『屋敷のものには触れるな』と言われたので、白い結婚の三年間、何にも触れずに屋敷ごと買い取りました
「この屋敷のものには、一切触れるな」
初夜に、夫はそう言った。
ローデン侯爵ライナルト。二十八歳。金色の髪に、整った顔。結婚式の誓いのキスは、私の頬の三センチ手前で止まっていた。
「これは白い結婚だ。君の持参金は、屋敷の維持に使う。だが、君を妻として扱うつもりはない。この屋敷の調度にも、書斎にも、帳簿にも、台所の匙一本にも、触れるな。いいな」
私は手袋をはめた両手を、膝の上で揃えた。
「承知しました。一切、触れません」
ライナルトはほんの少しだけ、拍子抜けした顔をした。泣くか、怒るか、すがるか。どれかを期待していたのかもしれない。
私はエルナ。二十三歳。子爵家の娘で、持参金つき。結婚は、父が決めた。夫が愛しているのは幼馴染のミレイア嬢だということは、控え室で、侍女のベティが教えてくれた。
そして私は、もうひとつ、知っていた。
白い結婚が三年続くと、妻の側から、婚姻の無効を申し立てられる。そのとき夫は、持参金と、婚姻中に使った妻の財産を、全額返さなければならない。
私は法律書を読むのが好きなのだ。
翌朝から、私の「触れない生活」が始まった。
まず、扉。ベティに開けてもらう。
椅子。屋敷の椅子には座れないので、実家から持ってきた折り畳みのスツールを、どこへでも持ち歩く。
紅茶。屋敷のカップは使えない。自分のカップと、自分のポットと、自分の茶葉。
食事。台所の匙は、屋敷のもの。私は自分の銀の匙を、胸のポケットに入れている。
「あの」
廊下で、夫が、すれ違いざまに足を止めた。私はスツールを抱えていた。
「それは、何をしているんだ」
「触れておりません」
「……床は」
「歩くしかないので、お許しください」
夫は何か言いかけて、やめた。
「……許す」
命令した本人が、許可を出した。私は、深く頭を下げた。
寝るときは、屋敷の寝台に触れないので、実家から持ってきた寝椅子で眠る。食べ物は、屋敷のものだけれど、食べるのは触れるのとは違う気がして、毎月、食費をオットーに払った。受け取ったオットーは、いつも半分を、台所にこっそり返していた。
ベティは毎晩、枕に顔をうずめて、笑いをこらえていた。
屋敷の家計が火の車だと知ったのは、一か月目だった。
私は触れない。でも、聞こえるし、見える。
夫は書類を読まない人だった。届いた手紙は、封も切らずに、執事長のオットーに渡す。オットーは、夜になると、書斎で溜息をついていた。
ある夜、私はスツールを持って、書斎の扉の前に立った。
「オットー」
「奥様」
「帳簿を、読み上げてもらえますか。私は、触れませんので」
老執事は、目を丸くして、それからゆっくり笑った。
「……かしこまりました。ページは、私がめくります」
借金は、屋敷が三つ買える額だった。先代の頃から、ずっと傾いていたのだ。夫は、それを私の持参金で埋めるつもりで、結婚した。
その持参金は、半年で、ほとんどなくなった。ミレイア嬢の宝石と、夜会の費用で。
夫が「帳簿に触れるな」と言った理由も、わかった。見られたくなかったのだ。
……見るな、とは、言われていない。
でも、持参金の外に、もうひとつ、私のお金がある。
母は、大きな商会の娘だった。母が遺してくれたものは、法律上、私だけのものだ。結婚しても、夫は触れない。
「触れるな」と、夫は言った。
いい言葉だと思う。私も、夫のお金には、触れない。そのかわり、自分のお金で、紙を買う。
母の商会の番頭、トマスに、手紙を書いた。ローデン家の借金の証文を、売りに出ているものから、静かに、買い集めてほしい、と。
トマスは、返事に一行だけ書いてきた。
「お嬢様。本気ですか」
本気だった。私は、自分のペンで、署名して返した。屋敷のペンは、屋敷のものだから。
結婚して四十七日目に、屋敷に、黒い外套の男が来た。
