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沈黙の琵琶湖2 ― 涙の向こうに咲く笑顔 ―  作者: リンダ


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小さな声を聞く家族たち

後日談「小さな声を聞く家族たち」

――太田文子と笑美、母と娘がたどり着いた場所――

第一章 誰かに見られていないだろうか

京都市山科区。

秋の柔らかな日差しが街を包む午後、一人の若い女性が、小さな女の子の手を引いて病院の前に立っていた。

女性の名前は、太田文子。二十六歳。

隣にいるのは、四歳の娘、笑美だった。

文子は病院の入り口を見つめていた。しかし、なかなか中に入ろうとしなかった。

何度も後ろを振り返り、道路の向こう側に目を向ける。

通り過ぎる車。歩道を歩く会社員。買い物袋を提げた女性。

特に変わったことはない。

それでも、文子の表情はこわばったままだった。

誰かに見られていないだろうか。

夫の知り合いが近くにいないだろうか。

病院に来たことが夫に知られたら、どうなるのだろう。

そんな不安が頭から離れなかった。

「……ママ?」

小さな声がした。

文子が顔を下げると、笑美が不安そうに見上げていた。

「どうしたの、笑美?」

「おうち、かえるの?」

文子は一瞬、答えに詰まった。

笑美の頬には、まだ薄く赤い痕が残っていた。

数日前、父親に叩かれた痕だった。

文子は娘の体を自分の方へ引き寄せ、守るように抱きしめた。

「ううん。今日はね、ママと一緒に、先生に会いに行くの」

「パパ、くる?」

その言葉に、文子の胸が締めつけられた。

「……来ないよ」

「ほんと?」

「うん。今日はママと二人だからね」

笑美は小さくうなずいたが、母親の手を握る力は弱まらなかった。

文子は意を決して病院の自動ドアへ歩き出した。

それでも、ドアが開く直前、もう一度だけ後ろを振り返った。

第二章 震える手

病院の受付に立った文子は、できるだけ小さな声で話しかけた。

「あの……相談をお願いしたいんですけど……」

受付の女性が穏やかに応じた。

「ご予約はされていますか?」

「はい……徳田梨花さんに……」

「徳田ですね。少々お待ちください」

受付の女性が端末を確認している間も、文子は落ち着かなかった。

待合室には数人の患者が座っている。

そのうちの男性が立ち上がった瞬間、文子の肩がびくりと動いた。

笑美を自分の背後に隠すようにして、そっと一歩下がる。

男性はただ会計窓口へ向かっただけだった。

それが分かっても、文子の心臓は激しく鳴っていた。

「太田さん、大丈夫ですか?」

受付の女性が心配そうに尋ねた。

「は、はい……」

しかし、その声には明らかな震えがあった。

受付の女性は、それ以上人前で事情を尋ねなかった。

「こちらへどうぞ。静かなお部屋でお待ちいただけます」

案内されたのは、待合室から少し離れた相談室だった。

文子は笑美を先に入れ、後ろを確認してから扉を閉めた。

その瞬間、ようやく小さく息を吐いた。

それでも、まだ安心できなかった。

笑美を椅子に座らせ、自分も隣に腰を下ろす。

母娘の手は、ずっとつながれたままだった。

第三章 「それは、しつけではありません」

しばらくして、扉が静かにノックされた。

「太田文子さんですね。徳田梨花です」

入ってきたのは、この病院で看護師として働き、家庭内暴力や家族問題の相談にも携わっている梨花だった。

梨花は文子の顔を見た瞬間、ただならぬものを感じた。

青白い顔色。

強く結ばれた唇。

膝の上で握りしめられた両手。

そして、母親の服の裾を離そうとしない笑美。

「今日は来てくださってありがとうございます」

梨花は二人の向かいに腰を下ろした。

「お話はゆっくりで大丈夫です。無理に全部話す必要はありません」

文子は小さくうなずいた。

梨花は続けた。

「相談内容は慎重に取り扱います。ただ、笑美ちゃんの命や安全に関わることがあれば、必要な機関と協力して守ることもあります。その場合も、できる限り説明しながら進めます」

