第二章:追放と黒き「律」との邂逅〜第7話:契約は「ホットミルク」一杯で〜
第7話です。
九条律からの「ホットミルク」の提案。
実は私自身がどん底の精神状態で弁護士事務所を訪ねた際、
一番に欲しかったのは法的なアドバイス以上に、こうした「人としての体温」だった気がします。
甘いミルクの香りと共に、心が少しずつ解けていく温度感を感じていただければ幸いです。
漆黒のセダンが跳ね上げる水飛沫の音が分厚い防音ガラスの向こう側へと消えた。
車を降り幾つかのゲートを無言で通り抜け辿り着いたのは――九条法律事務所。
床には深い紺色の絨毯が敷き詰められ壁一面には重厚な革表紙の背表紙が並ぶ。
そのあまりに完璧な静謐さがかえって俺の心拍数を跳ね上がらせていた。
「……あ」
絨毯を汚さないよう縮こまって立っている俺の視界に長い指先が入り込む。
九条律が俺の手から「ふやけた段ボール箱」を無造作に取り上げた。
「あ、すみません。汚れますから……」
「構わない。中身を濡らさなかったこと。
君のしたことは、それだけで称賛に値する」
律はそう言い捨てると段ボールをサイドテーブルへと置いた。
彼の動きには一切の無駄がない。
コートを脱ぎ捨て執務机の椅子に深く腰掛ける姿は、まるでこの場所の一部として最初から設えられていたかのような、圧倒的な収まりの良さがあった。
「座りたまえ。一ノ瀬陽くん。……いや、ハル」
律の瞳が俺を射抜く。
その瞳は阿久津や毒山のそれとは全く違っていた。
見下すでもなく利用しようと舐めるのでもない。
ただそこにある事実を俺という個体をあるがままに観測し受け入れる。
そんな恐ろしいほどに純粋な「鏡」のような瞳だ。
俺はおそるおそる対面の椅子に腰を下ろした。
上質な革の感触が濡れた俺の服を通して冷たく伝わってくる。
沈黙。
時計の針が刻む音さえ、この空間では意味を失う。
俺の頭の中ではまだあの機械的な音声が残響していた。
『――システム……安定。……九条律との……信頼パス……構築中』
左眼の奥に感じる鈍い熱。
兄さんが遺した力。
八十六人の亡霊たちの叫び。
そして目の前にいる鉄面皮の弁護士。
「……九条さん。単刀直入に聞かせてください」
俺は膝の上で震える拳を強く握りしめた。
「兄さんとの縁があるとはいえ、あなたは……凄腕の弁護士だ。
そんなあなたが会社をクビになり地位も名誉も失った一介のシステム屋を助ける理由が分かりません。
……僕はあなたに何を払えばいいんですか?」
そうだ、タダより高いものはない。
この数年間俺がブラック企業で学んだ唯一の真理は「人間は利益のために動く」ということだ。
阿久津は俺の「真心」を燃料にして金を稼いだ。
毒山は俺の「休日」を犠牲にして自分の評価を買った。
なら九条律は何を欲しがる?