ベルグ商会の会頭、ユリウス・ベルグ。三十歳。屋敷の抵当を持っている、いちばん大きな債権者。利息の取り立てに、定期的にやって来る。「取り立て屋」と呼ばれて、貴族はみんな、彼を恐れている。
夫は不在だった。ミレイア嬢と、遠乗りだ。
応接間で、ユリウスは、立ったまま、オットーに言った。
「侯爵は」
「ただいま、お出かけで」
「いつものことだ」
私は廊下の端から、顔を出した。スツールを抱えていた。
「お客様ですか」
ユリウスは私を見て、それから私のスツールを見た。
「……奥様か」
「はい。お茶をお出ししたいのですが、屋敷のカップは使えないので、私のカップでよろしいですか」
沈黙があった。
「……お好きに」
私はスツールを広げて、自分のポットから、お茶を注いだ。彼は、カップを受け取って、ひと口飲んだ。
「私は、取り立て屋ですが」
「お客様です」
「…………」
ユリウスはカップを持ったまま、しばらく黙っていた。
「お客様と呼ばれたのは、初めてです」
それから彼は少しだけ、笑った。怖い人だと聞いていたけれど、笑うと、意外と、若い。
「利息は、三か月分、遅れています。期日までは待つ契約ですが、侯爵に、お伝えください」
「承知しました」
伝える必要は、なかった。夫は、聞いても、払えないのだから。
一年目。
屋敷では、ミレイア嬢が、毎週のようにお茶会を開いた。奥様の席に座って、奥様の笑い方をして、奥様のドレスの胸元には、私の持参金で買った、大きな青い宝石が光っていた。
私は部屋の端に、スツールを置いて座った。
「エルナ様は、座る場所があって、いいですわね」
ミレイア嬢が言った。
「はい。持ち歩いておりますので」
「変わった方」
ミレイア嬢はテーブルの上の焼き菓子の皿を、すっと私のほうへ押しやった。
「どうぞ。触れたら、召し上がれるのに」
「お気持ちだけ、いただきます」
私は自分のポケットから、自分のクッキーを出して、かじった。母の商会の、いちばん高いやつだった。
夫が、ミレイア嬢の隣で、笑った。
「放っておけ。触れなければ、害はない」
私は紅茶を飲んだ。茶葉は、自分のものだった。
社交界では、すぐに噂が立った。ローデン侯爵夫人は、夫が怖くて、椅子にも座れないらしい、と。
夫はその噂を、気に入っていた。
「あいつは、俺が怖くて、何にも触れないんだ」
夜会で、夫がそう笑うのが、聞こえた。怖がるのは、もう少しあとでいいと思う。私は、紅茶を、おかわりした。
その一年で、私は、ローデン家の借金の証文の、三割を、買った。
一度だけ、廊下で、夫に呼び止められたことがある。
「君は、文句のひとつも、言わないのか」
「触れるなと、言われましたので」
「……つまらん女だ」
「よく言われます」
夫はふんと鼻を鳴らして、行ってしまった。つまらない女が、三割の証文を、持っているとも知らずに。
一年目の終わりごろ、ミレイア嬢が、一人で私の部屋に来た。扉は、ベティが開けた。
彼女は、扇も持たずに、私のスツールの前に立った。
「あなた、どうして、怒らないの」
「怒る理由が、ありますか」
「私は、あなたの夫の」
「存じております」
ミレイア嬢の唇が、震えていた。
「私ね、十年、待ったのよ。あの人の隣に、堂々と座れる日を」
私は、黙って聞いた。
「あなたが来て、その席は、あなたのものになった。私は、隣で笑っているだけ。……あなたが怒ってくれたら、私も、怒れたのに」
私は、少し考えて、予備のカップに、お茶を一杯、注いだ。
「どうぞ。私のものです」
彼女は、カップをしばらく見て、結局、受け取らなかった。
「……いらないわ」
出ていく背中は、いつもの白いドレスなのに、少しだけ、小さく見えた。
二年目。
ユリウスが、利息の取り立てに来た。夫は、また不在だった。
応接間で、私は、いつものようにお茶を出した。ユリウスは、カップを受け取って、それから静かに言った。
「ローデン家の証文が、市場から、減っている」
「そうなのですか」
