第一章:陽光の潰える刻(とき)〜第2話:誠実という名の生贄〜
第2話です。
今回は、主人公・陽が置かれていた「1人で7人分」という異常な現場の実態を書きます。
実はこれも私自身がかつて上司から「他のチームはできている。無謀ではない」と言われ、
物理的に不可能な業務を押し付けられた経験を投影しています。
誠実であろうとすればするほど、それが「都合のいい生贄」にされていく。
そんな理不尽な空気感を、物語を通して共有させていただければと思います。
※本作は一部、作者の実体験に基づいた描写が含まれます。
視界の端でデジタルの時計が午前三時二十分を回ったのを告げた。
オフィスの空気は淀み、吐き出した二酸化炭素が肺に逆流してくるような錯覚に陥る。
青白いディスプレイの光だけが俺の網膜を焼き瞬きをするたびに砂を噛んだような痛みが走った。
静まり返ったフロア。
カタカタ、というキーボードの打鍵音だけが、俺がまだ「人間」として機能していることを証明する唯一の拍動だった。
「……あと、三つ。いや、四つか」
独り言をこぼすが声は掠れて喉に張り付いた。
俺の作業用ディスプレイには到底一人で扱う数ではないウィンドウが並んでいる。
本来この『株式会社イーヴェル』の運用チームにはディレクターが七人いた。
それが一人消え、二人辞め、三人が「体調不良」で来なくなった結果、残った全ての業務が俺の元へ「合流」した。
不具合の調査、クライアントへの修正報告、設定データのコンパイル、後輩が投げ出した企画の尻拭い。
本来なら分業してそれぞれの専門家が時間をかけて吟味すべき仕事だ。
それを俺はたった一人で回している。
いや、回さ「されて」いる。
『――一ノ瀬くん、君ならできる。これは期待の表れだよ』
耳の奥で運用部長・毒山の声が再生された。
あの脂ぎった顔。
三ヶ月前、俺を部長室に呼び出し、三日月のような笑みを浮かべて放った言葉。
かつて七名で行っていた設定業務。
それを一人でやるように命じられた際、俺が「物理的に不可能です」と震える声で訴えた時の答えだ。
『他もやっていることだ。無謀じゃない。
むしろ、これをこなせば君の評価は不動のものになる。一ノ瀬くんは優しいからね。
仲間が困っているのを放っておけないだろう?』
それは賞賛の形をした呪いだった。
毒山は知っていたのだ。
俺が周囲の期待に応えようと自分を削る「聖人気質」であることを。
そして病弱な弟・陽向の治療費のために、この場所を絶対に手放せない弱みがあることを。
――俺の「真心」を、奴は最初から「餌」としてしか見ていなかった。
「……っ」
手が止まる。
胃の奥から込み上げてくる酸っぱい何かに俺は口を押さえた。
吐き気。
慢性的な睡眠不足とストレスが自律神経をズタズタにしている。
ディスプレイに映る自分の顔は死人そのものだった。
頬はこけ瞳の光は濁り、ただただ流れてくるデータを処理するためだけの生体部品。
なぜ俺なんだ?
ふと、そんな問いが脳裏をよぎる。
他にも社員はいる。
十人隊の連中だって定時には飲みに出かけて、SNSに贅沢な飯の写真をアップしている。
俺が血を吐く思いで守っているシステムの平穏をあいつらは当然の権利として享受し俺を「便利屋」として嘲笑っている。
『一ノ瀬さーん、これ明日までによろしくね!
俺、これから合コンなんで!』
『ハル君、これ前回のミス修正しといてくれた?
あ、サンキュー。マジ助かるわー』
あいつらの顔がノイズのように脳裏に浮かんで消える。
俺が「えへへ、大丈夫ですよ。みんなが助かるなら」と笑って引き受けるたびに、あいつらの内側にある「悪意」は肥大化し、俺を搾取することに何の罪悪感も抱かなくなった。
俺の善性はこの会社においてはただの「隙」に過ぎなかったのだ。
誠実に生きることがこれほどまでに自分を傷つける刃になるなんて、誰が教えてくれただろうか。
チャットツールが不吉な音を立てて通知を弾いた。
送信者は、毒山。
【毒山:一ノ瀬くん。追加の修正依頼がきた。
Aプロジェクトの全ログを見直して、明日の朝九時までにサマリーを。
それとBプロジェクトの設定漏れ君のチームの責任だから、ついでにやっといてね】
血の気が引く。
Bプロジェクトは俺の担当じゃない。
それは先ほど「合コン」に行った同期のゴミ川が担当していたはずのものだ。
ミスの責任を俺に押し付け自分は遊び歩く。
そして部長はそれを知りながら俺に「ついで」として投げる。
「……ふざけるな」
掠れた声が深夜のオフィスに落ちた。
拳を握りしめるが指に力が入らない。
怒りで体が震えているのか、疲労で神経が悲鳴を上げているのか、もう分からなかった。
やりたくない。
今すぐ電源を落として雨の降る外へ飛び出したい。
けれどディスプレイの横に置いた陽向の写真が目に入る。
俺がここで折れればあの温かい笑顔を失うことになる。
高額な薬代。安定した生活。
それを人質に取られている以上、俺に「拒絶」という選択肢は許されない。
俺は震える手でマウスを握り直した。
キーボードを叩く。
指先が自分の意志とは無関係に奴らの望む「完璧な仕事」を再現していく。
それが俺の技術であり誇りであり……そして俺を死へと追いやる呪縛そのものだった。
窓の外では夜の闇が少しずつ濁った白へと溶け始めていた。
朝が来る。
それは希望の夜明けではない。
また新たな搾取と絶望の時間が始まる合図だ。
俺の「誠実」は奴らの腹を満たすための生贄に過ぎない。
俺の「真心」はあんな男たちの贅沢のために消費される燃料に過ぎない。
脳が、心が、磨り減っていく。
もう、限界だ。
何かが、プツリ、と音を立てて切れそうになる。
その「何か」がのちに俺に宿る異能への導火線であることに、この時の俺はまだ、気づいていなかった。
「……真心なんて、届かなければ……ゴミと同じだ」
乾いた笑いが漏れる。
俺の中に積もり続けた真っ黒な「怒り」のログ。
それが臨界点を超える日は、もう、すぐそこまで迫っていた。
第2話をお読みいただき、ありがとうございました。
必死に現場を支えてきた陽を待っていたのは、
ねぎらいの言葉ではなく更に彼を追い詰める卑劣な罠でした。
次回、第3話「選民たちの円卓」。
「君は、ただ運が良かっただけなんだよ」
豪華な役員室で、陽が積み上げてきた努力を「コスト」として切り捨てる男たち。
彼らの傲慢な笑い声が陽の心に宿った「断罪の火」をさらに激しく燃え上がらせます。
【皆さまへ】
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