文子の目に涙が浮かんだ。

「あの……夫に、ここに来たことが分かることは……」

「その点も含めて、安全を第一に考えましょう。こちらから不用意に連絡することはありません」

文子は何度もうなずいた。

そして、震える唇をようやく開いた。

「夫が……」

言葉が途切れた。

梨花は急かさなかった。

「夫が……娘に、手を上げるんです……」

笑美の体がびくりと動いた。

梨花はその反応を見逃さなかった。

「笑美ちゃんに、ですか?」

文子はうなずいた。

「言うことを聞かないから、しつけだって……」

涙が頬を伝った。

「張り手を浴びせたり、怒鳴ったりするんです……」

「ほかには、どんなことを?」

「『お前はほんまに使えん子やな』『泣くな、うるさい』『そんなこともできへんのか』って……」

文子は顔を覆った。

「まだ四歳なんです。できないことだって、いっぱいあるのに……」

梨花は静かに息を吸った。

怒りが胸の奥からこみ上げていた。

しかし、今ここで必要なのは、自分の怒りをぶつけることではなかった。

「文子さん」

「はい……」

「それは、しつけではありません」

文子が顔を上げた。

「暴力です。暴言です。笑美ちゃんが悪いわけではありません」

その言葉を聞いた瞬間、文子の表情が崩れた。

「でも……私、止められなくて……」

「文子さんも、つらい思いをしてこられたんですね」

「怖かったんです……。止めに入ったら、今度は私が怒鳴られて……」

「話してくださってありがとうございます。まずは、お二人がこれ以上傷つけられないようにすることを考えましょう」

文子は声を上げて泣き始めた。

笑美が母親の顔を見上げた。

「ママ……?」

文子は慌てて涙を拭こうとした。

「ごめんね、笑美……」

梨花は優しく言った。

「ここでは、泣いてもいいんですよ」

その言葉に、文子の涙はさらにあふれた。

第四章 壊れていった家庭

文子の夫は、太田一之介。二十八歳。

結婚当初は、こんな人ではなかったという。

仕事熱心で、周囲からの評判も悪くなかった。

笑美が生まれた時には、娘を抱いて嬉しそうに笑っていた。

文子は、あの頃の夫が好きだった。

しかし、次第に一之介の態度が変わっていった。

帰宅が遅くなり、家に帰ってこない日も増えた。

帰ってきても機嫌が悪く、少しのことで怒鳴るようになった。

「誰のおかげで生活できてると思ってる」

「お前は母親としても妻としても足りん」

「文句があるなら出て行け」

そんな言葉を繰り返し浴びせられた。

文子は、夫を怒らせないことばかり考えるようになった。

料理の味つけ。

部屋の片づけ。

洗濯物の畳み方。

笑美が少し大きな声を出すことさえ、怖くなっていた。

「娘に、静かにしなさいって何度も言ってしまったんです……」

文子は俯いた。

「笑美は、ただ遊びたかっただけなのに……」

梨花は黙って耳を傾けた。

やがて、文子は夫の不倫についても話し始めた。

ある日、夫のスマートフォンに残されていた別の女性とのLINEを見てしまった。

親密な言葉。

二人で会ったことが分かるやり取り。

家庭には仕事だと説明していた日の、別の予定。

文子は頭が真っ白になった。

勇気を出して問い詰めると、一之介は激怒した。

「勝手にスマホを見るお前が悪い」

「俺を疑わせるお前が悪い」

「こんな家に帰りたくなくなるのも、お前のせいや」

それ以来、文子は自分自身の判断に自信が持てなくなっていた。

「私が悪いんでしょうか……」

梨花は首を横に振った。

「不倫をしたことも、暴力を振るったことも、一之介さん自身の責任です」

「でも、私も完璧な妻じゃなかったし……」

「完璧な妻や母親でなければ、傷つけられてもいいということにはなりません」

