第四章:崩壊する砂上の楼閣〜第18話:黒岩弁護士の圧迫〜
第18話です。
第四章の真のボス、顧問弁護士・黒岩が登場します。
法を武器に弱者を踏みにじり、不都合な真実を「黒いインク」で塗り潰してきた、
まさにデシメーターズの宿敵。
彼の放つ圧倒的な「圧迫」に、陽は刑事罰という恐怖を突きつけられます。
六月末の雨は止むことを知らない。
九条法律事務所の応接室には湿り気を帯びた空気と、モニターが放つ冷徹な青い光が沈殿していた。
窓ガラスを叩く雨音は、まるで俺たちの神経を逆撫でするメトロノームのように一定のリズムを刻んでいる。
俺、一ノ瀬陽は冷え切った珈琲のカップを両手で包み込んでいた。
隣では真希が祈るように手を組み、佐藤さんは低い唸り声を上げながら俺と律さんの背後でモニターを凝視している。
芽衣さんと凛さんもいつもの余裕を消してキーボードを叩く指を止めて画面を見据えていた。
カウンターの奥に立つマスター・アーカイブは何も言わず、ただ鋭い眼光でモニターの推移を追っている。
事務所にいる全員が一つの巨大な「悪」が姿を現すのを待っていた。
そんな時、俺の胸の中にある『バイナリ・サン』が不気味なノイズを検知していた。
「……来るぞ、ハル。深呼吸しろ」
律の声が低く鋭く室内に響く。
彼の手元にある『アイギス・コード』が警告の赤色に点滅した。
次の瞬間正面の大型モニターにノイズ混じりの映像が投影される。
『――失礼。
株式会社イーヴェルの法的代理人を務めております弁護士の黒岩鉄男です』
画面に映し出したのは深い皺が刻まれた岩のような顔を持つ男だった。
仕立ての良い三つ揃えのスーツ。
冷淡な光を宿した細い眼。
その背後にはイーヴェル社の役員室ではなく書物に埋め尽くされた薄暗い書斎が見える。
黒岩鉄男。
これまで数多の労働問題を「解決(もみ消)」し被害者を絶望の淵に沈めてきた、阿久津の懐刀にして「黒の守護神」。
「……九条律先生。
若くして独立されたそうですが、少々勇気が過ぎるのではないかな?」
黒岩の声はまるで墓石を擦り合わせたような重苦しく圧迫感のある響きを持っていた。
その声が響いた瞬間源さんが「チッ……反吐が出るぜ」と吐き捨てウサギのヘアゴムを強く結び直した。
応接室の室温が数度下がったかのような錯覚に陥る。
『今回の八十六名による提訴。およびネット上での機密情報の拡散。
これらは明白な『営業秘密の侵害』であり一ノ瀬陽氏による『不正アクセス』の結果と判断せざるを得ません』
「……なんですって?」
俺は思わず声を漏らした。
「不正アクセスですって!?先輩はそんなこと……!」
真希が身を乗り出して叫ぼうとしたが凛さんが静かにその肩を制した。
凛さんの瞳もまた怒りで鋭く細められている。
『君は刑事被告人として人生を終えることになる。
……提訴を取り下げ謝罪するなら告訴は検討してやろう。
……弟さんの将来も、これで閉ざされることになるが……』
――陽向。
弟の名前が出た瞬間俺の視界が真っ赤に染まりそうになった。
背後で佐藤さんの拳がみしりと音を立てた。
「……貴様、ガキを脅しに使いやがったな……!」
静かな怒号が事務所の空気を震わせる。
「奴の狙いは思考の攪乱だ」
律が俺の肩を強く掴んだ。
彼の指先の力強さが俺の逆立ちかけた意識を強引に引き戻す。
律は『アイギス・コード』を掲げ黒岩の視線を真正面から受け止めた。
「黒岩先生。
法を説く前にご自身の足元を確認されてはいかがですか?