「誰かが、買っている。貴族の家名を伏せて、番頭を通して。……奥様の母方は、商会でしたね」
私はお茶を、ひと口飲んだ。
「なぜ、夫の家の借金を、買うんです。潰すためですか」
「潰す?」
私は首を傾げた。
「触れませんよ、私は。屋敷にも、調度にも、夫にも。紙を買っているだけです」
ユリウスは私の手袋を見た。
「……その手袋は」
「触れないための、手袋です」
「夫の命令で」
「はい」
彼の目が、一瞬だけ、すっと冷えた。それから、何も言わずに、お茶を飲み干して、カップを私に返した。
「ありがとう。お茶は、おいしかった」
帰り際、玄関で、振り返った。
「奥様。来年は、利息の取り立てではなく、あなたに、用事があるかもしれません」
「お待ちしております」
ある冬の夜、寝椅子の上で、私は、なかなか眠れなかった。
「奥様。お辛いですか」
ベティが、毛布を掛け直してくれながら、言った。
「辛いというより、静かなだけ。……手袋の中の手が、ときどき、何かを握りたがるの」
「何を」
「さあ。何だろうね」
ベティが部屋を出たあと、私は、自分のハンカチで、静かに泣いた。屋敷のシーツは、濡らせないから。
数日後、屋敷に、小包が届いた。差出人の名前は、なかった。開けると、厚手の手袋が一組と、毛織りの膝掛けが入っていた。メモが一枚。
『屋敷のものでは、ありません。あなたの持ち物です』
ベティが、ぷっと吹き出した。
「奥様。あの人、絶対、取り立て屋じゃないです」
私は新しい手袋を、両手にはめた。あたたかかった。
三年目の秋。
私はベルグ商会の事務所に、一人で行った。屋敷の外だから、触れていいものは、全部、触れた。自分のペンを出して、ユリウスの前に座った。
「ローデン家の抵当の債権を、買い取りたいんです」
ユリウスは机の上で、指を組んだ。
「あの屋敷は、今年の返済期日で、私が差し押さえる予定だった。先代が借りた三十年満期の期日が、結婚三周年の夜と、同じ日だ。いい立地だし、売れば、利息の何倍にもなる」
「存じております」
「それを、あなたに売れと」
「はい」
「……なぜ、私が」
私は少し考えて、答えた。
「あなたが、損をしないからです。市場の値に、利息と手数料を上乗せしてお支払いします。ただ」
「ただ?」
「あの屋敷を、売らずに、残したいんです」
ユリウスは長いこと、私の顔を見ていた。
「……なぜ」
「毎朝、お湯を沸かしてくれる、オットーがいます。扉を開けてくれる、ベティがいます。三年、一緒に暮らしてきた人たちです。あの人たちの家を、売りたくありません」
沈黙。
それから、ユリウスは小さく息を吐いた。
「私が差し押さえるはずだった家だ。だが」
彼は書類に、署名した。
「あなたが持つなら、あの屋敷は、いい家になる気がした」
「それと、ひとつ」
「はい」
「冬の小包ですが。差出人の名前を、書き忘れただけです」
「存じております」
「…………そうですか」
彼は、咳払いをして、書類を揃え直した。
帰り際、彼は、付け足した。
「期日の夜は、立会人として、屋敷に伺います。……扉は、自分で開けますが」
三周年の日の午後、私は、オットーとベティを、納戸に呼んだ。スツールの置いてある、納戸だ。
全部、話した。ふたりは、しばらく、口をきかなかった。
「三年、黙ってたんですか」
ベティが、やっと言った。
「聞かれなかったから」
「旦那様に、お知らせは」
オットーが、おそるおそる訊いた。
「書類を読まない方に、お知らせは、届かないでしょう」
オットーは笑いそうになって、咳でごまかした。
そして、三周年の夜が来た。
屋敷の大広間で、夜会が開かれた。夫の主催だ。ミレイア嬢の、誕生日を祝う会ということになっていた。
私はスツールを持って、壁際に座っていた。
ミレイア嬢は白いドレスで、私の持参金の青い宝石を、首に光らせていた。
音楽が止まった。夫が、広間の真ん中に立った。
「皆さん。今日は、大切なお知らせがあります」
ライナルトは私のほうを見た。