文子の目から再び涙が落ちた。

「笑美も……悪くないんですよね?」

「もちろんです」

梨花ははっきりと答えた。

「笑美ちゃんも、文子さんも、暴力を受けていい理由なんてありません」

第五章 小さな折り紙

笑美は、ずっと母親の横に座っていた。

梨花は無理に話しかけなかった。

机の上に、小さな折り紙を数枚置いた。

「笑美ちゃん、ここに折り紙があるよ。使いたかったら、使っていいからね」

笑美はじっと折り紙を見つめた。

赤、青、黄色、ピンク。

しかし、手を伸ばそうとはしなかった。

文子がそっと言った。

「笑美、使ってもいいんだよ」

笑美は不安そうに母親を見た。

「……おこられる?」

梨花の胸が痛んだ。

「怒られないよ」

「ほんと?」

「うん。好きな色を選んでいいんだよ」

笑美はしばらく考え、ピンクの折り紙にそっと触れた。

そして、ゆっくり母親の顔を見た。

文子は涙をこらえながら微笑んだ。

「かわいい色だね」

その言葉を聞いて、笑美はようやく折り紙を手に取った。

梨花は思った。

この子は、折り紙一枚を選ぶことさえ、大人の顔色をうかがわなければならなくなっていたのだ。

四歳の子どもが背負うには、あまりにも重すぎる日常だった。

その後、梨花は笑美の頬の痕や体調について確認し、医師による診察につなげた。

文子には、安全を確保するため、児童相談所などの専門機関と連携する必要があることを説明した。

文子は最初、不安そうな顔をした。

「大ごとになってしまうんでしょうか……」

「笑美ちゃんを守るための相談です。一之介さんに会いに行って、文子さんたちが危険になるようなことをするためではありません」

梨花は落ち着いた声で続けた。

「一人で抱えなくていいんですよ」

文子は、静かにうなずいた。

第六章 三人の女性たち

その日の夕方。

梨花は、文子の了承を得て、支援に関わる範囲で麻里子と一絵に協力を求めた。

場所は、京都市伏見区にある篠田旅館の奥の小部屋だった。

集まった三人には、それぞれ過去があった。

徳田梨花。

かつて葛城姓を名乗り、離婚後に旧姓の篠田へ戻った。その後、薫との結婚によって徳田姓となった。

篠田麻里子。

結婚後も篠田姓を名乗る.現在は家庭の問題に苦しむ人たちの相談を支えている。

西田一絵。

かつて立花姓を名乗っていたが、克己との結婚によって西田姓となった。現在は篠田旅館の副料理長を務めている。

それぞれに、苦い経験があった。

梨花は夫の裏切りを経験した。

一絵は、独身だと偽った男性に騙された。

麻里子は、姉が傷つき、家庭が壊れていく姿を見てきた。

だからこそ、文子がどれほど追い詰められているのか、他人事とは思えなかった。

梨花が事情を説明すると、麻里子の顔が険しくなった。

「四歳の女の子に張り手?」

「うん」

「しつけやない。虐待や」

一絵も表情を曇らせた。

「笑美ちゃん、相当怖い思いをしてきたんやね……」

「父親の話をした瞬間、肩が跳ねたの」

梨花は、病院での笑美の様子を思い出した。

「折り紙を取っていいかどうかさえ、怖がってた」

一絵は思わず目を閉じた。

「たった四歳やのに……」

麻里子は手元のメモを開いた。

「まずは安全確保やね。児童相談所と病院の連携を優先して、必要なら警察やDV相談窓口にもつなぐ。文子さんが安心して過ごせる避難先の確保も大事や」

梨花がうなずいた。

「うん。笑美ちゃんの診察記録も整えていく。専門家による心のケアも必要になると思う」

一絵は静かに言った。

「文子さんも、相当自分を責めてると思う。自分が我慢すればよかったとか、もっと上手に夫を支えていたらって……」

梨花が答えた。

「実際、そう言ってた」

麻里子は小さく息を吐いた。

