい札がかかっている。


どうぞ、ご自由にお触れください。


元夫のことは、風の噂で聞く。ミレイア嬢の実家の納屋で暮らしていて、毎朝、自分で扉を開けているらしい。ミレイア嬢は、結局、彼を見捨てなかったそうだ。ベティは「いい運動です」と言っていた。

扉は、ベティではなく、誰でも自分で開けていい。台所の匙は、オットーが毎晩、数を数えて磨いている。書斎の帳簿は、いまは、私が、毎日、自分で、ページをめくる。みんなの給金は、遅れずに、払っている。

その日、私は、庭の椅子に座っていた。屋敷の椅子だ。スツールは、納戸にしまってある。

ユリウスが、庭を歩いてきた。手には、お茶のポットを持っている。

「お客様に、お茶を、淹れに来た」

「私は、お客様じゃありません」

「では、何と」

「この屋敷の、主です」

「では、主」

ユリウスは私の手を、取った。

「許可は」

「いりません」

ポットから、お茶が湯気を立てていた。私の屋敷の、私のカップに注がれる。

この屋敷で、触れてはいけないものは、もう一つもありません。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

「触れるな」を、三年間、全力で守った話でした。

おもしろいと思っていただけたら、ブックマークと評価(☆)をぽちっとしてもらえると、とても嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。