「エルナ。三年間、ご苦労だった。君とは、今日で、離縁だ」
広間が、ざわついた。
「白い結婚は、三年。区切りとして、ちょうどいい。持参金は、屋敷の維持に使った。出ていってくれ。そして、私は、ミレイアを妻に迎える」
ミレイア嬢が、扇の陰で、微笑んだ。
私はスツールから、立ち上がった。
「承知しました」
夫は頷いた。予想どおり、という顔だった。
「ただ、その前に、ひとつ、確認させてください」
「なんだ」
「この屋敷のものは、全部、ご自分のものですか」
「当たり前だ」
「調度も。書斎も。帳簿も。台所の匙も」
「何が言いたい」
私は後ろを向いた。広間の入り口に、オットーが、銀のお盆を持って立っていた。
「オットー。お願いします」
お盆の上には、紙の束が、積まれていた。
「私は、触れませんので。読み上げてください」
老執事は、背筋を伸ばして、広間じゅうに響く声で、読み上げた。
「ローデン家、抵当権付き債権、ベルグ商会より譲渡、現在の債権者、エルナ・ローデン」
夫の顔が、止まった。
「ローデン家の無担保債権、総額、現在の債権者、エルナ・ローデン」
「……何だと」
「抵当の返済期日は、本日、日付が変わるまで。お支払いは、ございますか」
夫は口を開けて、閉じた。
「そ、そんなもの、私は聞いて」
「書類を、お読みにならなかったからです」
私は静かに言った。
「借金のことは、どうやって知った。帳簿に触れるなと言ったはずだ」
「触れておりません。オットーに、読んでもらいました」
「それは、見たということだろう」
「見るな、とは、言われておりませんでした」
夫が、オットーの銀のお盆に、手を伸ばした。紙の束を、破り捨てる気だ。
「お待ちください」
私は言った。
「それは、私のものです。……触れないで、いただけますか」
夫の手が、空中で、ぴたりと止まった。
広間の入り口で、扉が開いた。黒い外套の人が、立っていた。
「ベルグ商会、会頭、ユリウス・ベルグ。譲渡の立会人として、参りました」
ユリウスは広間をゆっくり歩いて、夫の前に、一枚の紙を置いた。
「署名は、確認しました。それと、写しが三通、商会の金庫にあります。破っても、無駄です、侯爵」
ライナルトは紙を見て、それから私を見た。顔が、青かった。
「ミ、ミレイア。君の実家に、頼めないか」
「……私の家に、そんなお金は、ありません」
ミレイア嬢の扇が、ぱたりと、落ちた。
「……あなた、お金が、なかったの?」
夫は、答えなかった。
「エルナ。君は、私の妻だ。夫の家を、妻が」
「触れておりません」
私はまっすぐに、夫の目を見た。
「あなたの屋敷には、三年間、指一本、触れませんでした。買ったのは、紙です。婚姻の無効の申立ては、三年が満ちた明日の朝一番に、役所へ出します。そうなれば、持参金と、婚姻中に使った私の財産は、全額、返していただきます。……ああ、それと」
私はミレイア嬢の首元を、見た。
「その青い宝石は、私の持参金で買われたものです。もちろん、返還の対象です。お返しいただけますか」
「な、何を」
「屋敷のものではありませんが、人の首元に触れるのは、はしたないので。ベティ、お願い」
ベティが、ずかずかと歩いて、ミレイア嬢の首の留め金に、手をかけた。
「失礼します」
宝石は、ベティの手のひらに、あっけなく落ちた。
「期日は、今夜、日付が変わるまで」
オットーが、懐中時計を見た。
「あと、十分でございます」
夫は誰にも救いを求められなかった。夜会の客たちは、一人、また一人と、静かに、広間を出ていった。
十二時の鐘が鳴った。
私は言った。
「この屋敷は、いまから、私のものです。持参金の返還は、屋敷と相殺で、結構です。それが、私の、いちばん大きな譲歩です。お二人とも、今夜じゅうに、出ていってください」
「待て、せめて荷物を」
「ええ。お持ち出しください」
私はにっこり笑った。
「ただし、屋敷のものには、触れずに」