「私たちも、同じようなことを考えた時期があったもんね」

三人は黙った。

それぞれの過去が胸をよぎった。

やがて、麻里子が口を開いた。

「文子さんには、ちゃんと伝えたいな」

「何を?」

「逃げることは、家庭を壊すことやない。暴力から自分と娘を守ることやって」

一絵も深くうなずいた。

「笑美ちゃんにも、自分は悪い子じゃないって分かってほしい」

梨花は静かに答えた。

「うん。私も、そう思う」

第七章 「えみ、わるいこ?」

翌日。

文子は再び病院を訪れた。

前日と同じように、入り口の前で立ち止まった。

周囲を見回す。

道路の向こうを確認する。

誰かが自分たちを見ているような気がして、思わず笑美を抱き寄せた。

しかし、昨日とは一つだけ違うことがあった。

今日は、相談室で待ってくれている人がいる。

文子は笑美の手を握り直した。

「行こうか」

「うん……」

相談室には、梨花のほかに二人の女性がいた。

事前に同席の了承を得ていた麻里子と一絵だった。

「こんにちは。篠田麻里子です」

麻里子は穏やかに名乗った。

「困った時に必要な相談先につながるよう、お手伝いしています」

一絵も頭を下げた。

「西田一絵です。私は専門家ではないんですけど、以前、人生を壊されかけた経験があります。話したくないことは、無理に話さなくて大丈夫ですよ」

文子は驚いたように一絵を見た。

「一絵さんも……?」

「はい。私も、誰かを信じることが怖くなった時期がありました」

一絵は微笑んだ。

「でも、助けてくれる人がいたんです」

文子の目が潤んだ。

「私……こんなこと、誰にも言えなくて……」

麻里子が答えた。

「話すのは勇気がいりますよね。ここでは、焦らなくていいんですよ」

その時だった。

文子の隣で、笑美が小さく口を開いた。

「……おこらない?」

三人の視線が、そっと笑美に向けられた。

梨花が椅子から立ち、笑美の目線に合わせてしゃがんだ。

「怒らないよ」

笑美は母親の服をぎゅっと握った。

「えみ……わるいこ?」

文子が息を詰まらせた。

一絵は唇を噛んだ。

麻里子の目にも涙が浮かんだ。

梨花は、ゆっくり首を横に振った。

「笑美ちゃんは、悪い子じゃないよ」

「でも……」

「うん?」

「パパ、えみのこと、わるいこって……」

笑美の小さな声が震えた。

「えみ、いうこときかなかったから……」

梨花は優しく答えた。

「言うことを聞けなかった時があっても、叩かれていいわけじゃないよ」

一絵も口を開いた。

「笑美ちゃん、四歳なんやもん。できないことがあって当たり前やし、失敗してもええんよ」

麻里子が続けた。

「大人が怒鳴ったり叩いたりするのは、笑美ちゃんのせいやないからね」

笑美は三人の顔を順番に見た。

そして、ようやく小さな声で言った。

「……いたかった」

文子の顔が崩れた。

「笑美……」

「パパ、こわかった……」

笑美の目から涙がこぼれた。

「えみ、ないたら……もっとおこるから……」

文子は娘を抱きしめた。

「ごめんね……笑美、ごめんね……」

笑美も母親の服に顔を埋めた。

「ママ……」

「うん……」

「ママ、いなくならない?」

文子は娘を強く抱きしめた。

「いなくならない。ママ、笑美と一緒にいるよ」

「ほんと?」

「うん。笑美を守るからね」

母娘の泣き声が、小さな相談室に響いた。

梨花たちは、二人を急かさなかった。

今、この母娘に必要なのは、誰にも怒鳴られず、安心して泣ける時間だった。

第八章 家族を守るということ

その日から、文子と笑美を守るための支援が本格的に動き始めた。

梨花は病院で必要な診察記録を整え、児童相談所などの関係機関と連携した。