俺の残りの人生か?それとも俺の左眼に宿ったこの「力」か。
俺の問いに律は視線を外さなかった。
彼はゆっくりとデスクの上に置かれた小さなベルを鳴らした。
「ハル。君の言う通り私の報酬は高い。
この事務所を動かしイーヴェル社という巨大な泥船を沈めるには、それ相応の対価を要求させてもらう」
その声の冷たさに背筋が凍る。
やっぱりそうなんだ。
俺に払えるものなんてもう何もない。
貯金だって陽向の治療費に消えていく。
「記録」を差し出せと言われれば俺は……。
コンコンと扉がノックされた。
入ってきたのは初老の喫茶店のマスターのようだった。
銀のお盆の上には湯気を立てる二つのマグカップ。
律はそのうちの一つを俺の前にスライドさせた。
「――話をする前に。まずはこれを流し込め。
君のような『衰弱した依頼者』と契約を結ぶほど私はお人好しではないのでね」
俺は呆然として目の前のカップを見つめた。
白く優しい湯気が立ち上っている。
「……ミルク……?」
「ホットミルクだ。ハチミツを少量加えてある。
君の脳が今、最も必要としているのは『糖分』と『体温』だ。
……着手金(金銭)を受け取ろうにも今の君の財布は凍結されているも同然。
ならばそのミルクを飲み干し対等に議論ができる状態になること。それが現時点での『前提条件』だ」
律は自分の分のカップを手に取ると、感情を一切見せない顔で一口啜った。
「私の本契約における『報酬』は、この『ホットミルク』一杯分だ。
……ただし、これには厳しい条件がある」
彼は一度言葉を切りカップを置いた。
カチリ、と陶器が机に当たる音が妙に重く響く。
「……そのミルクは君が自分の手で淹れたものに限る。
君が失ったものを取り戻し不当な減額分を奪い返し、あの男たちを奈落の底へ突き落としたその後に、改めてこの事務所に来て私に一杯のホットミルクを振る舞うこと。
……それが私の契約条件だ」
何を言っているんだ、この人は何を言っている?
ホットミルク一杯?
あの巨大企業のCEOを運用部長を人事部長を……社会的に抹殺し俺の尊厳を取り戻すための報酬がたったそれだけ?
「冗談……ですよね?
僕がどれだけ危険なことを頼もうとしているか、分かっているはずです。相手は……」
「阿久津誠。毒山礼二。外道真人。……そして黒岩鉄男。……ああ、理解している。どれも塵芥のような連中だ。
掃除をするのに特別な理由は必要ない。君の兄に頼まれたこともあるが……何より、私の『アイギス』が君の『ログ』を必要としているだけだ」
律は氷のような瞳で俺を見つめたまま一言一言を噛み締めるように言った。
「ハル。君は、自分の価値を低く見積もりすぎている。
君がイーヴェル社に捧げ捨てられた『真心』……その記録こそが、この腐り切った業界を焼き尽くすための唯一の聖域なんだ。……そんなものを金ごときで買えると思うな」
……ああ、その瞬間だった。
俺の心臓の奥に溜まっていた重く冷たい鉛のような塊がスッと溶けていくのを感じた。
「代わりはいくらでもいる」と言われ透明な部品のように扱われてきた俺。
自分の価値が分からなくなり雨の中で消えてしまいたいと思っていた俺。
そんな俺の「真心」をこの人は価値のあるものだと言ってくれた。
気づけば俺はマグカップを両手で包み込んでいた。
温かい。
手のひらからじわじわと温度が全身に広がっていく。
一口啜ってみた。
甘い。驚くほどに。
ハチミツの濃厚な甘さとミルクの優しいコク。
鼻をくすぐる温かな香りが張り詰めていた俺の神経を一本ずつ解きほぐしていく。
「……美味しい……です」
「そうか。なら、契約は成立だ」
律は満足したのかあるいは最初から分かっていたのか、口角を微塵も動かさずに頷いた。
「君の背後は私が守る。君の記録は私の法が守る。
……一ノ瀬陽。君はもう、一人で戦う必要はない。
……その覚醒した力を誰のためでもなく君自身のために使いなさい」
律がサイドテーブルに置いてあった段ボールから俺のノートを取り出した。
俺があの地獄のような毎日の中で、いつか誰かに見つけてもらえると信じて書き続けたあのメモ。
「……さあ、始めようか。
君を傷つけたすべての『不実』を世界に白日の下に晒す作業を」
律のデスク上の巨大なモニターが青白い光を放って起動する。
雨の音はもう怖くなかった。
俺の左眼がかつてないほど鮮明に律の指先から溢れる「法の粒子」を捉えていた。
俺たちの反撃の契約。
それは世界で一番甘くて温かい、一杯のホットミルクから始まった。
第7話を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
律が提示した「ホットミルク一杯」という契約条件。
孤独だった戦いにようやく絶対的な味方が現れました。
次回、第8話:「法という名の牙」。
律の事務所で初めて起動される異能。
その最初の標的は「ゴミ箱行き」と嘲笑った、あの男です。
【皆さまへ】
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