夫が、はっとした。
「……それは」
「あなたの命令ですよね。屋敷のものには、触れるな。調度にも、書斎にも、帳簿にも、台所の匙一本にも。いまは、私の屋敷です。あなたは、あなたが決めた規則を、守ってください」
ライナルトは口を開けたまま、動かなかった。ミレイア嬢は、ドレスの裾を握りしめて、泣き出した。
二人は、その夜、着の身着のままで、屋敷を出た。門のところで、夫は一度だけ振り返った。
「床は」
「歩くしかないので、お許しください」
私は言った。
「許します。三年分、まとめて」
広間の隅から、ユリウスが歩いてきた。手に、折り畳みのスツールを持っていた。私のだ。
彼はそれを、私の足元に、そっと置いた。
「座っても、いいですよ。もう、屋敷の椅子でも」
「……これは、私のスツールです」
「知っています。持ってきただけです」
私はスツールに座った。膝が少し震えていた。三年間ずっと、立ったまま戦っていたような気がした。
朝になる前に、広間に、使用人が全員、集まっていた。
オットーが、一歩、前に出た。
「奥様。……いえ、ご主人様。お屋敷に、変わらず、お仕えいたします」
老執事の声が少し、震えていた。
「オットー。みんなも。この屋敷のものには、もう、好きなだけ、触ってください」
一瞬の間のあと、ベティが、真っ先に、飛びついてきた。
「奥様ーーーっ!」
三年分の笑いと涙が、いっぺんに来た。受け止めながら、私は少し、息ができなかった。
翌朝。
私はいつもの習慣で、スツールを持って、庭に出た。
ユリウスが、門のところに立っていた。
「おはようございます。奥様。……いや、まもなく、奥様では、なくなるのか」
「エルナで、結構です」
「エルナ様」
彼は私の手を、見た。
「手袋は、もう、要らないでしょう」
私は自分の両手を見た。三年間、毎日はめていた。夜に洗って、朝にまたはめる。肌に貼りついたみたいになっていた。
「……そうですね」
ゆっくり、右の手袋を、外した。左の手袋も、外した。
朝の空気が、指に触れた。
「冷たい」
「三年、ですから」
ユリウスは少しだけ、手を伸ばして、止まった。
「……許可は」
私は笑ってしまった。
「要りません」
彼の手が、私の手を、握った。
あたたかかった。手袋の中で、三年間、何かを握りたがっていた手は、これを握りたかったのだ、と、そのとき、わかった。
「朝食を、ご一緒しても」
「屋敷の匙で、よければ」
「それは、触れていい匙かな」
「ええ。どうぞ、全部」
一年後。
ローデン家の屋敷は、もう「ローデン邸」ではない。門に、新しい札がかかっている。
どうぞ、ご自由にお触れください。
元夫のことは、風の噂で聞く。ミレイア嬢の実家の納屋で暮らしていて、毎朝、自分で扉を開けているらしい。ミレイア嬢は、結局、彼を見捨てなかったそうだ。ベティは「いい運動です」と言っていた。
扉は、ベティではなく、誰でも自分で開けていい。台所の匙は、オットーが毎晩、数を数えて磨いている。書斎の帳簿は、いまは、私が、毎日、自分で、ページをめくる。みんなの給金は、遅れずに、払っている。
その日、私は、庭の椅子に座っていた。屋敷の椅子だ。スツールは、納戸にしまってある。
ユリウスが、庭を歩いてきた。手には、お茶のポットを持っている。
「お客様に、お茶を、淹れに来た」
「私は、お客様じゃありません」
「では、何と」
「この屋敷の、主です」
「では、主」
ユリウスは私の手を、取った。
「許可は」
「いりません」
ポットから、お茶が湯気を立てていた。私の屋敷の、私のカップに注がれる。
この屋敷で、触れてはいけないものは、もう一つもありません。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
「触れるな」を、三年間、全力で守った話でした。
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