貴方が主張する『不正アクセス』の根拠となるアクセスログ……。
それは御社が提出した『一ノ瀬陽は無能で何の権限も持たされていなかった』
という主張と真っ向から矛盾しますが?」
『フン。詭弁だな。
権限がない者がシステムに触れたからこそ不正アクセスなのだよ』
「いいえ。
一ノ瀬陽は御社が正式に雇用しシステムの保守管理を『一任』していたディレクターです。
彼が業務上知り得た情報は正当な職務権限に基づくものだ。
……むしろ彼一人にそれだけの負荷を強いていた事実こそが、貴社の安全配慮義務違反を証明している」
律の声は氷の刃のように鋭かった。
だが黒岩は動じない。むしろさらに深く沈むような圧力を増していく。
『……九条先生。
君はまだこの世界の『色』を知らないようだ。
法とは正義をなすための道具ではない。
勝者が敗者の口を封じるために塗る『黒いインク』なのだよ。
……君がどれだけ正論を吐こうと我々が用意した数千ページの『証拠』が君たちを塗り潰す』
モニターの端に膨大なファイル群が表示される。
「解析を回して! 偽造の痕跡を洗うわよ!」
芽衣さんの鋭い指示が飛び、源さんと真希が即座にそれぞれの端末へ飛びついた。
デシメーターズ全員が黒岩が放った「黒いインク」を撥ね退けようと死に物狂いで指を動かす。
(……真実をこれ以上奪わせない。……弟の未来を汚い手で壊させない。絶対に。)
俺は目を閉じた。
背後で戦う仲間たちの気配を感じる。
タイピング音、荒い鼻息、静かな怒り。
それが俺の意識を加速させる。
俺は一人じゃない。
この事務所にいる全員の想いが、俺の左眼に流れ込んでくる。
「……バイナリ・サン、フル出力。……黒岩鉄男の全履歴を解析」
脳内を情報の奔流が駆け抜ける。
自信に満ちていた老獪な顔がまるでひび割れた石像のように崩れていく。
鼻の奥が鉄の匂いで満たされ左眼が灼熱の熱を帯びる。
見えた。
黒岩が「黒の守護神」として築き上げてきた巨大な虚飾の城。
その最深部。
五年前ある小さな工場を倒産に追い込み経営者を自死させた事件の本当の記録。
黒岩が裁判所の証拠品保管庫のデータを「直接」書き換えた致命的な痕跡。
「……律さん。……見つけました」
俺は絞り出すような声で言った。
律が俺の意図を瞬時に察する。
「黒岩先生。
……貴方は『黒いインク』で世界を塗り潰せると言いましたね」
律の指が俺が抽出した「黄金のパケット」を黒岩のモニターへと叩き込んだ。
「ですがハルの視る世界には貴方が五年前の冬、午後三時四十二分にアクセスした、あの裁判所のバックアップ・ログも含まれているんですよ」
画面の中の黒岩の表情が初めて凍りついた。
額から脂汗が滲み老獪な弁護士としての仮面が、内側からボロボロと崩れ落ちていく。
(……馬鹿な。私の『黒いインク』がこれほど容易く弾かれるというのか。
一ノ瀬陽……この男何者だ。この得体の知れない異常性……かつて煮え湯を飲まされた
あの”桜庭”と同等あるいはそれ以上だというのか……!)
黒岩の瞳に初めて明確な「恐怖」の色が混じった。
彼にとって”桜庭”とは理解を超えた存在の代名詞であり、ハルの中にそれと同じあるいはさらに深い深淵を視てしまったのだ。
「やった……!」
真希が小さく声を上げ、佐藤さんが「ざまぁみろ」と野太い声で呟いた。
事務所中の空気が、逆転の予感に一気に熱を帯びる。
「……次の一手はこちらから打ちます。
……法廷で会いましょう。……『犯罪者』としてね」
律が冷徹に告げ、通信を遮断した。
応接室に再び雨音だけが戻ってくる。
張り詰めていた緊張が解け、源さんが大きく椅子を回して天井を仰いだ。
芽衣さんは不敵な笑みを浮かべてタブレットを閉じ、凛さんは満足げに頷いている。
「ハル。……よくやった」
律が俺に温かいタオルを手渡してくれた。
その手は微かに震えていた。
「先輩、すごいです……!」
真希が涙を浮かべて俺の手を握る。
佐藤さんも俺の肩を強く叩いた。
「坊主、よくあの化け物を黙らせたな。大金星だ」
窓の外では雨がさらに激しさを増している。
だが俺の心の中は不思議と澄み渡っていた。
黒いインクはもう通用しない。
俺たちが手にした黄金の光がすべての嘘を焼き尽くすまで。
第18話を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「法とは勝者が塗る黒いインクだ」という彼の歪んだ美学は、
ある意味でブラック企業の象徴でもあります。
次回の更新は、第19話:「それぞれの末路」。
本筋のシリアスなバトルの合間にかつてハルを馬鹿にしていた同僚たちが
沈みゆく泥舟(イーヴェル社)の中で醜く責任を擦り付け合う様子をコミカル且つ残酷に描写します。
【皆さまへ】
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