麻里子は、文子が一人で複雑な手続きに向き合わなくてもよいよう、専門相談員や弁護士への相談を手伝った。

一絵は、文子と笑美が安心して食べられるよう、温かい料理を用意した。

そして、篠田旅館の女将である七海と料理長の光博も、できる限り協力することを申し出た。

「二人が安心して眠れる場所を用意したいね」

七海が言った。

光博もうなずいた。

「食事のことは任せとき。あったかいもんを食べてもらおう」

旅館では、支援機関と安全性を確認したうえで、二人が過ごせる部屋を整えることになった。

所在地や滞在については、不用意に外部へ知らせない。

一之介からの連絡や接触があった場合の対応も、関係機関と相談して決めた。

一方、文子は少しずつ、自分自身の希望を口にするようになった。

「私……夫とは、もう一緒に暮らせないと思います」

梨花は静かに聞いていた。

「笑美を、あの家に戻したくありません」

「うん」

「離婚も考えています。でも、怖くて……」

麻里子が答えた。

「離婚のことも、安全のことも、専門家と一緒に一つずつ考えましょう。今日全部決めなくても大丈夫です」

一絵も続けた。

「これからは、文子さん自身の気持ちも大事にしてくださいね」

文子は涙を浮かべながらうなずいた。

「ありがとうございます……」

第九章 折り紙の犬

数日後。

篠田旅館の小部屋には、穏やかな午後の日差しが差し込んでいた。

笑美は畳の上に座り、折り紙を眺めていた。

そこへ、一絵の息子である一幸がやってきた。

「笑美ちゃん、これ見て!」

一幸が手にしていたのは、折り紙で作った犬だった。

「わんちゃん?」

「そう! これ、笑美ちゃんにあげる!」

笑美は驚いたように一幸を見た。

「……えみに?」

「うん!」

「もらって、いいの?」

「もちろん!」

笑美はおそるおそる手を伸ばした。

ピンク色の小さな犬。

折り目は少し曲がっていたが、一生懸命作ったことが伝わってくる。

「……ありがとう」

一幸は嬉しそうに笑った。

「怖い時は、わんちゃんにぎゅーってするといいよ!」

笑美は折り紙の犬を胸に抱いた。

そして、ほんの少し笑った。

それを見た文子の目に、涙が浮かんだ。

娘が笑う姿を、いつから見ていなかったのだろう。

以前は、些細なことで笑っていた。

道端に咲く花を見つけた時。

好きな絵本を読んでもらった時。

母親と一緒にお菓子を作った時。

そんな当たり前の笑顔が、いつの間にか消えていた。

文子は笑美の隣に座った。

「かわいいわんちゃんやね」

笑美は母親を見上げた。

「ママ、みて!」

「うん、見てるよ」

「えみの、わんちゃん!」

その声は、まだ小さかった。

しかし、そこには確かな喜びがあった。

部屋の入り口から見守っていた一絵が、そっと目元を拭った。

「よかった……」

隣にいた麻里子も微笑んだ。

「ほんまに、よかったね……」

梨花は何も言わず、二人の姿を見つめていた。

第十章 小さな声を聞く家族たち

夕方。

文子は梨花、麻里子、一絵に改めて頭を下げた。

「皆さん、本当にありがとうございます」

梨花が答えた。

「これからも、まだ大変なことはあると思います」

「はい……」

「でも、困った時には相談してください。一緒に考えてくれる人たちがいます」

麻里子も続けた。

「一之介さんとの問題は、専門家の力も借りて進めましょう。文子さんが全部一人で背負う必要はないんです」

一絵は微笑んだ。

「笑美ちゃんが、安心して毎日を過ごせるようになるといいですね」

文子は窓の外を見つめた。

旅館の庭には、夕日が差し込んでいる。

以前なら、この時間になると怖くなっていた。

夫が帰ってくる。

今日は機嫌がいいだろうか。

笑美は怒鳴られないだろうか。

料理に文句を言われないだろうか。

毎日、そんなことばかり考えていた。

けれど、今は違う。

窓の向こうから、一幸と笑美の声が聞こえてきた。

「笑美ちゃん、今度は鶴を折ってみよう!」

「えみも、できる?」

「できるよ! 一緒にやろう!」

文子は目を細めた。

「私……娘が笑う声を聞くのが、こんなに嬉しいなんて……」

声が震えた。

「ずっと、忘れていた気がします」

梨花は静かに答えた。

「これから、少しずつ取り戻していきましょう」

文子はうなずいた。

「はい」

そして、はっきりと言った。

「私、笑美と幸せに暮らしたいです」

三人は微笑んだ。

その言葉は、文子が初めて自分の意志で口にした、未来への希望だった。

     *

夜。

篠田旅館の廊下に、柔らかな灯りがともっていた。

梨花と麻里子、一絵は、しばらく廊下の窓辺で話していた。

「昔の自分たちを思い出すね」

一絵が呟いた。

麻里子がうなずく。

「うん。誰かに助けてって言うのは、本当に難しいことやからね」

梨花は庭に目を向けた。

「でも、文子さんは来てくれた。笑美ちゃんを連れて」

その声には、静かな感慨があった。

「病院の受付でも、ずっと周りを気にしてたんやって。誰かが立ち上がっただけで、笑美ちゃんを自分の後ろに隠したそうや」

一絵は目を伏せた。

「どれだけ怖かったんやろう……」

麻里子が言った。

「それでも、娘を守ろうとして、ここまで来たんやね」

梨花は深くうなずいた。

「うん」

三人は、しばらく黙っていた。

かつて、自分たちも傷ついた。

信じていた人に裏切られ、家庭や人生が壊れかけた。

それでも、支えてくれる人がいた。

話を聞いてくれる人がいた。

だから、今ここにいる。

梨花は静かに口を開いた。

「笑美ちゃんが大きくなった時、今日のことを思い出して苦しくなる日が来るかもしれない」

麻里子がうなずいた。

「そうやね」

「でも、その時に、自分が悪かったんじゃないって思えるようになってほしい」

一絵が答えた。

「そのためにも、これからも見守っていきたいね」

その時、部屋の奥から笑美の声が聞こえてきた。

「ママー! わんちゃん、いっしょにねんねする!」

文子の優しい声が返ってきた。

「うん。一緒に寝ようね」

「ママも?」

「もちろん。ママも一緒だよ」

「えへへ……」

小さな笑い声が響いた。

梨花は、その声を聞いて微笑んだ。

家族とは、血のつながりだけで決まるものではない。

安心して泣ける場所。

怖いと言える場所。

助けてと言える場所。

そして、失われかけた笑顔を取り戻せる場所。

そんな場所を一緒に作ろうとする人たちも、また、家族のような存在になれるのだ。

部屋の中では、笑美がピンク色の折り紙の犬を大切そうに抱いていた。

「ママ……」

「なあに?」

「きょう、たのしかった」

文子の目に、また涙が浮かんだ。

今度は、悲しい涙ではなかった。

「うん。ママも楽しかったよ」

「また、あしたも?」

「うん。明日も楽しいこと、探そうね」

笑美は嬉しそうに微笑み、母親の胸に顔を埋めた。

文子は娘の髪を優しく撫でた。

もう、父親の足音に怯えながら眠る夜には戻りたくない。

娘が失敗しても、泣いても、笑っても、安心して過ごせる毎日を作りたい。

その思いを胸に、文子は笑美を抱きしめた。

窓の外には、穏やかな夜の京都の街並みが広がっていた。

四歳の少女が安心して「おやすみ」と言えること。

それは決して特別な幸せではない。

本来、すべての子どもに守られるべき、当たり前の幸せなのだから。

――後日談「小さな声を聞く家族たち」終――

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